尾道 山王さんのお使いは猿「山脇神社」 興味深いのは、狛犬に変えて猿の石像、そして、拝殿の四隅(稚児棟)にも、それが見えます(現在は正面の二ヶ所)。最近、更に、備前焼の猿像の寄進が加わり、また、猿の絵馬がかかるようになり、まるで猿づくしの気配なのですが、先述の如く、この祭神が猿を従使とする特色を持ったことからきた庶民の機知の反映でもあるのでしょう。
鎌倉 松葉ヶ谷霊跡「安国論寺」とも言う 長勝寺・妙法寺と並び日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡とされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。 開山は日蓮とするが、弟子の日朗が1260年に、日蓮が前執権北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)の側に安国論窟寺を建てたのが始まりである。 日蓮上人の鎌倉草庵の地。
厚木 創建当時は昼なお暗い地だった「宝泉寺」 宝泉寺は上依知南部の山際境の丘陵地下段にあります。寺の縁起や『新編相模国風土記稿』によると、室町時代後期の文明18年(1486)の起立と伝えられ、当時の裏山は松が繁り昼なお暗く凄然としていたため別名「松壽林宝泉寺」と呼ばれていました。
鎌倉 足利尊氏が自邸の跡地に創建「長寿禅寺」 山ノ内建長寺から小袋坂を下って、明月院踏切へさしかかる途中の左側の小高い石段の上が長寿寺である。亀ケ谷坂はこのお寺の脇へ下りてくる。 石段を昇ると山門前にはこの坂の象徴亀公をふまえた石塔がある。なるほど、亀は万年というから、それで長寿寺か。昔の人は智慧がある。 開山は古先印元(こせんいんげん)禅師。創建は1323年から1336年頃。開基は足利尊氏。 足利尊氏が自邸の跡地に創建、尊氏没後に子の足利基氏が堂宇をととのえたという。
厚木 荻野山中藩の陣屋が付近に「山中稲荷神社」 荻野山中藩陣屋跡(市指定史跡) 現在の下荻野字山中には、荻野山中藩大久保家の陣屋がありました。 この大久保家は、相模国愛甲郡中荻野村を中心として、合計1万3千石を領した小さな大名でした。初代の大久保教寛(のりひろ)は、小田原藩主大久保忠朝の次男で、1698年、相模国足柄上郡、駿河国駿東郡内の新開地6千石を分けられ、分家しました。1706年駿河国駿東郡、富士郡に5千石の加増を受けて1万1石の大名となり、更に1718年には、相模国大住郡、高座郡、愛甲郡内に5千石の加増を受け、総計1万6千石となります。
鎌倉 本寺の禅興寺は衰退「明月院」だけが残る 明月院を、多くの人が訪れるのは初夏の頃……紫陽花の咲く時分です。 あじさい寺。の別称があるほど有名なこの寺のことですから、数百株の見事な、丹精こめた植え込みが、石の総門から始まって、老い朽ちた山門をくぐりだらだら上りに左折して本堂前の庭へくるまで、びっしりと左右に並んで夢幻のように花を咲かせます。 まことに幽玄、閑雅、静識の極致。
鎌倉 元軍が再襲来しないことを祈った「覚園寺」 1218年に北条義時が大倉薬師堂を建立したのが始まり、1296年、九代執権北条貞時が、元軍が再襲来しないことを祈り、寺に改めた。開山は智海心愛慧。 その後、火事で焼失したが1354年、足利尊氏によって再建された。この寺は後醍醐天皇の勅願所、足利尊氏の祈願所となり保護を受け、代々の為政者の手厚い保護を受けてきた。 鎌倉には、谷(やつ)に立っているお寺さんが多いが、この各園寺はその典型的なお寺です。
厚木 懸仏(かけぼとけ)の「知恩寺」 江戸時代には、智恩寺境内にあった山王社にまつられていた懸仏(かけぼとけ)が、現在では本堂の中に保存されています。 山王権現とは、日吉神社・日枝神社の祭神であり、権現とは仏・菩薩が化身してわが国の神として現れることを意味しています。また懸仏は銅などの円板上に、仏像・神像を半肉彫りにあらわし、柱や壁などにかけて礼拝したもので、特に鎌倉時代から室町時代にかけての資料が多く見られます。
鎌倉 北条政子の墓といわれている石塔「安養院」 安養院の地には、尊観(そんかん)が開いた浄土宗の善導寺(ぜんどうじ)がありましたが焼失しました。北条政子が亡き夫頼朝の冥福を祈って、笹目に建てたともいわれる長楽寺が、兵火に焼かれてしまったため、鎌倉末期にここに移され、政子の法名である安養院を院号とし、これが寺名になったと伝えられています。 その後、安養院は1680年(延宝8年)の火災で全焼しましたが、源頼朝の家臣田代信綱(のぶつな)が建てた比企ケ谷(ひきがやつ)の田代寺(たしろじ)の田代観音堂を移して再興しました。
尾道 元は向島三ツ石の草庵だった「信行寺」 1214年に浄土宗第二祖の聖光が開いた寺で本尊は阿弥陀如来。元は聖光が向島の三ツ石に一草庵を結んで住んだのがはじめである。 1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八書夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。 1891年山陽鉄道が開通したので、堂舎を現在地に移した。
