鎌倉 龍口寺輪番八ヶ寺の一つ「本成寺」

 門を入った正面に本堂があり、右側に墓地、左側に庫裏(くり)があります。日蓮(にちれん)の弟子日賢(にっけん)が1309年(延慶2年) に開いたと伝えられています。本尊は、三宝本尊(さんぽうほんぞん)(祖師(そし))という「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のお題目が書かれた塔と釈迦如来(しゃかにょらい)、多宝如来(たほうにょらい)で、日蓮上人像とともにまつられています。

 また、岩の上のキッネにまたがった稲荷明神像(いなりみょうじんぞう)もありますが、これは「教(経)-稲荷」と呼ばれ、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つ江戸時代のものです。

鎌倉 もとは新井(荒井)の闇魔堂だった「円応寺」

閻魔さま……恐ろしい閻魔大王は天国の主だった!

 釈迦の時代より数百年さかのぼるインド最古の神話叙事詩『リグ・ヴェーダ』にヤマ(夜摩天・焔魔天(えんまてん))という神が語られている。ヤマは太陽神の子である。双子の妹ヤミーと結婚して地上で暮らし、子孫をふやした。これが人類の始まりだという。
 この人類の父祖ヤマは、あるとき、未開の領域を探検して、そこに死への道を発見した。そして、その道をたどって最初の死者になった。以後、すべての人は父祖ヤマの道をたどって死におもむくことになり、ヤマは死の国の王になったのである。
 そのとき、死は永遠の安らぎであった。

鎌倉 鎌倉交通の要衝であった「化粧坂」

 化粧坂は、鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「鎌倉住環上ノ道」(武蔵路)の出入り口に当たります。鎌倉の交通の要衝であったことから、元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでも戦場となっています。 『吾妻鏡』建長3年(1251)12月3日条には、鎌倉の中で小町屋及び売買所を構えても良い場所の一つとして「気和飛坂山上(化粧坂の山上)」と書かれています。

鎌倉 源頼朝の館 大倉御所の北隅「白旗神社」

 白旗神社のある所は、源頼朝の館のあった大倉御所の北隅で、持仏堂があった所。頼朝の死後は、法華堂と呼ばれ、ここに葬むられていました。源頼朝の持仏堂であったことから鎌倉幕府の保護も厚く鶴岡八幡宮と並ぶ崇敬を集めた。
 江戸時代末までは寺院として法華堂があった。明治維新に白旗神社と改められた。
 神社奥の山上には源頼朝の墓がある。また、その少し先に大江広元、毛利秀光(大江広元の四男…長州藩主・毛利氏の祖)、島津忠久(薩摩藩主・島津氏の祖)の墓もある。これらの墓は、江戸時代になってつくられた。島津も毛利も後にも手を結んで行く事になったのだろうか。

鎌倉 腰越 生き延びた比企高塚の屋敷跡に「本龍寺」

 この寺は、日蓮聖人の直弟子である日朗聖人の弟子、朗門九鳳の一人、妙音坊日行聖人を開山とする。比企高家の屋敷跡に建てられたと伝えられ、境内には高家の墓が残る。
 龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。慶長6年(1601年)に津村の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女により龍口寺が本格的な寺としての格式を整えられてから、江戸時代までは片瀬腰越八ヶ寺(通称片瀬八ヶ寺)が輪番で維持していた。本龍寺もそれまでは、「与蓮山」と号していたが、「龍口山」と改める。
 平成14年、立教開宗750・創建700年を期して、本堂建て替え並び寺域整備を行う。

鎌倉 浄土宗三祖光明寺開山の「良忠上人御廟」

 念仏僧の代表者の一人、然阿良忠。石見国三隅荘(島根県)に生まれた人。深く学問を学ばれた後、38歳で聖光上人の弟子となり、法然上人の教えを受け継ぎ、浄土宗の三祖に呼ばれる。法然からかぞえて三代目の人。62歳の頃に鎌倉に入り、布教と弟子の育成に取り組み、鎌倉における専修念仏者の間で指導的立場に立つとともに、他宗僧侶の間でも大きな位置を占めた。78歳の時、在京の門下の招請により、京に上がり布教、著述に励んだ。その後、88歳の時鎌倉に帰ったが、翌年89歳の高齢で入寂した。
 その後、生前の功績が認められ伏見天皇より「記主禅師」の謚号を賜った。本堂横の池のある庭園が記主庭園と名付けられているのはこのことに由来している。

鎌倉 日上人修行の血の池がある「妙隆寺」

妙隆寺の鍋かむり上人

 辻説法跡の次の妙隆寺にも、熱狂的・行動的な日蓮宗の僧侶がいました。この寺の第二祖日親上人です。
 日親は、この寺で激しい修行をした後、京都に本法寺を開き、日蓮にならって辻説法を行い、日蓮宗の布教につとめました。そして時の室町幕府六代将軍足利義教に直訴を行い、「立正治国論」を執筆しました。日蓮が受けた法難を自らも受けよう、追体験しようという強い意志が感じられます。しかし幕府はこれを許さず、日親をとらえて、真っ赤に焼いた鍋を頭からかぶせました。これが「日親上人鍋かむり」の伝説です。
 日親はこのとき34歳。将軍義教はまもなく赤松満祐に殺され、日親は出獄。再度獄につながれたりもしますが、応仁の乱へ突入して行く乱世の中、日親はめげることなく京都の町衆へ日蓮宗布教につとめ、82歳まで生きました。

