子合地蔵尊
厚木市下荻野  標高:59.4m
ウォーキング地図へ
地蔵菩薩

 浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。
 地獄・餓鬼・修羅など六道をめぐりながら、人々の苦難を身代わりとなり受け救う、代受苦の菩薩とされた。際立って子供の守護尊とされ、「子安地蔵」と呼ばれる子供を抱く地蔵菩薩もあり、また小僧姿も多い。
 賽の河原で、獄卒に責められる子供を、地蔵菩薩が守る姿は、
 現在、子合地蔵尊が建っている境内は古くは鋳物師がいたとされている場所で、さらに北に少し行った所にある日吉神社は荻野郷に住んでいた鋳物師たちの鎮守社でもあったという。
 鋳物師が荻野郷に移った背景として北条氏による宿場の整備と六斉市の開始がある。
 北条氏の初代である長氏(早雲)は、小田原に城を構えていた豪族の大森氏を攻めて城を奪い、以後そこを根拠地として永正13年(1515)までに相模国の全域を平定した。
 二代目の北条氏綱は、さらに勢力を関東一円に広げるために
中世より仏教歌謡「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知られるようになり、子供や水子の供養において地蔵信仰を集めた。関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われる。



様々な方策を講じたが、その一つに小田原と関東各地を結ぶ主要な道路の整備と宿場の設置があった。
 現在、荻野新宿の交差点がある場所は古くから街道が交わる交通の要衝で、氏綱はここに宿場を設けたのである。また四代目の氏政は、宿場の繁栄のために楽市も開かせた。
 鋳物を作るためには地金や添加物、燃料および鋳型の砂や溶解炉の石材などの多くの資材が必要となる。それらを周達するには流通が発達していることが重要で、北条氏による宿場の整備と市の開始は、鋳物師が工房を構えることにも大きく影響したと考えられている。


へ:  日吉神社へ:
1頁へ  2頁へ