鎌倉五山のうち建長寺、円覚寺、浄智寺の三寺は山ノ内の北鎌倉にある。その理由は、山ノ内の北鎌倉周辺が北条氏の領地だったことによるとのこと。
1356年の火災で創建時の伽藍は焼失、1386年には既に復興していたため、足利義満が定めた鎌倉五山のうち四位に入った。
また、関東大震災で諸堂は潰滅し、現在は山門や仏殿が点在しているだけになった。そのためか、深山幽谷の山寺といった風情がある。
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鎌倉 北条一門の霊をなぐさめる「宝戒寺」
鎌倉 かくれ里の稲荷が頼朝の夢に「佐助稲荷神社」
鎌倉 高い道のところに置き去りにされた「成就院」
平安時代の初期、真言宗の開祖の空海がこの地を訪れ、景勝地だったこの地で数日間に渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法(真言を百日間かけて百万回唱えるというもの)を修したという霊跡に、1219年に鎌倉幕府第三代の執権北条泰時は京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立し、普明山法立寺成就院と称した。
坂の頂部にあり、昔の高い道のところに置き去りにされた格好。しかも高いところを桐くづした道路の対面にも墓地がある。
順徳天皇の1219年11月21日に開かれたが、その後兵火にあい、他へ移っていたが江戸期にまた当地へカムバック。
寺宝としては、星の井から出た明星石のほかに本尊不動尊明王、繊細なきり金文様をそなえる千手観音像。それから文覚上人荒行像と呼びならわされているユニークな小像を持っている。
鎌倉 ぼたもち寺ともいわれる「法源寺」
鎌倉 木造の古建築では鎌倉一の大堂「光明寺」
鎌倉 廃寺禅興寺の名残りの塔頭「明月院」
鎌倉 厳粛で静謐な雰囲気の「瑞泉寺」
鎌倉 頼朝の娘、悲運の大姫の守本尊を安置「岩舟地蔵」
源頼朝の娘、大姫(大姫とは長女の意味、本当の名前はよく分からない。)を供養する地蔵堂。大姫は頼朝と北条政子とのあいだにできた最初の子。二十歳くらいで(1197年)なくなったようです。
木曽義仲は頼朝の求めに応じて嫡子義高を人質として鎌倉へ送り、頼朝と和睦した。その時の条件として、表向きは、義高は頼朝の長女大姫(当時5、6歳)の婿として迎えられた。幼いながらも政略で夫婦とされた義高と大姫は仲睦まじいものだった。
翌年の正月、木曽義仲が源義経・範頼率いる関東勢に破れ近江国粟津で敗死すると、頼朝は悩んだ挙げ句、義高の復讐を恐れ、義高を殺すことを計画したが、4月、頼朝の計画を知った大姫は、義高を女装させ鎌倉から秘かに逃がしたが、すぐに発覚、義高は武蔵国入間河原で、頼朝の命令によって後を追った堀親家の郎党藤内光澄に討たれた。
鎌倉 比企能員の屋敷跡に「妙本寺」
この地は比企能員の屋敷跡で、比企一族の勢力の拡大を恐れた北条時政が、後継者問題を口実に1203年比企の乱で攻め滅ぼした。その後比企能員の末子の比企大学三郎能本が、日蓮上人の為と比企一族の霊を弔う為にお堂を建てたのが始まり。
お寺や神社の中には、霊を弔い、災いを防ぐという目的で建立されたものが多くあります。
医療が発達していない時代は、伝染病の原因が分からず、自分たちが手にかけた相手方の霊が仇を討つために、自分たちや、自分たちの子孫に、災いを及ぼしていると考えたのでしょう。敵方の霊を静かにさせておくため、莫大なお金を使い、お寺や神社を建立し、そこに敵方を祀り、災いが起きないよう祀ったのでしょう。
鎌倉 義経が頼朝に心情を訴える書状を書いた「満福寺」
鎌倉 この谷戸あたりが腰越の中心部だった「東漸寺」
山門をくぐると正面に本堂があります。この寺は、龍口寺を守るために千葉県中山の法華経寺(ほっけきょうじ)から差し向けられたといわれる日東(にっとう)が1352年(正平7年)に開いたと伝えられます。本堂には、日蓮上人像と釈迦如来像がまつられています。「腰越駅」近くの諏訪神社は、もとはこの寺の境内にあったそうです。寺の裏山には、エフェドリンという咳止めの薬を作り、日本薬学の基礎を築いた長井長義(ながいながよし)博士夫妻の墓がありましたが、現在は墓は移され、墓地に記念碑が立っています。この寺の近くには妙典寺、勧行寺、本成寺、本龍寺があり、輪番八ヵ寺のうち五寺が集まっています。昔は、この谷戸あたりが腰越の中心部だったそうです。
鎌倉 人に慣れた狸が住みついたとか「延命寺」
鎌倉 白旗神社から法華堂跡、大江広元の墓へ!
鎌倉 八幡太郎義家をこの地で産む「甘縄神明宮」
俗に甘縄神明と呼ぶ。祭神天照大御神・配祀倉稲魂命・伊邪那美命・武饗槌命・菅原道真。例祭九月十四日。元村社、長谷区の氏神社。社伝では天平年中の勧請という。 『相州鎌倉郡神輿山甘縄寺神明宮縁起略』によると、和銅三年(710)八月行基の草創。染谷時忠が山上に神明宮、山下に円徳寺を建て、のち源頼義が相模守となって下向した時、平直方の女を娶り、当社に祈って八幡太郎義家をこの地で産んだと伝える。直方は時忠の婿であった。 背後の山は神輿尼岳といい、『萬葉集』に見える。このあたり大庭御厨の一部であったので神明宮の奉斎があったらのであろう。『吾妻鏡』に記載の見える古社で、源頼朝・政子らの参拝・奉幣があり、安達盛長が守護に当り、社前に住みその子孫は歴代ここを住居とした。 |
鎌倉 島津氏によって建てられた「源頼朝の墓」
1779年、薩摩藩主・島津重豪(頼朝の隠し子の子孫?)が、石段を設けてその上に建てたのが、この墓。 1198年12月27日源頼朝御家人の稲毛重成の亡妻の供養のために、相模川にかけた橋の完成祝いに出掛け、その帰り稲村ガ崎で落馬した。その落馬が原因で、1199翌年1月13日に53歳で亡くなった。大倉法華堂(現在の白旗神社)に葬むられた。 現在の墓は白旗神社のすぐ横の階段を登った所にあり、江戸時代に島津氏によって建てられたもので、高さ186cmの五層の石塔である。 1196年から頼朝が亡くなった1199年までの3年間、鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」から頼朝の死亡に関する記録が抜けている(仏事の記録はあり)。頼朝の死は謎に包まれていると言われている。 |
鎌倉 由比若宮、由比八幡宮ともいう「元鶴岡八幡宮」
元八幡は、相模守(さがみのかみ)であった源頼義(よりよし)が京都の石清水八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(えき)(1051~1062年)で、奥州の豪族の阿部頼時(よりとき)・貞任(さだとう)に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡(ゆいごうつるがおか)のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。 後三年の役のとき、頼義の子の義家(よしいえ)が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。 1180年(治承4年)、鎌倉を根拠地としで鎌倉幕府を開いた源頼朝(よりとも)が、現在の八幡宮がある元八幡と呼ばれていますが、正しい名は由比若宮です。 |