鎌倉 頼朝の娘、悲運の大姫の守本尊を安置「岩舟地蔵」

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 源頼朝の娘、大姫(大姫とは長女の意味、本当の名前はよく分からない。)を供養する地蔵堂。大姫は頼朝と北条政子とのあいだにできた最初の子。二十歳くらいで(1197年)なくなったようです。
 木曽義仲は頼朝の求めに応じて嫡子義高を人質として鎌倉へ送り、頼朝と和睦した。その時の条件として、表向きは、義高は頼朝の長女大姫(当時5、6歳)の婿として迎えられた。幼いながらも政略で夫婦とされた義高と大姫は仲睦まじいものだった。
 翌年の正月、木曽義仲が源義経・範頼率いる関東勢に破れ近江国粟津で敗死すると、頼朝は悩んだ挙げ句、義高の復讐を恐れ、義高を殺すことを計画したが、4月、頼朝の計画を知った大姫は、義高を女装させ鎌倉から秘かに逃がしたが、すぐに発覚、義高は武蔵国入間河原で、頼朝の命令によって後を追った堀親家の郎党藤内光澄に討たれた。