法華山 本興寺(日蓮宗)
鎌倉市大町2-5-32  標高 7.3m
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 1336年、日蓮が辻説法を行ったとされる場所に開かれた。開基は天目(日蓮の弟子)、開山は日什で、もともと天台宗の僧だったが、日蓮の著作にふれ改宗した。

 徳川家康に寺領を寄進されたこともあったが、1608年 不受不施派(ふじゅふせは)…法華経を信仰しないものから施し(布施)を受けたり、法施などをしない…は、江戸幕府より、キリスト教徒同等の宗教迫害を受け取り壊されている。1670年復興された。

 このお寺さんは、お寺の裏に通り抜けができます。

 境内:無料 
 日蓮が亡くなった後、その弟子の九老僧の一人といわれた高僧の天目もさかんに辻説法をしましたが、1336年(延元元年)開山となり、足利氏(あしかがし)の一族で奥州探題(おうしゅうたんだい)も務めた石堂良房(いしどうよしふさ)を開基として建てたのが、本興寺の始まりといわれています。
 14世紀後期の2代目の日什(にちじゅう)のころから、寄進や造営がさかんになって栄えたということですが、1416年(応永23年)、兵火のため焼け、翌年、鎌倉公方(くぼう)の足利持氏(あしかがもちうじ)が再興したといわれています。
 27代住職日径(にっけい)は、日蓮宗の中にみられた法華経(ほっけきょう)の信者にしか施しを受けず、また仏教の教えも説かないという「不受不施(ふじゅふせ)」の主張をしたために、江戸幕府の弾圧を受け、1608年(慶長13年)、京都六条河原(ろくじょうがわら)で処刑されて、本興寺も廃寺(はいじ)になってしまいました。
 その後、この寺の非運をなげく人々の努力が実り、1670年(寛文10年)、日逞(にってい)により再興されました。


 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 江戸時代末期の朱塗りの山門
 道路に面した所に、「日蓮(にちれん)の辻説法(つじせっぽう)」の旧跡に本興寺ができたことを記した石碑があります。
 後に修理はされていますが、江戸時代末期の山門の脇を通り境内に入ると、正面に本堂があります。内陣の梁(はり)や柱の色彩も鮮やかで、本尊の三宝祖師像
(さんぽうそしぞう)や日蓮上人像(にちれんしょうにんぞう)・開山の天目上人像(てんもくしょうにんぞう)などが安置されています。また境内には聖徳太子(しょうとくたいし)をまつる太子堂(たいしどう)があります。
 日蓮の辻説法というのは、日蓮が名越(なごえ)の




「御草庵(ごそうあん)」といわれるところに寝泊りしながら、毎日人通りの多い大町(おおまち)や小町(こまち)の辻(つじ)に立って説法したといわれることですが、本興寺のあるこの地もその場所の一つだといわれ「日蓮の辻説法」の霊跡になっています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 日蓮は民衆に直接説法することで「法華経の真髄を民衆に理解してもらいたい」と熱弁をふるったそうです。
 法華経では文殊菩薩が竜宮で法華経を説き、八歳の龍女が成仏する女人成仏の教えを初めて説いたため、平安時代以降、普賢の女性信者が増加しました。
 本堂。1670年に復興された。
 日蓮は、民衆に直接説法することで「法華経の真髄を民衆に理解してもらいたい」と熱弁をふるったのだった。 
 しかし日蓮の説法は「法華経こそ、仏の真の教えである」ということで、他の宗派を激しく批判したので、反発も強く、他宗を信じる民衆からは
石や瓦を投げつけられてしまう。それでも、日蓮はひるむことなく布教活動を続け、確実に信者を増やしていった。
(「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著より)






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