鎌倉 安産の神様とされる産女霊神を祀る「大巧寺」

「おんめさま」(おうめさま)の名で親しまれている安産祈願の寺。
 創建は1320年と伝えられています。
 本尊は安産の神様とされる産女霊神(うぶすめれいじん)。550年前の室町時代、難産のために死んで霊となり人々を苦しめていた女の霊を、当時の住職であった日棟上人が鎮め、安産の神として祀ったことから、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになった。
 この寺は、はじめ大行寺(だいぎょうじ)といって十二所しありました。頼朝がある戦いのとき、この寺で練った作戦によって大勝したため、大巧寺と名を改めるよう命令したそうです。

厚木 長野、高遠石工の作か地蔵様がある「広沢寺」

 曹洞宗に属し薬師如来を本尊とし、創立は後花園天皇の時代、相州足柄上郡の最乗寺了庵彗明禅師が開山しました。
 禅師は、当時七沢城主であった上杉定正と親交が深く、寺内には領地の一部を寄附してもらった上杉定正夫婦の遺骨が埋葬されています。
 入り口の石段の途中に、長野の高遠から来た石工たちがつくったのでしょうか、江戸時代に作られたと思われる石仏があります。

鎌倉 日蓮も一時幽閉された土牢「光則寺」

 行時山光則寺と号し、もと妙本寺末。開山日朗。開基は北条時頼の近臣宿屋光則。境域は光則の居宅跡という。文永八年(1271)九月、日蓮が龍ノロ法難で佐渡に流罪になったとき、日朗ら門弟は捕えられて光則にあずけられ、光則は彼らを土牢に幽閉した。この間に、日蓮に帰依した光則は居宅を寺に改め、父行時の名を山号に、自分の名を寺名にしたと寺伝する。詳し寺史は不明。
 境内奥の墓地上にある。文永八年(1271)龍ノロ法難で日蓮は斬首をまぬがれ、佐渡へ流されるまで、他の僧俗とこの土牢に幽閉されたという。

尾道 日本最古の交通安全標識が「尾道東高等学校」

 ここは林芙美子の母校である。林芙美子の文学碑と対照的祥碑のすぐ後方に風雅な頼山陽遺墨の「往来安全」灯籠がひっそりたっている。
 この灯籠は頼山陽と交りが深かった籔内流茶道の宗匠内海自得斉が山陽来遊のさい揮毫を依頼して天保年中(1830-)当時山陽道の脇道として往来の激しかった東高下の防地川に建てたもの。
 1973年頃ここに移した、おそらく日本最古の交通安全標識なのでしょう。

鎌倉 北条時頼公の墓がある「明月院」

 明月院の由緒を述べますと、当寺は北条時頼公の墓といわれる宝笹印塔があることでもわかるように、北条氏執権第五代の最明寺入道時頼の仏道修行の小堂がはじめであります。名君時頼を記念して時宗は禅興寺を建て、後に廃寺となったが、その名残りのたった一つの塔頭が明月院なのです。
 さすが由緒ある古い寺、上杉重房木像、北条時頼塑像という名彫刻を持ち、古都鎌倉の伝統を脈々と伝えているのです。
(「鎌倉 趣味の史跡めぐり」長峰五幸著より)

福山 武器商人の使い?坂本龍馬「いろは丸展示館」

 いろは丸事件ば、慶応3年(1867)4月、龍馬は海援隊を組織し伊予大洲藩から借げ受けた西洋式の蒸気船「いろは丸」に乗って長崎から大坂に物資(鉄砲)を運ぶ途中、岡山県六島沖(現在の同県笠岡市)で、紀州藩の蒸気船「明光丸」に横から衝突されたのです。明光丸は鞆港へ向けて、いろは丸を曳航しようとしましたが、浸水のため宇治府沖で沈没してしまいました。
 このため両者は鞆の浦にとどまりの損害賠償について昼ゆ夜交渉を繰り返しましたが決裂し、舞台を長崎に移して再交渉を行いました。最終的に、龍馬側が賠償金を受け取る、ことでようやく決蒲ししました。
 この事件は、坂本龍馬が暗殺される半年前のことです。

