福山 鞆  加藤清正公ゆかりの「法宣寺」

 友光軒の前の四つ辻から、鞆小学校前を経て法宣寺に至る道筋を、「清正公道(せいしょうこうどう)」と呼びます。これは江戸末期、法宣寺境内に加藤清正を祀るお堂があり、多くの参拝者を集めていた名残です。法華信仰の篤かった清正は、死後主に日蓮宗徒の間で治病除災の神として崇められたのです。清正公堂はなくなりましたが、今でも法宣寺には二体の清正公像があります。そのうち一体はなんと、清正公自彫りとの伝承も!

厚木 多くの古い石仏が掘り出された「金剛寺」

 807年(大同2年)に弘法大師によって建立されたと伝わる。古くは、七堂伽藍の備わった寺院だった。飯山観音の入口ともなっている小鮎川に架かる朱塗りの橋は「庫裡橋」と呼ばれ、金剛寺の庫裡に向かって架けられていたといわれている。
 鎌倉時代には、鎌倉の覚園寺や金沢の称名寺とも繋がりのある律宗寺院として栄え、相模国の華厳学研究の拠点としても栄えた。天文年間(1532~1554年)に曹洞宗に改宗され再興されている。

鎌倉 元寇を退けた北条時宗の菩提を葬る「仏日庵」

 北条時宗は公安9年(1284)に死去したのだが、その菩提はこの円覚寺の仏日庵に葬られた。
 その後北条貞時の時代になり、円覚寺は朝廷から太政官符を与えられ、官寺の寺格を得ることになる。貞時の死に際しては法堂が完成し、法要が営まれた。建武・暦応年間(1333~1342)に描かれた「円覚寺境内絵図」には、総門から山門、仏殿などが中国の宋にならって一直線に並び、その隆盛を今に伝えている。

尾道 海上3分の航海を体験しませんか「福本渡船」

 大林宣彦監督の映画「ふたり」「さびしんぼう」のロケ地となったり、PlayStation 4用ゲームソフト「龍が如く6 命の詩」にも尾道仁涯町の“仁涯渡船場”として描かれています。
 チケットを購入する必要はありません。船内で料金が徴収されます。カード類は利用できませんので小銭を用意して乗船して下さい。片道3分の航海を体験でき、通勤時間帯は約5分間隔、通勤時間帯以外は10分間隔で就航しています。(混み具合で変わることもあります。)

相模原 一遍が草庵を設けたのが始まり「無量光寺」

 1261年 23歳の一遍はこの地を訪れ、草庵を設けたのが始まり。その後上人は2度この地を訪れた。その高弟である他阿真教が1303年2月に遊行を終えて止住するために念仏道場を開いたのが起源であろう。1319年に真教が亡くなると、初期時衆教団の聖地となり、参詣者が引きも切らなかったことが他阿呑海の法語に遺っている。
 鎌倉幕府が滅亡したとき、鎌倉幕府からの帰依を受けた無量光寺は一時衰退した。
 戦国時代に無量光寺は歴代小田原北条氏の保護を受け、南関東を中心に勢力を誇った。しかし1590年に小田原北条氏が滅亡し、たび重なる火災のために、再び不振となった。

鎌倉 足利尊氏屋敷跡に建てた「長寿禅寺」

 長寿寺は、初代鎌倉公方足利基氏(もとうじ)が父尊氏(たかうじ)のため、その屋敷跡に1374年(応安7年) に亡くなった古先印元(こせんいんげん)を開山として、1323年(元亨3年)~1336年(建武3年)ころに建てたといわれ大きな寺でした。一説には、足利尊氏が建てたともいわれていますが、尊氏の法名(ほうみょう)が関東では、長寿寺殿とされたのはこの寺の名が由来だといわれます。
 足利尊氏も織田信長も、「この世は幻のようなもの」といっている。
 そうはいいながらも、尊氏も信長も懸命に戦って人生を駆け抜けた。
 違いは、尊氏は家系(男系)をある程度残すことができたが、信長は残すことが出来なかった。信長にとっては「この世は幻のようなもの」でした。

尾道 虚空蔵堂もある「慈観寺」

虚空蔵堂
 「講(こう)」といい、同一の信仰を持つ人たちの結社で維持されていたお堂でした。現在は慈観寺さんが引き継がれているそうです。
 海中より引き上げられたと伝わる虚空蔵菩薩像を安置。「空海が、海の彼方の輝く老木を引き上げて等身大の虚空蔵菩薩座像を刻み安置した」、という伝説があります。
 疱瘡(ほうそう)(天然痘)にかかった子供が治癒したので、子供の病気の治癒に効くとされています。そのためか、「薬師如来の真言」を書いた紙が、下に貼られています。

