日蓮が佐渡国に流刑になるとき立ち寄った「圓教寺」

 文永八年(1271年)九月十二日、日蓮上人が龍のロの難を逃れ佐渡国に流刑になるとき、座間の対岸の依智(知)郷(厚木市)にあった佐渡国の領主本間六郎左衛門重連の館へ預かりとなりました。このとき警護の役人として龍のロから依智まで付き添って行ったのが鈴木家先祖の弥太郎貞勝でした。
 貞勝は昨夜の出来事に大変に感服し、依智に向かう道中で、日蓮上人に是非途中で座間の私の家へ立ち寄ってご休息をされるよう請い願いました。熱心な貞勝の勧めに日蓮上はお立ち寄りになり、心のこもったもてなしを受けました。

鎌倉 日蓮が一時、この夷堂に滞在「本覚寺」

 この寺を開いた人は、一乗院日出(にっしゅつ)です。この人は、寺の縁起によればもとは学者でしたが後に日蓮宗の僧になりました。生まれた所は、駿河の国(今の静岡県)三島で、いろいろな迫害や苦労にたえられる修行をしました。その後、鎌倉の夷堂(えびすどう)に住み、教えを広めようとしましたが、他の宗派の人々の反対にあい、鎌倉公方足利持氏(あしかがもちうじ)に捕えられ、刑場で殺されそうになりました。しかし、夷神(えびすがみ)のお告げにより許されたといわれます。このことがあって持氏は、夷堂のあったところに本覚寺を建てて日出に寄進したそうです。

尾道 手水に石造の神亀が「艮神社」

「石造の神亀(しんき)」
  神亀には耳があり、繊細に掘りがされています。亀の口から水が出ています。「亀は万年」と言われて縁起が良く、亀の長寿にあやかったものなのでしょうか。
 「幸運」を自分のもとに引き寄せるための努力は、焦ってはいけません。慌てる必要はないのです。亀のように遅い歩み方でもかまいませんから、休まずに、少しずつ続けていくのがいいのです、よ。

厚木 源頼朝側室後の局、祭神小町姫に祈願「小町神社」

 平安初期の歌人として、また美人として有名な小野小町の出生地と言われています。これが小町姫を祭る小町神社です。毎年四月二十一日が祭日になっていて、かつては近在からの人出で大いににぎわったようです。
 鎌倉時代、源頼朝の側室後の局は頼朝の子を身ごもったことから、政子に恨まれて処刑されそうになりました。それを命じられた畠山重忠(鎌倉初期の武将)の家人本田次郎が心をひるがえして局を連れて、難波(大阪)へ逃げるという事件が起こりました。しかし、一説では、地元の豪族愛甲三郎季隆が局をかくまって、この山里に住まわせた、と。

鎌倉 桟敷尼が日蓮にぼた餅を差し上げた「常栄寺」

 この寺の裏山は、かって源頼朝が由比ケ浜の放生会(ほうじょうえ)を見物するために、展望台のような桟敷を設けたところだといわれています。後に、ここに住んだ将軍宗尊親王(むねたかしんのう)の家臣で、日蓮宗の信者であった兵衛左衛門の妻は桟敷尼と呼ばれました。桟敷尼は、1271年(文永8年) 9月12日、捕われの身となった日蓮が馬で龍ノ口の刑場に引かれていくとき、ごまのぼたもちを作って日蓮に「仏のご加護がありますように」と差し上げたということです。このぼたもちのおかげでしょうか、処刑されそうになった日蓮を助ける奇蹟が起こりました。このことから、「首つぎのぽたもち」ともいわれ、有名になりました。

尾道 裏山の自然石に彫られた十六羅漢「済法寺」

 山斜面の自然岩に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。
 「十六羅漢」とは、お釈迦様の弟子で特に優れた代表的な16人の弟子を十六羅漢といいます。仏教を護持しようと誓ったとされる弟子達です。羅漢は阿羅漢の略で、供養に値する人という意味です。

鎌倉 鎌倉五山のうちの一つ、幽谷の山寺だった「浄智寺」

 鎌倉五山のうち建長寺、円覚寺、浄智寺の三寺は山ノ内の北鎌倉にある。その理由は、山ノ内の北鎌倉周辺が北条氏の領地だったことによるとのこと。
 1356年の火災で創建時の伽藍は焼失、1386年には既に復興していたため、足利義満が定めた鎌倉五山のうち四位に入った。
 また、関東大震災で諸堂は潰滅し、現在は山門や仏殿が点在しているだけになった。そのためか、深山幽谷の山寺といった風情がある。

