1603年、徳川家康の重臣であった内藤清成(きよしげ)が実父竹田宗仲の菩提のために鎌倉岩瀬の大長寺第4世・源栄上人を開山として創建。
内藤清成は当時、大島・田名・当麻・磯部・新戸の各地域を治める領主であったが、家康の三河以来の家臣で2代将軍秀忠の守役を命ぜられていたこともあり、家康公が存命中の鷹狩りの際にはここに立ち寄ったとされるほか、1617年、家康公の霊柩が久能山から日光へ遷御される際には、一行がこの場所で休息をとったといわれている。
宗仲寺は家康と関係の深い寺である。この寺の開基は内藤清成で、家康の側近として活躍した人であり、開山源栄上人も若いころから家康と親交があった上人である。
家康は鷹狩りを好み平塚に中原御殿、府中に府中御殿を建て、しばしば鷹狩りを催したといわれる。座間宿村は、中原御殿へ四里(約16km)府中御殿へ六里(約24km)という位置にあり、鷹狩りの道筋にあたっていたため、三回この宗仲寺にたちよって源栄と談話したことが、いくつかの史料の中に残されている。
駿州(静岡県)久能山に仮埋葬された徳川家康の遺骸は、家康の遺言により一年後、野州(栃木県)日光に移送されることとなった。
遺骸移送につきそう行列は千人近くに達し、荘厳の中にも悲しみを秘めて、1617年3月18日に出発した。途中、小休止する場所、宿泊する場所は、家康ゆかりの地が選定されていた。
家康の遺骸移送の行列は、座間宿に入り宗仲寺で小休止をした。に到着した一行は、遺骸を寺の境内に建てられた御殿に安置して、地頭内藤若狭守等の心づくしの接待を受け、昼も近かったので弁当の馳走にあずかり緊張感しばし解きほぐしたことであろう。
その間座間宿村では、町田の木曽村までの役夫として人足三人、馬一頭を整え、一行の出発を見送ったと「宗仲寺史」に記されている。
(座間むかしむかし第十六集 座間市教育委員会発行 1993/3/31 発行より)
(付記:家康の埋葬場所は「駿河説」と「日光説」があります。)