鎌倉 創建年代は平安時代後期か?「御霊神社」

 通称(鎌倉)権五郎神社(ごんごろうじんじゃ)として知られている。権五郎神社の創建年代は詳らかではないが、御霊信仰思想の広がりと鎌倉氏による地方開発の展開を考慮すると、平安時代後期であると推定することができる。もとは関東平氏五家の始祖、すなわち鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされ、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになった。後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれた。

厚木 秀吉の小田原攻めの際、兵火に「法界寺」

 北条氏直が荻野郷の地頭松田康長に命じて造営。秀吉の小田原攻めの際、兵火にかかり以前のような繁栄は失われたことが相模国風土記稿に記されている。
 法界寺は荻野新宿の中央に現存し、戦国時代の末期北条氏家臣松田右兵衛大夫康長の創建によるもの、その後近世初期僧党誉の中興もあり壮大なる本堂を中心にして現存している浄土宗の寺です。
 新宿日吉神社脇の大山街道沿いにあり、江戸幕府の山中藩参勤交代の「殿様道」に山門を構えた名刹。

尾道 昔、夜毎に海上を照らした玉の岩の「千光寺」

【民話 千光寺の玉の岩】
  ぬばたまの夜は明ぬらし
  玉の浦にあさりする鶴鳴き渡るなり
 と、古歌にもうたわれているように、尾道は「玉の浦」とよばれていました。この名の由来に次のような伝説があります。
 ずっと、ずっとむかしの話。
 千光寺山は、むかしからぢ大きな岩がぎようちさんあるレころじや。今でもたたくとポンポン音がする「鼓岩」や、大きな亀が首をのばして下の道を見ようる一亀の岩一など大きな岩があるんよ。・・・・・

鎌倉 腰越 稲荷明神像もある「本成寺」

 門を入った正面に本堂があり、右側に墓地、左側に庫裏があります。日蓮の弟子日賢(にっけん)が1309年(延慶2年) に開いたと伝えられています。本尊は、三宝本尊(さんぽうほんぞん)(祖師)という「南無妙法蓮華経」のお題目が書かれた塔と釈迦如来、多宝如来で、日蓮上人像とともにまつられています。また、岩の上のキッネにまたがった稲荷明神像もありますが、これは「教(経)-稲荷」と呼ばれ、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つ江戸時代のものです。

福山 坂本龍馬と紀州藩が談判した「福善寺対潮楼」

 朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開された。
 江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいた。
 彼らは、対馬や壱岐から瀬戸内海を通って大坂・京に入り、名古屋を経由して東海道を行進して江戸に到達した。
 「いろは丸事件」の際,坂本龍馬(武器商人か?)ら海援隊と紀州藩が実際に談判を行った場所でもあります。

尾道 瀬戸田 武州から来た法然上人像「法然寺」

 法然上人(浄土宗の開祖)が、四国に御流罪になったとき(鎌倉時代の初め)、その徳を慕われた後白川法皇の皇女 如念尼(にょねんに)公は、この島の南側、御寺(みでら)の光明坊にご来寺になって、讃岐(現在の香川県)から上人をお招きになりました。
 上人は当地に庵を結び、御寺までお通いになって九十日の間、如念尼公に說法、ご教化されたと言われています。
 その後三原の仏通寺(臨済宗)の末寺となっていた時期もあるようですが、江戸時代の初め頃、慶長年間(1607年)に再興され、伽藍が整えられました。本堂、庫裡はいずれも慶長年間の建築です。

鎌倉 例祭では神輿が海に入る「五所神社」

 材木座に鎮座。祭神大山祗命・天照大御神・素盞嗚尊・建御名方命・崇徳天皇。例祭七月七日、神輿渡御がある。元村社。材木座区の氏神社。もと三島神社であったが、明治四十一年乱橋村と材木座村にあった諏訪神社・八雲神社・金比羅宮・視女(みるめ)社を合せて五所神社と改称した。視女社は補陀洛寺の鎮守で、見目明神(天照大御神)と牛頭天王を祀った社であった。境内に板碑がある。また神輿は寛永十九年(1642)修造の棟札がある。

