1740年、尾道の町奉行に着任し広島藩の平山角左衛門《名誉市民》は、翌年の1741年に住吉浜を築造し尾道発展の基礎を築いた。その際、浄土寺境内にあった住吉神社をこの住吉浜に移して港の守護神とした。
毎年旧暦の6月28日前後(7月の終わり頃)の土曜日、平山奉行の功績を称えると同時に、商売の繁盛と海上交通の安全を願ってをおのみち住吉花火まつりが行われます。
カテゴリーアーカイブ: からだの散歩
厚木 廃仏毀釈の影響が大きかった「龍鳳寺」
鎌倉 由比ヶ浜の八幡宮「元鶴岡八幡宮」
元八幡は、相模守であった源頼義(よりよし)が京都の石清水八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(えき)(1051~1062年)で、奥州の豪族の阿部頼時(よりとき)・貞任(さだとう)に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡(ゆいごうつるがおか)のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
後三年の役のとき、頼義の子の義家(よしいえ)が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。
ところで、源氏は八幡神の使いのハトである伝書鳩を使うことが出来たという。鳩は時速60~100kmで飛ぶ。この通信手段は古代からあるが、日本の歴史上は「言い伝え」しかない。本当の極秘事項で、家康が鷹狩りの没頭したのは、鷹のエサでもあるハト(伝書鳩)を使わせないためだったのでしょうか?
尾道 瀬戸田 耕三寺「千仏洞地獄峡」
厚木 衆生を威嚇力で導く馬頭観音「七沢観音寺」
鎌倉 一遍は鎌倉門前払いのとき野営跡「光照寺」
尾道 名木蟠龍の松は涸れてしまったが「光明寺」
福山 鞆 神功皇后が海路安全を祈る「沼名前神社」
厚木 神仏分離令などで縮小した「子合地蔵尊」
江の島 たびたび裏山が崖崩れした「延命寺」
鎌倉 日蓮が辻説法を行った場所に「本興寺」
尾道 亀の形の小さな丘だった「亀山八幡神社」
厚木 江戸時代の山中藩陣屋跡「山中稲荷神社」
荻野山中藩陣屋跡(市指定史跡)
現在の下荻野字山中には、荻野山中藩大久保家の陣屋がありました。
幕府を開いた徳川家康は、再び戦国の世に戻さないことを目指ための政策の一つとして、諸大名の軍備拡大につながる新たな築城は許さず、また既存の城についても大掛かりな改修や拡張を禁じ、さらに陣屋を構えることにも厳しく制限していいました。
そのような厳しい制限の中で、大久保教翅の陣屋構築願いは容認されました。許された背景としては、大久保家の先祖が家康以前の松平家と深い君臣関係があり、その後も家康に対して忠誠を尽くしてきたこと、および教翅の出身である小田原藩が幕府の親藩であったことで、それらにより特別な配慮がされたものと思われます。
鎌倉 黒蜘蛛が疫病を蔓延、厄除けの「八雲神社」
福山 鞆 つわ者どものときの声「小烏神社」
尾道 三人の義賊、三つ首様をを祀る「海福寺」
鎌倉 天狗の姿をした像を祀る「半僧坊大権現」
福山 鞆 鬼子母尊講中お題目碑がある「妙蓮寺」
慶長年間(1596~1614)に実相院日玖が創建したと伝えられています。実相院日玖は元気で充実した年頃に日常のつきあいを断ち、法宣寺十四世恵性院日親の弟子となり、修行し、法華経を読すること40年、一万二千余巻におよんだ。
福山藩主・水野勝成殊勝に願い、寛永の末(1644年頃)今の地を賜い、三人扶持十一石を賜る。
本堂は、主として浄財を募り建立。上京し、本山から山号・寺号を請受した。庇護もあり、その勝俊の位牌が伝わる。承応年間(1652~1654年)に建立したと伝えられる三十番神堂があり、二代・日護の時、延宝年中(1673~1681)奉行・藤井六郎右衛門に願い出て、境内門前を広げ、四代・日義、元文四(1739)年に鐘を鋳造した。妙蓮寺本堂、鐘楼、山門とも元文年間(1736~1741)に再建された。