幕府を開いた徳川家康は、再び戦国の世に戻さないことを目指ための政策の一つとして、諸大名の軍備拡大につながる新たな築城は許さず、また既存の城についても大掛かりな改修や拡張を禁じ、さらに陣屋を構えることにも厳しく制限していました。
そのような厳しい制限の中で、大久保教翅の陣屋構築願いは容認されました。許された背景としては、大久保家の先祖が家康以前の松平家と深い君臣関係があり、その後も家康に対して忠誠を尽くしてきたこと、および教翅の出身である小田原藩が幕府の親藩であったことで、それらにより特別な配慮がされたものと思われます。
江戸中期の天明に入って陣屋の築造が計画されました。計画は先ず候補地の選定から始められたが、大久保家は相模国の他に駿河にも知行地があって、その両方を検討する中で、江戸に近い相模国に陣屋を設けることが決まりました。
天明3年(1783)から用地の最終的な選定や土地の買い上けが始まりましたが、陣屋として最適な地勢や自然環境などを考慮した結果、候補地を中荻野村の字山中に決定し、そこに1町4反余りの主地を買収しました。
この土地の北側には甲州道が通っていて通行の便が良く、また南側には荻野川が流れていてそれが天然の堀の役目をしていました。その敷地内に藩主が住む御殿と家臣たちの長屋の他に土蔵・厩・辻番所・物置などの建物と2つの門と馬場・塀・矢場などが計画されました。
こうして計画が終わり、造営工事が進められた。翌天明4年の暮れには馬場や矢場を除く第1期の工事が完了し、藩主の教翅が行列を組んで念願の相模の領地に初入部したのであった。現在の陣屋跡は一部が公園として残されているが、大部分が住宅地となっています。往時を偲ぶものは稲荷社と手洗石だけです。この稲荷社は古くからこの地にあったもので、陣屋の工事中に再興し、山中稲荷として祀ったといいます。
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厚木の郷土史シリーズ ~厚木の歴史的石造物を巡って~ 制作:澤田五十二より)
制作 澤田五十二