【智恩寺山王大権現懸仏】
江戸時代には、智恩寺境内にあった山王社にまつられていた懸仏(かけぼとけ)が、現在では本堂の中に保存されています。
山王権現とは、日吉神社・日枝神社の祭神であり、権現とは仏・菩薩が化身してわが国の神として現れることを意味しています。また懸仏は銅などの円板上に、仏像・神像を半肉彫りにあらわし、柱や壁などにかけて礼拝したもので、特に鎌倉時代から室町時代にかけての資料が多く見られます。
智恩寺の懸仏は、中央の仏像を、左右に配された猿が拝む形式であり、刻まれている銘文から寛永13年(1636)に荻野の鋳物師である森久左衛門重久が鋳造したことが分かります。
また、銘文によると、この懸仏が60日目ごとにめぐってくる庚申の日を信仰する、庚申信仰のために鋳造されたものであり、江戸時代には各村々で必ずといってよいほど数多く結成されていた庚申講の初期の資料として注目されています。
鎌倉時代から室町時代にかけての懸仏は、仏像を別に作り円板に取りつける形式ですが、智恩寺の懸仏は円板部と仏像を一度に鋳造するという手法であり、同形態の懸仏は、市内林・温水などでも確認されています。
戦国時代から明治初期に至る間、下荻野は鋳物師集団の活動の地として知られていましたが、この懸仏は江戸時代初期の鋳物師である森氏の作例として貴重です。
「文化財散策ガイドあつぎ」(厚木市教育委員会発行)より
天台宗の開祖 最澄は、比叡山延暦寺を開き、学問や修行をする場として、非常に大きなものを残しました。人によっては、当時の「総合大学のトップ」と見なされると言う方もおられ、多くの僧侶が比叡山で学びました。法然や親鸞も比叡山で「天台浄土教」という天台宗の中で発達した浄土教を勉強していますし、道元も最初は比叡山で勉強して、山を下りてから禅宗のほうに入っていくわけです。日蓮にしても、最初は比叡山で勉強している時期がありました。
この話が庶民に地蔵信仰を広めたという。
その後、保元二年(1157)に後白河法皇の勅命により、平清盛が西光法師に命じて京都の街道の入り口六カ所に六角堂を建てた。そして伏見の六地蔵を一体づつ分置し、西光法師が六地蔵巡りをしてから六地蔵巡りがはじまったといわれる。
悟りを得られなかった人間が地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六道のなかを輪廻することから救うため、「六地蔵」が生まれた。
六地蔵のいわれ
小野篁(おのの たかむら)は嘉祥二年(849)、熱病で意識を失って地獄に行き、そこで一人の僧が責苦に苛まれ苦しむ人々を救っているのを見た。僧は「私は地蔵菩薩である」と名乗り「六道の迷いの世界を巡りながら縁ある人々を救っているが、縁のない人を救うことはできず残念だ。貴方はこの地獄の有様と地蔵菩薩のことを人々に知らせてほしい」と語った。それを聞いて蘇った篁は、一本の桜の木で六体の地蔵菩薩像を刻んで大善寺の地に納めたことから、ここを六地蔵と呼ぶようになり、
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「山王権現は、最澄が鎮守として祀った比叡山延暦寺の守護神」
山王権現とは、比叡山の麓にある日吉(ひえ)大社〔日枝神社〕のこと。最澄が開いた天台宗の根本道場、延暦寺の守護神になっています。
日吉大社は大山咋神(おおやまくいのかみ)を主神とする古い山岳信仰の神社で、神仏習合のかたちをとって山王権現とよばれ、貴族から庶民にいたるまで、広く崇敬を集めています。
「天台教義を表す「山王」という文字の意味」
〈山王〉の山の字は縦が三画、横が一画で、王の字は横が三画、縦が一画。天台宗の教義である「三諦(締は真理)即一」の理を表すといわれています。あらゆるものごと(諸法)の本質は空であり〔空諦〕、空であるが仮に存在する〔仮諦〕、諸法は空でもなく仮でもないことを中の存在〔中諦〕という。この(三諦〉が完全に融合し、ひとつになる〔三諦即一]ところに真実の姿がある、と説いています。これは〈一心三観〉、〈一念三千〉の天台の教義を山王明神が託宣したものだというのです。