古くから「天神坊」とも呼ばれ、西隣の御袖天満宮との深い関係をしのばせている。開基の詳細は不明であるが、平安時代の初期、空海(弘法大師)入唐の頃には既に開かれていたと伝えている。
901年菅原道真が太宰府へ流されるとき尾道に船を寄せたという話は、当地では有名な伝説である。これはこの寺にも深い関係がある。1069~1073年頃に、西国寺の慶ばんが多くの末寺を建てているが、この寺もその頃興されたものと思われる。
寺に祀られている日限地蔵は心願成就の守り本尊として参詣祈願する人が多い。
隣(西側…海に向かって右側))の御袖天満宮とは、短い石橋でつながっています。
御袖天満宮とは境内続き。
往昔、釈迦如来が在世のさい、地蔵菩薩を召して日く「われ入涅槃すれば弥勒菩薩出世の暁まで五十六億七千万年なり、この間娑婆世界に於いて諸々の悪業をつくり五濁濫漫の苦海に沈める薄福重障の衆生をば済度し、永く悪道を離れて仏道を成せらしめよ」と-。この時から地蔵は我が身を百千億にもわかち民衆救済のため路傍にたたれた。
日限地蔵はその西側に構える御袖天満宮の鎮座にはおよばないものの、数百年前からこの地にありて、幕末ごろ現在のお堂の東手から移り住われた。
鎌倉にある安養院にも石造地蔵菩薩の像が安置されていて、「日限地蔵」の別名で信仰されている地蔵様があり、こちらでは「定めた日数内に願い事をかなえてくれる」とされています。
日限地蔵堂
心願成就の日限(ひぎり)地蔵尊として日を限って日参し、一心にお願いすれば願い事がかなえられます。特に受験シーズンになると合格祈願のため大勢のお参りがあります。
雨の蓮花坂を登り毎年七月二十三~四日に繰り拡げられる年一回の大祭に訪ずれてみると、狭い堂内にはお年寄りらが詣めかけ、失礼とは思いながら祭壇奥にかかる戸張を細目にあけてみると、風化が激しくローソクの油煙に黒ずんだ尊顔がノッペリした表情でのぞく。
高さ約1.2mの自然石に法体全体を浮き彫りにされ、錫杖と宝珠をしっかり握られ、まさに「石語らず仏また語るなく」といった風情で微光のなかにたてる。
(「郷土の石ぶみ」山陽日日新聞刊より)
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お地蔵さまこと地蔵菩薩は、坊主頭で赤いよだれ掛けをして、偉ぶったところがなく、さまざまな場所で人々を見守っています。お地蔵さまは他の仏さまと違って装身具を身に付けない僧形で、笑みを含んだ姿は親しみやすい。お地蔵さまは元々は他の菩薩と同じく、インドの王や貴族の姿を写して、有髪で派手な装身具を身に付けて飾っていたが、日本に来る前に中国で僧形になったようです。
日本では庶民的なお地蔵さまですが、実は菩薩で偉いのです。菩薩は悟りを得て仏の位にあるが、如来と違って人々を救うため、なお修行に励んでくれている
ありがたい仏さまなのです。衆生を憐れみ救うため、地獄、餓鬼、阿修羅、畜生、人間、天界の六道を廻っていることを表しています。一見、質素で庶民的な親しみやすいお地蔵さまですが、その姿を詳細に見ると立派な菩薩なのです。
他にお地蔵さまのいわれとして、昔、インドの二人の国王がともに釈迦の説法を聞き、一人は早く悟りを開いて一切智成如来になり、もう一人は、この世で迷い苦しむ人々を導いてから如来になることを誓って地蔵菩薩になったという説もあります。
ご利益は安産、健康、長寿、智恵、豊作、求財など
現世的で幅広い。
真言は「オン カカカビサンマエイソワカ」で、これを唱えれば、五穀豊穣(ごこくほうじょう)、敬愛和合、立身出世などの願いが叶えられるという。