正覚山 静観寺(臨済宗)
福山市鞆町後地  標高:6.6m
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 創建は806(大同元)年、最澄によると伝えられています。当時は、7000坪の大敷地に七堂伽藍が建ち並んで、五重塔も天を衝き、たいへんに栄えていたといいます。
 のちの小松寺が境内に建立されことからも静観寺がいかに大寺院であったかを示しています。
 しかし、相次ぐ戦乱や火災によって、創建から千二百年の間に五回も焼けています。多くの文化財は焼失してしまいました。残念ながら現在では往時の栄華を物語るものは残されていません。

 それでも、この「静観寺」はしっかりと命脈を保ち、今でも、鞆一番の古刹として人びとに愛され続けているのです。時が止まったような、ほっと落ち着けるお寺さんです。
 平安時代には最澄により静観寺、空海により医王寺が創建され、それぞれ西日本の布教拠点となった。南北には北朝と南朝間で幾度も戦闘があり、静観寺五重塔など貴重な文化財が失われた。また鞆の浦が足利尊氏の再起の拠点となり、室町幕府成立へ重要な役割を担った。戦国時代に入ると、毛利、尼子勢の間で拠点争いの地となった。毛利氏擁護の下で室町幕府15代将軍足利義昭が長期滞在、鞆幕府とも呼ばれた。
 室町幕府の最後の将軍・足利義昭。信長が天下獲りに利用しようと一回担いだんだけど、面倒臭くなって京都から追っ払った。義昭が落ち延びた先が鞆。なんで鞆かっていうと、足利氏にとって、鞆は縁起のいい町だからです。
 室町幕府の祖・足利尊氏が、この鞆の地に
滞在し、弟の直義と軍議を開いたのだという。
 具体的には、この静観寺から北にちょっと行くと小松寺ってのがあってね。平清盛の嫡男・重盛ゆかりの手植えの松があったところ。そこに滞在中に、尊氏は光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受けて、意気軒昂と京に攻め上って、室町幕府を打ち立てた。






















 呼び戻された時には、もう、とっくに室町幕府はなくなっていました。
……「室町幕府は鞆で生まれて、鞆で滅びた」皮肉な話です。
 そのため、足利氏にとっては、鞆の地は、幕府開闢への大きな流れを掴んだ吉兆の土地だったのです。縁起を担いで、義昭が落ち延びてきた気持ちも、わかります。
 信長に追われて鞆の地に入った足利義昭は、毛利を頼ると、毛利のほうは、この静観寺を本陣として、
輝元が自ら義昭を迎え、義昭の亡命政府は、輝元の庇護の下、『鞆幕府』といわれ、義昭は鞆に数年滞在した。
 信長が本能寺の変でなくなり、次の秀吉の時代、もうそろそろ足利の殿さん許してやろうよ、ということで、義昭は京に呼び戻されました。








松上げ地蔵尊、奇跡の脱出劇

 江戸中期、「静観寺」で大火災が発生しました。風強く、火の回りが早すぎて、時のご住職は身一つで避難。ああ、ご本尊を焼いてしまった…そう嘆きながら、ふと庭の松の木を見上げてみると、何とそこには、ご本尊である「お地蔵さん」が座っているではありませんか!
 そういう顛末から、ご本尊は「松上げ地蔵」と称され、現在でも守りの菩薩として信仰を集めているのです。
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