鎌倉 日蓮弟子の四条金吾頼基の屋敷跡「収玄寺」

181023a_shugenji.jpg

 1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。
 創立当初は収玄庵と称したが大正末期の本堂改築を機に収玄寺と改称した。
 四条金吾は医術にも造詣が深く鎌倉、佐渡、身延にと終始日蓮聖人に給仕し法華信者の鑑として大聖人より厚い信頼を受けた。


鎌倉 四季花が絶えない美しい庭「光則寺」

181019a_kosokuji.jpg

 行時山光則寺と号し、もと妙本寺末。開山日朗。開基は北条時頼の近臣宿屋光則。境域は光則の居宅跡という。文永八年(1271)九月、日蓮が龍ノロ法難で佐渡に流罪になったとき、日朗ら門弟は捕えられて光則にあずけられ、光則は彼らを土牢に幽閉した。この間に、日蓮に帰依した光則は居宅を寺に改め、父行時の名を山号に、自分の名を寺名にしたと寺伝する。


鎌倉 護良親王の偉勲をたたえる「鎌倉宮」

181009a_kamakuragu.jpg

(別称:大塔宮) 祭神:護良親王(後醍醐天皇の第一皇子)
 明治天皇は、哀しい最期をとげた護良親王(武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王)の功の偉勲をたたえるべく、神社造営の勅令を発し、東光寺跡に1869年7月創建された。

鎌倉 日蓮の鎌倉での布教の中心の跡「安国論寺」

180923a_ankokuronji.jpg

 長勝寺・妙法寺と並び日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡とされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。
 日蓮が鎌倉に来て初めて道場とした岩穴を御法窟といい、『立正安国論』もここで書いたといいます。昔は「日蓮窟」と呼んでいました。


鎌倉 日蓮にぼたもちを供養した「法源寺」

180907a_hougenji.jpg

 日蓮の孫弟子である日行が1318年(文保2年)に開いたと伝えられ、本尊は三宝本尊で日上人像とともにまつられています。
 法源寺は、ぼたもち寺ともいわれ、桟敷尼(さじきに)が龍ノ口の法難の日蓮にぼたもちを供養したといわれます。大町の常栄寺にも同じ話がありますが、桟敷尼の実家が腰越だったといわれます。

鎌倉 日上人修行の「血の池」がある「妙隆寺」

180905a_myoryuji.jpg

 山門を入ると、正面の本堂の右手には「血の池」と呼ばれる日上人修行の池があります。その奥には、日親石像を安置する日親堂があります。
 日親が21歳のとき、「仏の教えを広めるためには、苦しみに負けないように修行しなければならない」と考え、百日間境内の池で水を浴びてお経を唱えました。それから、毎日自分の爪を1本ずっ抜き、出てきた血で墨をすり十界の曼荼羅をかいたそうです。そして、熱い湯の中に手を入れ、その湯がさめるまでお経を唱えたそうです。曼荼羅とは仏の世界や教えをわかりやすく図に示したものです。

鎌倉 諏訪一族の屋敷跡と伝える場所「諏訪神社」

180901a_suwa.jpg

 現在市役所の駐車場になっているところに諏訪池があり、その池の東のほとりに諏訪神社がまつられていました。その周囲は諏訪の森と呼ばれるほど樹木が繋っていましたが、今は市庁舎側の歩道にわずかに大木が残るだけです。


座間 伊勢の神輿が漂着し社を創立した「鈴鹿明神社」

180826a_suzuka.jpg

 欽明天皇(539年即位)の御代に創祀せられたという。
  伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている。



鎌倉 北条政子の法名が寺名になった「安養院」

180824a_anyoin.jpg

 安養院の地には、尊観(そんかん)が開いた浄土宗の善導寺がありましたが焼失しました。北条政子が亡き夫源頼朝の冥福を祈って、笹目(ささめ)に建てたともいわれる長楽寺が、兵火に焼かれてしまったため、鎌倉末期にここに移され、政子の法名である安養院を院号とし、これが寺名になったと伝えられています。



鎌倉 五つの神社を一緒にして祀った「五所神社」

180802a_goshojinja.jpg

 境内には、「寛文十二年」(1672年)の年号がある庚申塔などが13基あり、庚申塔の由来の立札も立っています。そのほか、大きな石をまつった石上稲荷大明神や祭りのとき唄われる「天王謡」の由来を書いた立札などがあります。