鎌倉 もとは光明寺の境内にあった寺「教恩寺」

 開山は知阿(ちあ)です。小田原北条氏3代目の北条氏康(うじやす)が光明寺境内に建てたのが始まりといわれています。
 このあたりはもと米町(こめまち)と呼ばれていて、ここには以前、光明寺の末寺の善昌寺(ぜんしょうじ)がありましたが、いつの頃か廃寺になり、1678年(延宝6年)、貴誉(きよ)が光明寺境内から教恩寺を現在の大町に移したといわれています。
 1937年(昭和12年)ごろ、境内から古銭がいっぱい入った古い壷が出土しました。銭は中国の宋や明の時代の銅銭で、鎌倉時代や室町時代にこれらの銅銭が使われたことがわかる貴重な資料といえます。

鎌倉 門前に[源頼朝公祈願所]の石碑「補陀洛寺」

 この寺は南向山(なんこうざん)という山号をもつ真言宗の寺で、源頼朝が文覚(もんがく)を開山として1181年(養和元年)に建てたといわれます。もとは七堂伽藍という建物がそろった大きな寺院であったということです。その後、だいぶ荒れてしまいましたが、文和年間(1352~1356年)に、鶴岡八幡宮の供僧(ぐそう)だった頼基(らいき)が復興したと伝えられています。
 行基の作と伝えられる薬師如来像がおられます。
 薬師如来のご利益は、密教の七仏薬師法を行えば、滅重罪(めつじゆうざい)から除病至菩提(じよびょうしぼだい)にはじまって、除病延命、産生安穏(さんしようあんのん)、天変、風雨、時節反逆の難まで、あらゆることにご利益があるとされていす。
 抽象的なご利益ばかりの他の如来より、病気治療をはじめ、呪詛を封じ、災害や反逆から護ってくれる薬師如来は頼りになったのでしょうね。

鎌倉 石段下に星ノ井のある「虚空蔵堂」

 極楽寺切通を往き還る旅人たちは、伝えとこの水を愛でて、ひとときを井戸のほとりの茶店に憩いました。慶長五年(1600)六月、京都より江戸への帰りに、ここを通った家康もこの名井を見学して行ったという記録も残っていますが、忙中閑あり、というのでしょうか、まことに奥床しい心がけと思います。
 その後、近くに住む下女が菜ワ切り包丁を、あやまって井戸へ落してしまい、それからというものは井戸はいやな顔をしてしまい、星を映さなくなったということです。
 石段を上ると虚空蔵堂があります。
 本尊の虚空像菩薩(ぼさつ)は、はかり知れない福徳と知恵をそなえて常に人々にこれを与え、すべての人の願いごとをかなえてくださる仏様といわれています。

鎌倉 季節の花木や野草が咲き乱れる「収玄寺」

 1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。
 創立当初は収玄庵と称したが大正末期の本堂改築を機に収玄寺と改称した。
 四条金吾は医術にも造詣が深く鎌倉、佐渡、身延にと終始日蓮聖人に給仕し法華信者の鑑として大聖人より厚い信頼を受けた。

鎌倉 水戸光圀が7日間ほど逗留「英勝寺」

 奥に入ると仏殿が南に向き、その前は関東大震災後に、小町に移されていた山門の再建が行われています。楼上(ろうじょう)にあった十六羅漢(らかん)像は収蔵庫や鎌倉国宝館に保存されています。
 仏殿の屋根は裳階(もこし)という下屋根をつけて2重になっており、軒下の「かえる股(また)」には十二支の彫刻があります。仏殿には徳川家光(いえみつ)寄進の阿弥陀三尊(あみださんぞん)像を中心に善導(ぜんどう)・法然(ほうねん)大師の木像が安置されています。

鎌倉 もとは諏訪氏の屋敷内にあった守護神「諏訪神社」

 現在市役所の駐車場になっているところに諏訪池があり、その池の東のほとりに諏訪神社がまつられていました。その周囲は諏訪の森と呼ばれるほど樹木が繋っていましたが、今は市庁舎側の歩道にわずかに大木が残るだけです。
 諏訪神社は現在、商工会議所西側の御成トンネル右手前に移され、社殿も鳥居も再建されています。この神社は、誠訪盛澄(すわもりずみ)・盛重(もりしげ)の邸内の守護神としてまつられたものということです。
 現在諏訪神社がおかれている場所には、以前簡易裁判所がありましたが、現在は由比ガ浜に移されています。

