【智恩寺山王大権現懸仏】
江戸時代には、智恩寺境内にあった山王社にまつられていた懸仏(かけぼとけ)が、現在では本堂の中に保存されています。
山王権現とは、日吉神社・日枝神社の祭神であり、権現とは仏・菩薩が化身してわが国の神として現れることを意味しています。また懸仏は銅などの円板上に、仏像・神像を半肉彫りにあらわし、柱や壁などにかけて礼拝したもので、特に鎌倉時代から室町時代にかけての資料が多く見られます。
智恩寺の懸仏は、中央の仏像を、左右に配された猿が拝む形式であり、刻まれている銘文から寛永13年(1636)に荻野の鋳物師である森久左衛門重久が鋳造したことが分かります。
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福山 鞆 オリジナルの観心行を行う「顕政寺」
鎌倉 法然上人が開祖か「鎌倉大仏高徳院」
開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳だが、高徳院では法然上人を開祖としている。
当初は、阿弥陀大仏を安置する大仏殿以外には付属する建物はなく、もともとは「大仏殿」が正式名称だった。
1238年に着工した大仏は木造。1247年、大風で倒壊。1252年に現在の青銅で鋳造された。1495年の津波で大仏殿が流され、露天の大仏になってしまった。この年は北条早雲が小田原城を奪取した年であり、鎌倉はすでに大仏殿を再建する経済力はなかったのでしょう。
かってこのあたりは鎌倉の西の果て、そのため、刑場があったり、流人が集まる場であったり、ハンセン病患者の収容施設があった場所。そうした場所を大仏によって「悪書」を「聖化」し、都市鎌倉、そして関東地方を護持させようとした。
尾道 海雲塔とも呼ばれる「天寧寺 三重塔」
鎌倉 敵味方の区別なく慰める「円覚寺」
相模原南 北条氏照の娘貞心尼が中興開基「天應院」
尾道 蓮花坂(れんが坂) から 大山寺へ
鎌倉 松葉ケ谷法難の跡「安国論寺」
厚木 仏様が神社の中に「大釜大弁財天尊」
鳥居や燈寵3基が入口に建てられ、れっきとした神様として祭られています。実は弁天様は仏教に属する仏様で、美しい仏様が神社に祭られ信仰されているのは奇妙なことです。一般の庶民は、ただひたすら身近な御利益だけを願い仏様を神様にして拝んだのでしょうか。
大釜弁財天では、かつて日照りが続いた時、村中はもとより近郷近在の農家の人々が相寄り、お坊さんを頼み、大釜の内部に入ってお経をあげてもらった後、お坊さんが出てくるところを人々がバケツや手桶で水を掛けたり、滝壷の水をかい出したりするとともに、雨を降らせる一心から宇賀神を怒らせる素朴な願いで身に付けている六尺揮(ふんどし)をはずし、その褌で蛇を洗って雨乞いが行われていました。
福山 鞆 福山藩との結びつきが強かった「明圓寺」
鎌倉 八幡太郎義家が白旗を立てた「源氏山公園」
尾道 生口島 1936年から建立が始まった「耕三寺」
鎌倉 祖先をまつる神社「御霊神社」
尾道 駅を降りすぐ海が「尾道駅前海岸」
厚木 古くは牛頭天王社といった「厚木神社」
鎌倉 中興開基は足利尊氏の父・貞氏「浄妙寺」
尾道 生口島 日本画家・平山郁夫氏も遊んだ「向上寺」
1400年 生口守平の開基、臨済宗仏通寺派 愚中周及の開山により臨済宗の寺院として創建されたのに始まり、向上庵と号した。一旦衰退したが、江戸時代に入り1609年 関的が入寺して再興し、曹洞宗に改められた。
国宝の三重の塔は、1階の軒は2軒本繁垂木の扇垂木。つまり二重になっている繁垂木で、垂木が平行ではなく隅の部分で45度になるよう、扇が開いたようになっている。
組み物は唐様の柱上の組み物が3段に積み上げている構造。和洋に唐様が取り入れられて形式で、各層に花頭窓があるほか、建物の装飾が見事。
三重塔の周囲が日本画家・平山郁夫氏の幼少時代の遊び場だったとのこと。また、よくスケッチしたお寺でもあります。
厚木 荻野山中藩陣屋跡に「山中稲荷神社」
現在の下荻野字山中には、荻野山中藩大久保家の陣屋がありました。
この大久保家は、相模国愛甲郡中荻野村を中心として、合計1万3千石を領した小さな大名でした。初代の大久保教寛(のりひろ)は、小田原藩主大久保忠朝の次男で、元禄11年(1698)、相模国足柄上郡、駿河国駿東郡内の新開地6千石を分けられ、分家しました。宝永3年(1706)駿河国駿東郡、富士郡に5千石の加増を受けて1万1石の大名となり、更に享保3年(1718)には、相模国大住郡、高座郡、愛甲郡内に5千石の加増を受け、総計1万6千石となります。
天明3年(1783)頃、5代教翅(のりのぶ)は、陣屋をこの地に移し、以後、荻野山中藩と呼ばれるようになりました。