福山 鞆 朝鮮通信使の常宿でもあった「南禅坊」

 天正年間(1573~1591年)に創建したと伝えられる。
 元々、福禅寺下にあったが、江戸中期(正徳年間・1711~1715年頃)に現在地に移転する。
 寺院調査の中で、「梵鐘一件記録」が発見され、鐘の供出を巡る経過を詳しく記した史料として貴重である。
 かって、その鐘があった鐘楼門(山門)は現存する。
 なお、境内には、宮城道雄(「春の海」(箏と尺八)の作曲家・箏曲家)の先祖墓がある。
 江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。

鎌倉 北条一門の霊をなぐさめる「宝戒寺」

「北条氏減亡の地に建つのが宝戒寺」
 このあたりは、鎌倉時代の執権であった、北条一族の中でも「得宗家(とくそうけ)」と呼ばれる北条氏本家の屋敷があったところといわれくいます。
 1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めにより、北条氏は滅んでしまいました。その後、1335年(建武2年)に北条高時をはじめとする北条一門の霊をなぐさめるため、後醍醐天皇が足利尊氏に命じてこの地に寺を建て、宝戒寺名付けました。

尾道 疫病退散祈願のベッチャー祭「吉備津彦神社」

 寶土寺西側の鳥居のある一劃は吉備津彦神社、俗にいう一宮さんで、毎年11月3日文化の日に、尾道全市の子供たちを湧き立たせる奇祭ベッチャー祭の祭神で、ベタ、ソバ、ショーキーはこの神社から繰り出すのである。
 神輿と獅子頭を先頭にベタ・ソバ・ショーキーの三鬼神が市内を練り歩き、子どもたちを追い回す神事。「ベタ」「ソバ」が持っている「祝棒」で突かれると子宝に恵まれ、「ショーキー」が持っている「ささら」で叩かれると頭が良くなるとされ、子供達は「ベッチャー、ベッチャー」とはやし立てる。江戸時代に流行した疫病退散祈願から始まった西日本有数の奇祭。

相模原市南区 2012年4月出火、その後再建「下溝八幡宮」

 この神社は、天文年間(1532ー1555年)に溝郷(ごう)が上溝と下津の両村に分かれた際に、下溝村の鎮守として上溝の亀ヶ池八幡宮から勧請して創建された神社であると伝えられています。
 また、中世の屋敷跡と思われる「堀の内」と呼ばれる地点からみて、その裏鬼門(西南)にあたるので、ここに建立されたという話もあります。
 参道の脇にある小祠には、市の重要文化財に指定されている「不動明王坐像が安置されています。これは享保9年(1724年)に後藤左近藤原義貴(ごとうさこんふじわらよしたか)が製作したもので、もともとは別当大光院の本尊でした。

厚木 もとは天台宗、鎌倉時代に日蓮宗に改宗「戒善寺」

 1282年に開創。もともとは天台宗のお寺、日源の手により日蓮宗に改宗した。
 当山は平安期天台宗の寺として草創された。 1180年 源頼朝は源氏再興の旗挙げ時。 万一陸路敗走の道として、荻野から甲州へのルートを準備した。
 頼朝は「我亡きあとはこの持仏釈迦如来を守り源氏再興を計ってくれ」と頼み、 持仏を授けて家来を荻野へ駐屯させた。釈迦如来像は近くの戒善寺に釈迦堂一宇を建立して安置された。
 1271年、依知郷に滞在中の日蓮大上人は、戒善寺に釈迦堂のある事を知り、親しく巡錫参詣された。住転日相は大上人の教化に浴し、師日源を開山に仰ぎ、山号を満星山とし日蓮宗に改宗した。

鎌倉 かくれ里の稲荷が頼朝の夢に「佐助稲荷神社」

 佐助稲荷には、次のような話が伝えられています。
 源頼朝が、伊豆の蛭ケ小島に流されていたとき、夢を見ました。
 ひとりの気高い老人が現われて。
 「あなたは清和天皇に始まる源氏の直系の子孫なので、早く兵を挙げ、平氏を滅ぼして天下を統一しなければならない。その時期が来たことを知らせに来た。」
というのです。頼朝が、
 「あなたはどなたですか。」
と尋ねますと、
 「わたしはかくれ里の稲荷である。」
といって消えてしまいました。
 頼朝がその老人の教えに従って兵を挙げ、平氏を倒して鎌倉に幕府を開くことができました。