鎌倉 火の災いを除く「秋葉大権現」

 秋葉山大権現というのは、本山は静岡県の松の方の秋葉神社(あきばじんじゃ)で、火事を防ぐ夫伏(ひぶ)せや水難除(よ)けの神として、江戸時代には各地に秋葉講中(あきばこうちゅう)という信者の団体がつくられ、代参(だいさん)という代表者の本山詣で(ほんざんもうで)が盛んに行われました。光明寺やその信者を火災や水難から守るため、1714年(正徳4年) に神社を秋葉山から光明寺裏山へ移してまつりました。材木座や小坪(こつぼ)をはじめ各地に秋葉講(あきばこう)が作られ、火災と海上安全を祈願する人々が訪れ、社殿も立派だったそうです。
 思ったより境内は広いですね。昔はもっと建物があったのでしょうね。

鎌倉 目の神様として親しまれている「御霊神社」

 御霊(ごりょう)神社の祭神は鎌倉権五郎景正(政)です。景正は土地の人には「権五郎さま」と呼び親しまれています。
 御霊神社というのは土地の神として祖先をまつる神社のことで各地にあります。桓武天皇の子孫平良兼の孫、村岡五郎忠通という人の子に為通・景成・景村・景通・影正の五人がいて、五家に分かれたといわれます。忠通の死後、五家が栄えるようにと鎌倉に神社を建て、忠通と五家の祖先をまつり、御霊の神とか、五霊の神として尊敬してきたといわれています。

鎌倉 深山幽谷の山寺といった風情がある「浄智寺」

 浄智寺は山号を金宝(峰)山(きんぽうざん)といい、臨済宗の寺で、北条時頼(ときより)の三男宗政(むれまさ)とその子の師時(もろとき)の二人が開基となり、1281年(弘安4年)ころに建てられたようです。また、開山は、宋の僧である元庵普寧(ごったんふねい)と大休正念(だいきゅうしょうねん)、準開山は、南州宏海(なんしゅうこうかい)(真応禅師(しんおうぜんじ)となっています。宗政が若くして亡くなったため宗政夫人が夫の宗政と子の師時の二人を開基とし、また、開山に招かれた宏海が、自分はまだ若いのでその師の正念をたて、正念はその師の普寧を開山にたてたため、このように複雑な形になったようです。

鎌倉 鎌倉の苔寺といわれる「妙法寺」

 本堂の右手奥にある朱塗りの仁王門の先に、正面に美しい苔の石段があり、「鎌倉の苔寺」ともいわれますが、この石段は保護のため通ることはできません。新しく作られた脇の石段を上がった山の中腹に、江戸時代の1812年(文化9年)に水戸徳川家が建てたといわれる装飾も見事な法華堂があり、公開されていませんが、日叡作といわれる「厄除(やくよ)け祖師」という日蓮上人像が安置されています。

鎌倉 江ノ島弁天に恋した五頭龍が鎮座した「龍口寺」

 龍口寺の始まりは、日蓮の弟子の日法(にっぽう)が日蓮が亡くなった後、日蓮宗にとって記念すべきこの地を後世に残すために自分で日蓮の像を刻み、1337年(延元2年)に草庵を建てて安置したことだといわれますが、やはり日蓮の弟子である六老僧(ろくろうそう)が建てたともいわれます。1883年(明治16年)ごろに住職を置くようになるまで、龍口寺には住職を置かず、輪番八ヵ寺といって、近くの八つの寺が順番に龍口寺を守っていました。室町時代のころは龍口院と呼ばれていたようで、龍口寺の名が出てくるのは戦国時代になってからです。

鎌倉 鎌倉幕府の礎石 三浦大介義明の霊を弔う「来迎寺」

 1194年、源頼朝が鎌倉幕府の礎石となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまり。
 本堂の右には三浦義明の墓といわれる供養塔と、石橋山の戦いに敗れて三浦に引き返す途中で、平家方の畠山重忠(はたけやましげただ)軍に17歳の若さで殺された三浦一族の多々良良三郎重春(たたらさぶろうしげはる)の墓と伝えられている高さ2mほどの大きな五輪塔2基が並んでいます。

 戦で多くの人が亡くなっていますね。世界には戦に変わるやり方で、権力を手に入れる民族もいます。インド・ナガランド州に、20世紀末近くまで「首狩り族」として名をはせた民族が住んでいます。この民族は、一対一で強者・長者に挑戦し、その首を取ることを名誉とする民族でした。

 この行為をどのように見るか、悲惨なことと見るか、戦に比べればはるかに死者が少ないと見るか。
 第二次世界大戦頃から、基地や軍需工場の攻撃から無差別攻撃に移り、戦いで多くの人が命を落とすことが普通になっていますね! 

鎌倉 明治の神仏分離で静かな寺に「寶善院」

 開山の泰澄は、「越の大徳」(越前(福井)・越中(富山)・越後(新潟)で並ぶ者のいないほどの徳の高い僧)と呼ばれていた。加賀の白山を開いた人物。
 江戸時代には、この寺の僧が龍口明神社の別当に任じられたこともある。
 村人の信仰を集め栄えたが、明治の神仏分離によって、静かな寺となった。
“越の大徳” 泰澄大師の十一面観音伝説がいきるお寺さん腰越にある真言宗のお寺さんです。腰越の海近くの山裾にあり、とても静かで清々しい空気があります。白山信仰の神の山、白山を開き“越の大徳”といわれた泰澄大師が開いた寺院としても存在感があります。