愛川 八菅の七社権現とも呼ばれた「八菅神社」

 八菅山一帯は古くから、神仏混淆の信仰の聖地でした。日本武尊、役小角、行基などの来山が伝わっています。また、源頼朝や足利尊氏・持氏による堂社建築や整備が行われたといわれています。永正年間(1504~1521)の兵火による荒廃後、天文10年(1541)に遠山甲斐守綱景が社殿を再建。
 貞享4年(1687)京都聖護院の直末寺となり、本山派修験の一拠点となりました。回峰修業は春と秋に、八菅山と大山の間の峰々で行われていました。山内には七社権現と別当光勝寺の伽藍の他、五十余の院・坊がありましたが、明治時代の神仏分離令により光勝寺は廃され、七村権現は八菅神社と改称、今日に至っています。

尾道 花崗岩で出来た大石門をくぐり延命「持光寺」

 「ええ門は福善寺、かたい門は持光寺」…童歌までに唄われた同寺の門はそのものズバリ、主体だけ17個からなる花崗岩を組みあわせトンネル状に築きあげた石の門。全巾が5m、奥行き3.5m、高さ3.5mで、通路が巾3m、高き2.8m。これだけの石を据え微塵の狂いを生じてないあたり、基礎に相当の配慮がはらわれているのだろう。約三百年前に建てられたものであろうが、当時の築構技術の粋をあつめた“石の町”ならでの逸品。

鎌倉 平家一族の五氏の霊を祀る「御霊神社」

 御霊(ごりょう)神社の祭神は鎌倉権五郎景正(政)(ごんごろうかげまさ)です。景正は土地の人には「権五郎さま」と呼び親しまれています。
 御霊神社というのは土地の神として祖先をまつる神社のことで各地にあります。桓武(かんむ)天皇の子孫平良兼(よしかね)の孫、村岡五郎忠通(ただみち)という人の子に為通(ためみち)・景成(かげしげ)・景村(かげむら)・景通(かげみち)・影正(かげまさ)の五人がいて、五家に分かれたといわれます。忠通の死後、五家が栄えるようにと鎌倉に神社を建て、忠通と五家の祖先をまつり、御霊の神とか、五霊の神として尊敬してきたといわれています。

尾道 幕末の頃「拳骨和尚」がいた「済法寺」

 1753年広島国奉寺11世笑堂の開基と言われています。境内の山中の岩には釈迦や十六羅漢像など二十六尊者の石仏が刻まれています。
 またこの寺の9世物外(もつがい)不遷は「柔術不遷流」の開祖で多くの弟子を抱え、晩年は幕末動乱の中、平和を願い奔走し旅中に果てました。武術の他にも多くの俳句や書画を残し「拳骨和尚」として親しまれています。

鎌倉 双六勝負の形勢逆転した地蔵菩薩「延命寺」

 もと安養院末。開山は専蓮社昌誉能公。寺史は不明。鎌倉幕府の第五代執権で名執権とうたわれた北条時頼の夫人により創建されたと伝えられている。北条時頼の夫人の念持仏と伝える身代地蔵(裸地蔵)が有名で、江戸へ出開帳したこともある。
 なお、赤穂浪士の岡島八十右衛門の三男が住持したと伝え、義士の画像もあつたというが、いまはない。
 本尊「阿弥陀如来像」は、圓應寺の閻魔大王を彫ったあまりの木で作られたことから「木あまりの像」、また、予定より早く完成したことから「日あまりの像」と呼ばれている。

厚木 イチョウの古木が残る「荻野神社」

 荻野神社は、かっては石神社と呼ばれ、「新編相模国風土記稿」によれば、自然石を御神体とし、牛頭天王(ごずてんのう)を合紀し、荻野三村の鎮守で社領三石の御朱印は天正19年(1591)に附されたとあります。また銀杏樹(いちょう)は神木であると記されています。
 「イチョウ」も「ギンナン」も、漢字では「銀杏」と書く。この植物は1億5千万年以上も前から存在し、「生きた化石」と呼ばれている。氷河期のあいだ、比較的温暖だった中国大陸の中部地域で生き残った銀杏が、現在各地にある銀杏の祖先となったとされています。

福山 神功皇后の妹君の淀媛命を祀る「淀媛神社」

 この神社の祭神は淀姫命(よどひめのみこと)。三韓征伐を行った神功(じんぐう)皇后の妹君で、はじめは、海神・大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀った沼名前神社(渡守神社)の祭主を務める身でした。しかし、後世、その徳が偲ばれて氏神として奉斎され、鞆湾の入口を守護する守り神となりました。以降、この高台に鎮座し続け、現在に至っています。