尾道 海に続く公園がある「尾道駅前海岸」

 1999年(平成11年)に駅前再開発が行われた。駅舎は古い景観を保ったが、そのほかは様相が一変し、近代的な商業施設やホールが建てられた。
 現在は、駅を降りすぐに見える尾道水道(瀬戸内海)は以前よりも広くなった。
 以前は駅舎の正面に桟橋があり、その西に魚市場があった。
 そして、2019年3月10日、新たな二階建の駅舎が開業。

 「巷に来れば憩いあり人闘みな吾を慰さめて煩悩滅除を歌ふなり」林芙美子

座間 源頼朝在世中に坂東八番の札所に「星谷寺」

 行基菩薩が諸国教化の際当地で金光星の如く山谷に輝くのを見て、自ら聖観音の像を彫刻し、堂宇を営み星の谷観音堂として建立されたも。

 観音堂は鎌倉時代に焼失し、現在地に移されたと伝えられる。江戸時代には、坂東三十三ヶ所の第八番として崇敬を集め、1591年には徳川家康より寺領2石の朱印状を拝領している。関東以北では2番目に古いという梵鐘の他、星谷寺七不思議など古くからの言い伝えが数多くある。

福山 鞆 いろは丸事件の談判をした「福善寺対潮楼」

 海岸山千手院福禅寺の本堂に隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1690年頃)に創建された客殿で国の史跡に指定されています。座敷からの海の眺めは素晴らしく、1711年、朝鮮通信使の李邦彦は「日東第一形勝」と賞賛。1748年、洪景海は「対潮楼」の書を残しています。
 また、「いろは丸事件」の談判を行った際,坂本龍馬ら海援隊と紀州藩が実際に談判を行った場所でもあります。

鎌倉 高い道のところに置き去りにされた「成就院」

 平安時代の初期、真言宗の開祖の空海がこの地を訪れ、景勝地だったこの地で数日間に渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法(真言を百日間かけて百万回唱えるというもの)を修したという霊跡に、1219年に鎌倉幕府第三代の執権北条泰時は京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立し、普明山法立寺成就院と称した。
 坂の頂部にあり、昔の高い道のところに置き去りにされた格好。しかも高いところを桐くづした道路の対面にも墓地がある。
 順徳天皇の1219年11月21日に開かれたが、その後兵火にあい、他へ移っていたが江戸期にまた当地へカムバック。
 寺宝としては、星の井から出た明星石のほかに本尊不動尊明王、繊細なきり金文様をそなえる千手観音像。それから文覚上人荒行像と呼びならわされているユニークな小像を持っている。

尾道 行基菩薩創建と、真言宗醍醐派の大本山「西国寺」

 西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山。 ある日、尾道に立ち寄られた行脚の中の行基はその夜、加茂明神の霊夢を見て、その御告げによってこの地に開山したと言い伝えられます。
 「織田信長を呪い殺す“調伏”がこの大寺で行われた」とか。
 昔から真言密教は、どろどろとした人間の最も暗部の欲望を開放する宗教。人を生かすことも、人を殺すことも宗教の重大な役目だったと。だから信長は光秀に本能寺で殺されたのだろうか?
 と考えてみるのも面白い。

厚木 起立時は萬木千草地に満ちていた「宝泉寺」

 現在の地に初めて堂宇を建立したのが、曽我の小林平馬の弟、「宗珍和尚」 で、師は43年間の在住により布教を発展させ今日の基礎を築いた。
 その後6世「悟庵珊道和尚」の時(1654年、厚木市三田「曹洞宗・ 清源院」6世玉山智存大和尚を法地の開山とし、曹洞宗・宝泉寺の1世に請した。それから今日まで、布教や伽藍・境内地の整備にと壇信徒と共に歩み、19世「大満悦道大和尚」の時に客殿庫裏を、20世「大光真道」の時、現本堂のそれぞれ落慶(2001年)を迎えた。

鎌倉 ぼたもち寺ともいわれる「法源寺」

 法源寺は、ぼたもち寺ともいわれ、桟敷尼(さじきに)が龍ノ口(たつのくち)の法難(ほうなん)の日蓮にぼたもちを供養(くよう)したといわれます。大町の常栄寺(じょうえいじ)にも同じ話がありますが、桟敷尼の実家が腰越だったといわれます。境内の向かって左側の建物は、「経一殿(きょういちでん)」という額を掲げる稲荷(いなり)堂です。