建長寺 半僧坊大権現
鎌倉市山ノ内 標高 103.4m
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 後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」(むもんげんせんぜんじ)が開いた方広寺(静岡県浜松市)が半僧坊の本元と言われています。
 無文元選は、父の後醍醐天皇が崩御した翌年の1340年に建仁寺で出家、その後、元に渡り福州大覚寺で古梅正友に参禅し、各地を巡拝した。日本に帰国するとき嵐にあい、そのとき、今にも大波に飲み込まれそうな船中で禅師が観音経を唱えていると、鼻が高く眼光の鋭いひとりの異人が現れました。この異人が「わたしが禅師を無事、日本にお送りします」と、船頭や水夫を指揮して台風を見事乗り切り、博多の港へと導いて姿を消したのでした。
 その後、禅師が方広寺を開くと、その異人が再び姿を現し「弟子になりたい」と願いました。禅師は「あなたは、半ば僧のようなところがある」と言われて弟子になることを許し、そこから「半僧坊」と呼ばれ修行に励むことになりました。
 半僧坊本殿の左側に古い井戸がありますが、井戸の少し上に、開山の「座禅窟(ざぜんくつ)」と呼ばれる洞穴があります。ここには、次のような話が残っています。
 大覚禅師がここで坐禅をしていると、踊念仏(おどりねんぶつ)有名な一遍(いっぺん)が訪ねてきて、
   躍りはねて 伏してだにも かなわぬを
   いねむりしては いかがあるべき
という歌をよみました。大覚はこれに答えて、
   躍りはね 庭に穂ひろう 小雀は
   鷲(わし)のすみかを いかが知るべき
とよみましたので、一遍も大覚に敬服したということです。
 一遍は遊行上人(ゆぎょうしょうにん)とも呼ばれ、鎌倉時代に時宗(じしゅう)を開き、全国を歩いて念仏の教えを広めました。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 権現堂。
 お堂の中には、天狗の姿をした半僧坊(はんそうぼう)像がまつられ、神と仏が一緒になった信仰を伝えています。ここからの眺めはたいへん素晴らしく、毎月17日にお祭が行われます。半僧坊の天狗には次のような話が伝わっています。
 方広寺の開山である無文禅寺(むもんぜんじ)が寺を
開こうとしたとき、土地の神の天狗が現れ、寺を作るのを手伝いました。その天狗が無文に弟子入りしようと頭を剃(そ)ってもらおうとしましたが、長年山の中で暮らしていたため、髪の毛がぼさぼさでうまく剃れませんでした。痛さに耐えかねた天狗は、半分剃ったところで




 「もうやめてほしい。」
と言い出しました。すると無文は、
 「半分だけなのでお前は半僧坊だ。」
と言いました。それを聞いた天狗は、
 「半僧坊で結構ですから、これからはこの寺を守ります。」
と言ったそうです。
 勝上巘(しょうじょうけん)は、高さが114mほどで、ここから尾根づたいに天園・覚園寺・瑞泉寺方面や明月院・六国見山方面へのハイキングコースがあり、鎌倉の山々や町のようす、相模湾などがよく見え、春秋の遠足などにも良いところです。
 天狗のイメージのもとになったともされる猿田毘古神は、『日本書紀』によると鼻がきわめて長く、背も高く、目は鏡のように輝いていたとあります。神々の道案内をするという役割は、のちに方角の神、旅の神、道の神という信仰を生みだしました。
 伝えられる話でも、天狗による神隠しの話や、悪いことをして天狗に懲らしめられたり善いことをして褒美をもらった話、または、仏教を護持する天狗の話や、逆に仏教の邪魔をする天狗が高僧に退散させられる話など、バリエーションに富んでいます。


 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より






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