懐(ふところ)に抱かれて物静獄中にあり、むなしく苦しみを味わっている。ある夜夢に瑞泉寺をたずねた。」という意味の吉田松陰の漢詩が刻まれています。
1853年(嘉永6年)6月、黒船が4隻浦賀に来たとき、吉田松陰は、その黒船に乗りこんで海外に渡ろうとしたことがあります。そのときの住職は松陰の伯父(おじ)にあたる人で、竹院和尚(ちくいんおしょう)といいました。松陰は、和尚を瑞泉寺にたずねること前後四回ほどありました。松陰の計画は失敗して、長州(今の山口県)の野山獄(のやまごく)に捕われの身となりましたが、
幕末の思想家・吉田松陰にまつわる話を紹介しましょう。松陰には、高杉晋作をはじめ、後に幕末から明治維新にかけて活躍するたくさんの弟子がいました。
その松陰が主宰する松下村塾は萩(山口県)にあったのですが、そこで暮らしていた人たちは武士・農民を問わず、年に一回行われる村祭りでの酒盛りを楽しみにしていました。
松陰の弟子たちもそれを楽しみにしていて、講義が終わった後、みんな出かけようとしました。その中には、とても勉強熱心な青年が一人いて、彼も村祭りに出かけようとしたのですが、
そこで瑞泉寺を想う漢詩を残したのです。吉田松陰は、明治維新以後活躍した長州藩の伊藤博文(いとうひろぶみ)や山縣有朋(やまがたありとも)などの教育をした人です。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
それを知った松陰は青年に次のように言ったのです。
「なんだ。キミまで酒盛りをするために村祭りに出かけるのか。キミなら私が貸してあげた書物を寝る間も惜しんで読むと思ったのになあ」
こう言われた青年は「先生は『キミまで』とおっしゃってくれた。そうか……。先生はそこまでして
私のことを目にかけてくれているのだ」と思い、村祭りに行くのを取りやめ、以来、毎晩のように猛勉強に励みました。
実はこの青年こそが、明治維新後、初代の内閣総理大臣になった伊藤博文なのです。