身延山久遠寺、池上本門寺と並ぶ日蓮宗最古の寺院。創建は1260年。
この地は比企能員の屋敷跡で、比企一族の勢力の拡大を恐れた北条時政が、後継者問題を口実に1203年比企の乱で攻め滅ぼした。その後比企能員の末子の比企大学三郎能本が、日蓮上人の為と比企一族の霊を弔う為にお堂を建てたのが始まり。
二門(総門と二天門)二堂(本堂と祖師堂)の日蓮宗の典型的な伽藍を有する。
お寺や神社の中には、霊を弔い、災いを防ぐという目的で建立されたものが多くあります。
医療が発達していない時代は、伝染病の原因が分からず、自分たちが手にかけた相手方の霊が仇を討つために、自分たちや、自分たちの子孫に、災いを及ぼしていると考えたのでしょう。敵方の霊を静かにさせておくため、莫大なお金を使い、お寺や神社を建立し、そこに敵方を祀り、災いが起きないよう祀ったのでしょう。
本堂には、木造の宝冠釈迦如来橡(ほうかんしゃかにょらいぞう)、日蓮上人像などが安置されています。この釈迦如来像は、室町時代の作とみられ、背面に「延宝五年(1677年)」に修理されたことが記されています。また本堂の屋根には、日蓮宗の「井げたに橘(たちばな)」の宗章紋(しゅうそう)や妙本寺の寺紋である源氏ゆかりの「笹(ささ)りんどう」の紋が金色に輝いています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
源頼朝の死後、実朝の周囲では凄まじい権力争いが起きていました。骨肉相食む争いでした。
頼朝を助け協力したことで幕府の重臣まで昇り詰めた梶原景時、頼朝の乳母で、伊豆流刑時代の頼朝を支えた比企尼の係累・比企能員、兄・頼家の長子の一幡、有力御家人の畠山、和田一族などなど。
母・北条政子と外戚の北条氏はそれら有力御家人を次々と粛清していったのです。
実朝は多感な少年期を、血を血で洗う戦いの中で過ごすことになったのです。
和田一族の叛乱討滅を成功せしめ、実朝死後も執権義時を助け、承久の乱を幕府軍の勝利にみちびき、義時の死後泰時の執権継承を推進するなど、北条独裁体制確立に協力して鎌倉幕府の基礎を固めた。
(「鎌倉事典」白井永二編より)
北条氏の権力維持のため、お飾りの将軍職を受け継いだ実朝の心境はどうだっただのでしょうか。実権のない将軍になった実朝が政治を嫌い、政治から逃避し、和歌の道へと突入していったのは、自分探しの旅だったのでしょう。
(「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著より)
北条氏の権力維持に協力したのは大江広元で、広元は頼朝の招きにより京都から鎌倉に下向以来、頼朝の家務を預り、信任厚く1191年、政所別当を兼ねた。頼朝没後は梶原景時の排斥、元実朝擁護のための比企能員勢力の排除などに参与し、以来、北条氏と協力して、将軍の廃立をはじめ畠山重忠・平賀朝雅・