鎌倉 通称“銭洗い弁天”の「銭洗弁天宇賀福神社」

180715a_zeniarai.jpg

 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の夢枕に、一人の老人が現われた。「西北の方向に仙境があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。そこは清浄な地で、福の神が住でおり、その水を使っている。その水は神の霊水である。この水を使って神仏を祀(まつ)れば、国内は平穏に治まる。われこそは隠れ里の主の宇賀神(うががみ)である」といい、やがて消えてしまった。
 翌朝、頼朝が西北のほうへ行ってみたところ、たしかに泉があった。頼朝はさっそくそこに宇賀神を祀った。すると国は平穏になったという。
 北条時頼が当社に参詣のおり、この水で銭を洗い、福銭としたそうです。その話から、銭を洗うと二倍にふえるという、いい話が誕生したらしい。


鎌倉 一番古い神社だった「甘縄神明宮」

180629a_amanawa.jpg

 俗に甘縄神明と呼ぶ。祭神天照大御神・配祀倉稲魂命・伊邪那美命・武饗槌命・菅原道真。例祭九月十四日。元村社、長谷区の氏神社。社伝では天平年中の勧請という。
 『相州鎌倉郡神輿山甘縄寺神明宮縁起略』によると、和銅三年(710)八月行基の草創。染谷時忠が山上に神明宮、山下に円徳寺を建て、のち源頼義が相模守となって下向した時、平直方の女を娶り、当社に祈って八幡太郎義家をこの地で産んだと伝える。直方は時忠の婿であった。


鎌倉 「北条義時法華堂跡、大江広元の墓」

180623a_ooehiromoto.jpg

法華堂跡
 1247年6月5日、三浦対北条・安達の宝治の乱のおり、三浦泰村は館を攻められ、一族を率いて、この法華堂に立て篭もった。北条時頼の兵に攻められ、終に泰村、光村以下の三浦一族と此れに加担した島津、毛利を含めて500人が、この法華堂で自害した。


鎌倉 宮内省よりの下賜金で造営「葛原岡神社」

180621a_Kuzuharagaoka.jpg

 葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社。
 明治天皇は日野俊基卿の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕せられ、1884年勅旨をもって従三位を追贈され、1887年に最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を御祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営、鎮座祭が執り行われた。


鎌倉 松葉ヶ谷霊跡「安国論寺」とも言う

180615a_ankokuronji.jpg

 長勝寺・妙法寺と並び日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡とされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。
 開山は日蓮とするが、弟子の日朗が1260年に、日蓮が前執権北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)の側に安国論窟寺を建てたのが始まりである。
 日蓮上人の鎌倉草庵の地。


鎌倉 足利尊氏が自邸の跡地に創建「長寿禅寺」

180611a_tyojuji.jpg

 山ノ内建長寺から小袋坂を下って、明月院踏切へさしかかる途中の左側の小高い石段の上が長寿寺である。亀ケ谷坂はこのお寺の脇へ下りてくる。
 石段を昇ると山門前にはこの坂の象徴亀公をふまえた石塔がある。なるほど、亀は万年というから、それで長寿寺か。昔の人は智慧がある。
 開山は古先印元(こせんいんげん)禅師。創建は1323年から1336年頃。開基は足利尊氏。
 足利尊氏が自邸の跡地に創建、尊氏没後に子の足利基氏が堂宇をととのえたという。


鎌倉 元軍が再襲来しないことを祈った「覚園寺」

180605a_kakuonj.jpg

 1218年に北条義時が大倉薬師堂を建立したのが始まり、1296年、九代執権北条貞時が、元軍が再襲来しないことを祈り、寺に改めた。開山は智海心愛慧。
 その後、火事で焼失したが1354年、足利尊氏によって再建された。この寺は後醍醐天皇の勅願所、足利尊氏の祈願所となり保護を受け、代々の為政者の手厚い保護を受けてきた。
 鎌倉には、谷(やつ)に立っているお寺さんが多いが、この各園寺はその典型的なお寺です。


鎌倉 やぐら内の石像がとけていく「薬王寺」

180415a_yakuouji.jpg

 この地にはもとは真言宗梅嶺山夜光寺があったとされているが、日像が由比ガ浜でお経を百日間読誦する修行を行った際、寺が荒廃しているのを見て真言宗の住職と数日間宗教論争した末日蓮宗に改宗したと言われている。
徳川忠長公供養塔の存在により、徳川・蒲生家ゆかりの寺として寺紋に三葉葵が用いられていた為、一般住民の埋骨を許さない格式由緒ある寺であった、と。

鎌倉 鎌倉の苔寺とも、「妙法寺」

180407a_myouhouji.jpg

 本堂の右手奥にある朱塗りの仁王門の先に、正面に美しい苔の石段があり、「鎌倉の苔寺」ともいわれますが、この石段は保護のため通ることはできません。新しく作られた脇の石段を上がった山の中腹に、江戸時代の1812年(文化9年)に水戸徳川家が建てたといわれる装飾も見事な法華堂があります。