鎌倉 日朗らを幽閉した土牢跡がある「光則寺」

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 行時(ぎょうじ)山光則寺と号し、もと妙本寺末。開山日朗。開基は北条時頼の近臣宿屋光則。境域は光則の居宅跡という。文永八年(1271)九月、日蓮が龍ノロ法難で佐渡に流罪になったとき、日朗ら門弟は捕えられて光則にあずけられ、光則は彼らを土牢に幽閉した。この間に、日蓮に帰依した光則は居宅を寺に改め、父行時(ゆきとき)の名を山号に、自分の名を寺名にしたと寺伝する。詳し寺史は不明。江戸時代、古田重恒(しげつね)の後室大梅院日進(1669示寂)が寺容を再興したので、「大梅寺」「大梅院」とも称された。現在は山門・本堂(慶安三年(1650)建立)。庫裡などからなる。

鎌倉 偉人にしては質素な「源頼朝の墓」

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 源頼朝は、治承四年(1180)平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦二年(1185)に平家を滅ぼしました。また、鎌倉幕府を大蔵(現在の雪ノ下三丁目付近)に開いて武家政治の基礎を築きました。
 正治元年(1199)に五十三歳で没すると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。法華堂は後に廃絶しましたが、この丘の上一帯がその跡です。 現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪・が整備したものとされます。(説明看板より)

鎌倉 今宮神社ともいう「新宮神社」

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 境外末社で、今宮神社ともいう。
むかしは、「魔境にて、天狗ここに住むという」と旧書に記される。当時は八幡宮の境内からだいぶ離れ、深い森林の中であったのでしょう。
 祭神は後鳥羽天皇、順徳天皇、土御門天皇。
「承久の乱」(1212年)の朝廷側の人物たちで、幕府は勝利をおさめ、後鳥羽帝を隠岐へ、順徳帝を佐渡に配流し、両帝ともその地で歿した。また、土御門帝はみずから土佐、のちに阿波へおもむいた。

鎌倉 鶴岡八幡宮への参道「若宮大路」

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 鶴岡八幡宮の参道の「若宮大路」は、頼朝が妻政子の安産を祈願して1182年3月に整備したという。頼朝と政子のあいだには長女がいましたが、嗣子の誕生を祈り、堂々たる大路を海から鶴岡八幡宮へむけて、神をまねく通り道若宮大路を造ったのでしょう。
 1182年(寿永元年)8月12日、幼名万寿、二代将軍源頼家が生まれています。
 「段葛」とは江戸時代からの名称で、往時は置道(路)とか置石とか作道とよばれていました。

鎌倉 室町時代、佐竹義盛が建てた「大宝寺」

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 室町時代の1399年(応永6年)佐竹義盛(よしもり)が出家し、屋敷のそばに寺を建て多福寺と名付けたといいます。それがこの大宝寺の前身で、その後、廃寺になっていたものを、1444年(文安元年)、本覚寺(ほんかくじ)を開いた日出(にっしゅつ)が再興し、多福寺の名を山号に残し、大宝寺に改めたと伝えられています。
 本堂には、本尊の三宝本尊と四菩薩像、その前に日蓮上人像、左側に開山日出と新羅三郎義光の像、右側に出世大黒天と鬼子母神像などがまつられています。

鎌倉 徳川・蒲生家ゆかりの寺「薬王寺」

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 この地にはもとは真言宗梅嶺山夜光寺があったとされているが、日像が由比ガ浜でお経を百日間読誦する修行を行った際、寺が荒廃しているのを見て真言宗の住職と数日間宗教論争した末日蓮宗に改宗したと言われている。
徳川忠長公供養塔の存在により、徳川・蒲生家ゆかりの寺として寺紋に三葉葵が用いられていた為、一般住民の埋骨を許さない格式由緒ある寺であった、と。

鎌倉 昔、極楽寺の境内でした「熊野神社」

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 正面にみかげ石の鳥居があります。石段を上がると美しい緑色の銅葺き屋根の社殿が建っています。かたわらに、神輿を納めてある神輿庫もあります。境内の囲いもなく開放的な割には荒れた感じのないこの神社は、いかにも地域の人々によって守られているという雰囲気をもっています。

鎌倉 龍口寺輪番を勤めた「本龍寺」

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 この寺は、輪番寺の中で日蓮宗の寺としては最も早く建てられたものです。山門を入った正面の本堂には、田辺ガ谷の雨乞いの日蓮上人像や大黒天、鬼子母神、十羅刹女(じゅうらせつじょ)像などが、本尊の三宝本尊とともにまつられています。また、室町時代の作で、彩色も美しい日行上人像も安置されています。

鎌倉 落馬が原因で死亡「源頼朝の墓」

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 1779年、薩摩藩主・島津重豪(頼朝の隠し子の子孫?)が、石段を設けてその上に建てたのが、この墓。
 1198年12月27日源頼朝御家人の稲毛重成の亡妻の供養のために、相模川にかけた橋の完成祝いに出掛け、その帰り稲村ガ崎で落馬した。その落馬が原因で、1199翌年1月13日に53歳で亡くなった。大倉法華堂(現在の白旗神社)に葬むられた。

