子合地蔵尊
厚木市下荻野  標高:59.4m
ウォーキング地図へ
 『子合地蔵牌山来記』によると、この地蔵尊は、八幡太郎義家の六男・森冠者義隆に縁のあるものといいます。保元・平治の乱の折、義隆は妻子をおいて相模国毛利荘荻野郷に落ちてきました。義隆の死後その終焉の地に参ろうとこの地にやってきたのは、義隆の遺児の僧・浄慶でした。浄慶は、子合に住まっていた義隆の郎党・毛利のもとを訪ねました。主計は、義隆追善のため上京、河内国(大阪府)壷井にて義隆縁の地蔵尊をいただき、郷里・荻野郷子合に戻り、浮慶に託して、義隆公三十三回忌の法要を営みました。その折に建立したのが、子合地蔵尊です。
 子合地蔵尊の側に子安山光善院があり、地蔵堂を管理していましたが、明治初年修験道禁止令により、寺は廃止され、住職は還俗して神官となりました。子合地蔵堂には安産祈願の信者が多数参詣して賑やかであったといいます。この地蔵尊は、日本三体地蔵尊の一体で、他の二体は、河内国丹南郡、福島県安達郡帯解村子安に各一体あります。この三体は同木同作で、それぞれ霊験あらたかな安産祈願の地蔵として有名です。

 【出典】『厚木の伝承と地名』『ふるさとを知ろう講座』
 (「厚木の口承文芸」編集・発行:厚木市教育委員会社会教育部
                 文化財保護課文化財保護係)
【明治初年修験道禁止令】

1868年(明治元年)「神仏分離令」
1872年(明治5年)「修験道廃止令」発布。

 多数の寺院は廃寺、または神社に変更し生き延びた。「修験道廃止令」以降、公には山伏は存在しなくなった。さらに明治政府は、山伏の収入源であった行為を禁止する命令を相次いで出した。
 翌年には、狐憑き(きつねつき)を落すような祈りをしたり、玉占いや口寄せを業としている者が庶民を幻惑しているので、そのような行為を一切禁止。翌々年には、禁厭(まじない)、祈祷等を行ない、医療を妨げ、湯薬を止めることの禁止。その後も、禁厭、祈祷等を行なって病人の治療、投薬を妨げる者がいれば、そのことを役所に報告すること、など禁止令を厳格にしていった。
 明治政府は、欧米と対等の立場にたてるよう、近代国家形成を目指し、中央集権的政府の確立をはかった。そのため、天皇を中心とした祭政一致国家の建設のために「国家神道」で、尊王思想を普及させた。
 神社神道を国家の宗祀とするための政策が進められた。廃仏毀釈もその一環。神仏習合の山伏や修験道は国家神道普及の障害の大きな要素だった。山伏の悪評を最大限に利用して仏教施設や仏具もろとも民間に普及していた修験道を消滅させようはかったのでしょう。
 子合地蔵尊が建っている境内は、古くは鋳物師がいたとされている場所であったという。
 廃仏毀釈は、国学の平田派など一部の過激な国学者や神道家、および地方の神官などが一般の民衆を扇動しにためで、その破壊行為は全国的な規模で行われた。
  廃仏毀釈の騒動が、一部の過激な国学者や神道家による扇動で引き起こされたですが「一般民衆が
何故そのような扇動に乗って破壊行為に及んだのか」という疑問があるが、それに対しては次のような背景があったことを指摘する説がある。
 江戸時代の封建社会では、幕府がキリシタン禁制を徹底するために寺院による寺請制度を設けた。その制度では、庶民は自分の宗旨に従って檀那寺を決め、




その寺院が 管理する「宗門人別改帳」に戸主以下の家族と奉公人の名前や年令などが書き込まれた。それによってキリシタンではないことを寺が証明したのである。 しかし、その寺請制度の中に寺院側の不正が生じることがあったという。例えは、葬儀の際に戒名料などの市施が少なかったりすると破門を仄めかすことなどで、もし破門となれば宗門人別改帳から除かれてキリシタンと見做される恐れがあり、寺の要求に応じざるを得なかったのである。
 このような不正は寺請制度の発足以来起きていて、
寺に対する長年の不信と不満が背景となって廃仏毀釈での暴力的行為に作用したのだといわれている。

(「厚木の郷土史シリーズ ~厚木の歴史的石造物を巡って~ 」 制作:澤田五十二より)






へ:  日吉神社へ:
1頁へ  2頁へ