海老名 ショウガ市が立っていた「豊受大神」 豊受大神縁起 豊受皇大神は古来相模牧遠馬名神の霊跡でしたが推古天皇の六年豊受皇太神騎馬の御姿にてご降臨されてより皇太神ご東行きの処 として此地をその鎮の宮と定められた。これより後聖武天皇の神亀二年勧請遠馬名神豊受大神と称し相模国の名神大社に列せられ のち遠馬二郎時国のとき遠馬十二ヶ村の総氏神として崇められた。 江戸時代幕府の社寺改めによって恩馬四ヶ村の総鎮守豊受皇太神と尊称、明治元年新政府の社寺分離令に従い社号を豊受大神と 改称した。御祭神は豊受毘売命またの名を登由宇気大神と申し本宮は伊勢国山田原に鎮座される。
鎌倉 北条政子の墓と伝わる五輪塔「寿福寺」 1200年 源頼朝夫人政子が、明庵栄西禅師(緑茶を伝えた人物—茶そのものは奈良時代に伝わっていた。)を開山として建てたもので、鎌倉五山の第三位の寺。 源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。 明治維新で神仏分離で鶴岡八幡宮(鶴岡八幡宮寺)の仁王門にに祀られていた仁王様が移築されています。
厚木 樹齢約500年のクスノキ「妻田薬師院」 %MCEPASTEBIN% 伝承によれば、本尊薬師如来座像は聖徳太子自身が彫刻されたもの、また脇侍仏の日光、月光両菩薩は運慶の作といわれています。しかし、この仏像も永禄12年(1569)、武田信玄が関東地方に出陣したときお堂が兵火にあった際焼失してしまったようです。現在の薬師堂は、18世紀中期に再建されたもので、本尊の薬師如来座像は天正7年(1579)武蔵国の住人・長野伊像之祐という人が寄進したものです。その後、お堂は数回にわたって修復されています。
厚木 平家の落ち武者が祀った「春日神社」 コノシロを食べない村(南毛利地区 温水(ぬるみず)の鎮守社は春日神社です。その鍵取りは、同村の旧家・奥田家が代々世襲しています。春日神社は藤原家の守護神です。源平の戦に敗れた平家の落ち武者がこの地に土着して、春日社を祀ったと伝えられていますが、その理由は分かりません。
尾道 「天神坊」とも呼ばれた「大山寺」 古くから「天神坊」とも呼ばれ、西隣の御袖天満宮との深い関係をしのばせている。開基の詳細は不明であるが、平安時代の初期、空海(弘法大師)入唐の頃には既に開かれていたと伝えている。 901年菅原道真が太宰府へ流されるとき尾道に船を寄せたという話は、当地では有名な伝説である。これはこの寺にも深い関係がある。1069~1073年頃に、西国寺の慶ばんが多くの末寺を建てているが、この寺もその頃興されたものと思われる。
鎌倉 七堂伽藍の大寺だった「海蔵寺」 もとは真言宗の寺でしたが、1253年(建長5年)鎌倉幕府6代将軍宗尊親主(むねたかしんのう)の命により、藤原仲能(なかよし)。しかし、1333年(元弘3年)の鎌倉幕府滅亡の時に焼失してしまいました。 その後1394年(応永元年)鎌倉公方(くぼう)足利氏満(うじみつ)の命により、上杉氏定(うじさだ)が源翁禅師(げんのうぜんじ)(心昭空外(しんしょうくうがい))を開山に招いて再建しました。それからは扇ヶ谷上杉氏の保護を受けて栄え、1577年(天正5年)に建長寺に属し、現在に至っています。
厚木 鋳物師が活動に因んでいる「鐘鋳神社」 御祭神:日本根古皇続弥照命(やまとねこすめらつぎいやてるみこと) 旧名:妙見宮(天之御中主神)。北斗七星を神格化して祭ったもの。 風土記稿によれば1629年 村民難波富右衛門が本国下総(千葉県)の原社を勧請したという。また地名の中金井について「古は金鋳と書し、上中下に分け唱へしなり、此所は鋳工銅銕を鋳し地にて、今も地中より銕屑でると云」としている。 鋳物師が活動してゐた記録があり、当社の「鐘鋳」の社名はこれに因んでいる。ご神体は銅製の男神立像。
厚木 温水(ぬるみず)の阿弥陀様「専念寺」 1603年、八王子滝山大善寺出身の専蓮社念譽存貞上人のもと、神奈 川県座間市新田宿の地に創建された。寺号「専念寺」はその開山上人の法名から名 付けられたと言われている。 本尊は阿弥陀如来、脇侍は観音菩薩・勢至菩薩。境内には聖観世音菩薩、六地蔵等がある。境内入口右手には瘡守稲荷社があり、江戸時代から大正時代にかけて広 く信仰が始まり現在に至る。
鎌倉 目の神様として親しまれている「御霊神社」 もとは関東平氏五家の始祖、鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされています。その後、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになりました。 後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれました。 景政の武勇伝から「目の神様」として親しまれている。例大祭には県の無形文化財に指定される「面掛行列」が行われます。
厚木 馬の安全とその供養の「七沢観音寺」 七沢字観音谷戸2741番地の奥まった所にあり、奈良時代後期元正天皇(715~723)のころ創建と伝えられます。その後土御門天皇の時不幸にも野火にて焼失し廃寺のままであったが、日向一ノ沢の浄発願寺の中興開山、木食空誉禅阿上人が七沢鐘ケ嶽に創始した禅法寺と共に開山された天台宗の寺です。