浄土寺山8合目あたりに巨石「不動岩」

 浄土寺山は瑠璃山の別名をもつ。
 その8合目あたりに巨石が「不動岩」です。巨岩に不動明王が刻まれています。
 不動明王は、真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されています。
 密教の根本尊である大日如来の化身で「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれており、特に日本において根強い信仰を得ております。真言宗では大日如来の脇待として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もあります。
 浄土寺山の麓に真言宗の浄土寺があり、不動明王を刻み込んだのでしょうか。

鎌倉 仏の顔を納めている本尊の薬師如来「海蔵寺」

 昔、寺のうしろの山すそから、何とも悲しげな赤子の泣き声が毎夜のように聞こえてきました。
 開山の空外(くうがい)が、声のするところを探してみると、泣き声は古ぼけた墓石の下から聞こえてきます。そしてその墓石からは金色の光がもれて輝き、あたりにはよい香りがただよってい ました。そこで空外は、お経(きょう)をあげたあと、袈裟(けさ)をぬいで墓にかぶせました。すると不思議なことに、赤子の泣き声はピタリとやみました。翌日その墓の下を掘ってみると、18cmほどの立派な薬師如来のお顔が出てきました。 このあと空外は新しく薬師如来を造り、堀り出したお顔をお腹の中に納めてまつることにしたのです。

尾道 変化に富んだ天邪鬼が用水鉢の下に「浄泉寺」

「天水鉢をささえる八体の天ノ邪鬼」
 あるものは座り、あるものは横臥、また寝そべり、その肩から背にかけ天水の一角を支え、その面貌の変化に富んだ面白さ、四肢の動き、まさに石の町を代表する作品であろうが、惜しいことに同寺が明治二十二年、火災にあったさい、火にまかれ原型を損じ、さらに子どもの悪戯か、腕の一部が欠けるなど痛みが激しい。
 何事にも逆らって、仁王さんや四天王に踏みつけられるのが天の邪鬼。本堂の雨水を受ける水槽にまで天の邪鬼が押さえられている意匠が面白い。尾道石工のアイデアは実に豊かだった。

厚木 「星下り寺」とも称される「妙伝寺」

 妙傳寺は、文永8年(1271)日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流される際、当地にあったとされる本間六郎左衛門尉重連宅内の観音堂に逗留、月に向かい法楽したところ、邸宅内の梅樹に明星が降臨する奇瑞が顕れたところから、本間六郎左衛門尉重連が帰依しました。
 日蓮上人は曼荼羅を授与、弘安元年(1278)には僧日源が草庵を営み、日蓮上人を勧請開山、本間重連・重直兄弟を開基として創建しました。

 「星下り寺」とも称されています。

福山 鞆 恵瓊が住持を務めた「安国寺」

 瑞雲山安国寺。元々は、無本覚心(法燈国師)を開山として、1273年に釈迦堂(仏殿)を、翌年に阿弥陀三尊像を造立した『金宝寺』が、備後安国寺の前身です。
 その後、室町時代に「安国寺」と改めました。室町時代の末期に同寺は衰退するが、毛利輝元、安国寺 恵瓊が再興し、恵瓊が住持を務めていました。
 恵瓊は戦国時代から安土桃山時代にかけての人物で、京都の東福寺と更には安芸と鞆の両安国寺の住持を兼務する臨済宗の僧でありながら、毛利氏三代(毛利元就・隆元・輝元)に仕えた武将としても名を馳せました。
 更には豊臣秀吉にも重用され大変な実力者となりましたが、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍に与し敗北。後に捕まり死罪となってしまいました。

鎌倉 元寇戦没者追悼のため創建した「円覚寺」

 円覚寺の規模は、1283年には、正式な僧が100人、行者(あんじゃ)・人工が100人、その他の人が68人の合計268人でした。行者・人工とは、禅宗の寺で使われていた人達のことで、寺の様々な仕事をしていました。また、そのとき円覚寺で一年間に使う米の量は約1400石(約210 t)、銭は約1700貫文でした。このほかに寺の領地からは、大豆・まき・炭などが運ばれていました。
 1323年、を望が完成し、1334年~1335年に描かれたとみられる「円覚寺境内絵図」によれば、総門・山門・仏殿・法堂などが一直線上に並び、総門と山門との両側には、東司(とうす)(便所)と浴室があり、山門と仏殿の左右には、僧堂と庫裏が並んで中国風に配置されていました。また、このころの塔頭の数は、40を超えていました。