 現在の社殿は大正3年に建立されたもので、平成13年に修復されています。

鎌倉 浄土、真言、華厳、律の兼学の寺「浄光明寺」

 山門を入ると客殿、庫裏、不動堂などがあり、その裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫があります。重要文化財の阿弥陀三尊像等は収蔵庫に安置されています。これらのさらに裏手、狭い階段を上った先の山上には岩壁をうがった「やぐら」があり、内部に石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)が安置されています。そこからさらに登ったところには国の史跡に指定されている冷泉為相(れいぜいためすけ、鎌倉時代の歌人)の墓があります。境内は、谷戸を雛壇状に造成した中世寺院の景観がよく保存されています。

尾道 文人たちが集まった橋本家庭園「爽籟軒庭園」

 橋本家は、江戸期から尾道を代表する豪商として知られ、尾道市街地の中で広大な当地は橋本家の別荘であり、爽籟軒と言われていました。橋本家は江戸期に代々町年寄を務め、田能村竹田、菅茶山ら多くの文人墨客と交友し、頼山陽や本因坊秀策を支えたことで知られています。
 また橋本家は、重要文化財浄土寺方丈建立(1690年)をはじめ、神社仏閣への寄進や、飢饉に際して慈善事業(1834年慈観寺本堂建立)を行い、更に1878年には県内初の銀行である第六十六国立銀行(現広島銀行)の創業、尾道商業会議所の創設(1892年)など、近代産業や諸機関の普及、育成に尽力しました。

福山 鞆  加藤清正公ゆかりの「法宣寺」

 友光軒の前の四つ辻から、鞆小学校前を経て法宣寺に至る道筋を、「清正公道(せいしょうこうどう)」と呼びます。これは江戸末期、法宣寺境内に加藤清正を祀るお堂があり、多くの参拝者を集めていた名残です。法華信仰の篤かった清正は、死後主に日蓮宗徒の間で治病除災の神として崇められたのです。清正公堂はなくなりましたが、今でも法宣寺には二体の清正公像があります。そのうち一体はなんと、清正公自彫りとの伝承も!

厚木 多くの古い石仏が掘り出された「金剛寺」

 807年(大同2年)に弘法大師によって建立されたと伝わる。古くは、七堂伽藍の備わった寺院だった。飯山観音の入口ともなっている小鮎川に架かる朱塗りの橋は「庫裡橋」と呼ばれ、金剛寺の庫裡に向かって架けられていたといわれている。
 鎌倉時代には、鎌倉の覚園寺や金沢の称名寺とも繋がりのある律宗寺院として栄え、相模国の華厳学研究の拠点としても栄えた。天文年間(1532~1554年)に曹洞宗に改宗され再興されている。

鎌倉 元寇を退けた北条時宗の菩提を葬る「仏日庵」

 北条時宗は公安9年(1284)に死去したのだが、その菩提はこの円覚寺の仏日庵に葬られた。
 その後北条貞時の時代になり、円覚寺は朝廷から太政官符を与えられ、官寺の寺格を得ることになる。貞時の死に際しては法堂が完成し、法要が営まれた。建武・暦応年間(1333~1342)に描かれた「円覚寺境内絵図」には、総門から山門、仏殿などが中国の宋にならって一直線に並び、その隆盛を今に伝えている。

尾道 海上3分の航海を体験しませんか「福本渡船」

 大林宣彦監督の映画「ふたり」「さびしんぼう」のロケ地となったり、PlayStation 4用ゲームソフト「龍が如く6 命の詩」にも尾道仁涯町の“仁涯渡船場”として描かれています。
 チケットを購入する必要はありません。船内で料金が徴収されます。カード類は利用できませんので小銭を用意して乗船して下さい。片道3分の航海を体験でき、通勤時間帯は約5分間隔、通勤時間帯以外は10分間隔で就航しています。(混み具合で変わることもあります。)

相模原 一遍が草庵を設けたのが始まり「無量光寺」

 1261年 23歳の一遍はこの地を訪れ、草庵を設けたのが始まり。その後上人は2度この地を訪れた。その高弟である他阿真教が1303年2月に遊行を終えて止住するために念仏道場を開いたのが起源であろう。1319年に真教が亡くなると、初期時衆教団の聖地となり、参詣者が引きも切らなかったことが他阿呑海の法語に遺っている。
 鎌倉幕府が滅亡したとき、鎌倉幕府からの帰依を受けた無量光寺は一時衰退した。
 戦国時代に無量光寺は歴代小田原北条氏の保護を受け、南関東を中心に勢力を誇った。しかし1590年に小田原北条氏が滅亡し、たび重なる火災のために、再び不振となった。