鎌倉 塩嘗(しおなめ)地蔵を収める「光触寺」

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 滑川に架かる光触寺橋を渡り、石段を登って山門をくぐると、光触寺の境内。木々に囲まれた境内に、ひっそりと本堂がたたずんでいる。
 光触寺は、もともと、作阿上人による真言宗の寺だった。しかし遊行中の一遍上人が弘安5年(1282)、このお寺を訪れたとき、一遍上人に帰依したことで時宗に改宗したと言われている。
(「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著 実業之日本社)

鎌倉 旗立山とよばれる「源氏山公園」

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 英勝寺と寿福寺の裏にまたがる山をいう。後三年の役(平安時代後期の陸奥・出羽を舞台とした戦役)に際して東国に下った八幡太郎義家が山上に白旗を立てたという伝説に因って、源氏山・旗立山とよばれている。『詞林採葉抄』では鎌倉第一の勝地だという。この山は武庫山といわれていたようで、義堂周信の詩にも載せられている。 (大三輪) [文献]『鎌倉志』『相模風土記』

鎌倉 頭脳明噺・記憶力増進を計ろう「虚空蔵堂」

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 極楽寺坂、星月ノ井の上方にある。明鏡山星井寺という小さな堂。成就院の管理。『明鏡山星井寺略伝記』によると、天平二年(730)行基が当所で虚空求聞持の法を修していたとき、傍の井戸(星月ノ井)から明星に似た光り輝く奇石を得た。この石は虚空蔵の化身であろうと思った行基は、虚空蔵菩薩像を彫って安置した所だと伝える。

鎌倉 哀しい話が残されている「岩舟地蔵」

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 分かれ道の角に海蔵寺が管理する岩船地蔵(いわふねじそう)があります。地蔵の床下には、さらに約130cmの船形の背をもっ石の地蔵があり、「岩船」の呼び名はここからついたといわれています。
 ここにまつられている地蔵は、2体の童子立像を従えた、高さ90cmほどのもので、源頼朝(みなもとのよりとも)の娘である大姫(おおひめ)の守り本尊と伝えられています。
 この大姫には、次のような哀しい話が残されています。

鎌倉 子宝のご利益がある「縄神明宮」

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 甘縄の「甘」は海女のこと、「縄」は漁をするときの縄の意味だろうという説もあります。
 その後、源頼義(よりよし)が相模守としてこの神社にお祈りをしたあと、義家(よしいえ)が生まれたと伝えられています。それでこの神社のご神体は義家の守り神といわれたそうです。後に義家が社を再建したといわれており、源氏と関係の深い神社だったと考えられます。


鎌倉 幕府の裏鬼両という方角に当たる「本覚寺」

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 「東身延」とも呼ばれる。佐渡配流から帰った日蓮が一時、この夷堂に滞在し、辻説法などの拠点としていた。
 本覚寺の開山は、日出上人、駿河の国三島の出身の学者。後に日蓮宗の僧となった。
 寺伝によると、日出上人は熱心に布教活動をしたが、日蓮聖人同様激しい反対に遭い、捕らえられたが、そのときの鎌倉公方足利持氏が、その熱意に感心し、日蓮聖人ゆかりの夷堂のあるこの場所を与え、1436年に建立された。

鎌倉 鎌倉で五重塔は珍しい「龍口寺」

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 龍口寺の始まりは、日蓮の弟子の日法が日蓮が亡くなった後、日蓮宗にとって記念すべきこの地を後世に残すために自分で日蓮の像を刻(きざ)み、1337年(延元2年)に草庵を建てて安置したことだといわれますが、やはり日蓮の弟子である六老僧が建てたともいわれます。1883年(明治16年)ごろに住職を置くようになるまで、龍口寺には住職を置かず、輪番八ヵ寺といって、近くの八つの寺が順番に龍口寺を守っていました。室町時代のころは龍口院と呼ばれていたようで、龍口寺の名が出てくるのは戦国時代になってからです。


鎌倉 非公開の「平家の赤旗」ある「補陀洛寺」

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 「平家の赤旗」といわれるものがあります。1185年(文治元年) 3月、平氏は壇ノ浦で滅びましたが、そのとき平家の総大将の平宗盛が最後まで持っていたのがこの旗だといわれ、捕らえられて鎌倉に来たときにこの旗を頼朝に献上し、頼朝が補陀洛寺に奉納したといわれています。旗には「九万八千軍神」と書かれており、合戦のときにたくさんの軍神に祈ったことがわかります。ただし非公開です。
 平家の「軍神」は、「伝書鳩」で通信を行っていた源氏に勝てなかったのでしょうか?

厚木 鎌倉時代頃の創立「光福寺」

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 最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して正福寺となった。
 鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。 律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。


鎌倉 白鹿が人びとにまじって聴聞した「円覚寺」

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 寺名・寺地ははじめ時宗と蘭渓,道隆によりえらばれたが、工事を起すと地中から石櫃が現れ、中に円覚経が納められていたため、それにちなんで円覚寺と名づけるいたったという。山号・仏光国師が開堂供養の説法を行っていると一群の白鹿が人びとにまじって聴聞したところからえらばれたと伝え、鹿の出現した洞穴-白鹿洞が仏日庵前に残る。