厚木市古民家岸邸として開館されています。古民家岸邸は、郷土に残された貴重な文化遺産として、皆さんに公開しながら長く保存をしていきます、と。 古民家は、当時の生活を色濃く伝えるものです。生活のスタイルが大きく変化してきた現代では、ますます注目されてきています。随所で見られる、職人が手をかけて作った凝った意匠も一遍ではなく、建築当時の時代の先端的な様式を併せ持ち、家を作った職人の技と、家を守ってきた人々の営みを感じてみてはいかかでしょうか。 |
カテゴリーアーカイブ: からだの散歩
福山 鞆 神功皇后の妹君の淀媛命を祀る「淀媛神社」
鎌倉 龍口寺輪番八ヶ寺の一つ「本成寺」
尾道 浄土寺山中腹に大日如来の使者「不動岩」
厚木 日蓮上人配流のとき逗留した「妙伝寺」
鎌倉 もとは新井(荒井)の闇魔堂だった「円応寺」
尾道 度々の災害に遭った西国寺塔頭「持善院」
相模原南西部 2012年4月全焼したが再建「下溝八幡宮」
この神社は、天文年間(1532ー1555年)に溝郷(ごう)が上溝と下津の両村に分かれた際に、下溝村の鎮守として上溝の亀ヶ池八幡宮から勧請(かんじょう)して創建された神社であると伝えられています。また、中世の屋敷跡と思われる「堀の内」と呼ばれる地点からみて、その裏鬼門(西南)にあたるので、ここに建立されたという話もあります。参道の脇にある小祠には、市の重要文化財に指定されている「不動明王坐像(ふどうみょうおうざぞう)が安置されています。これは享保9年(1724年)に後藤左近藤原義貴(ごとうさこふじわらよしたか)が製作したもので、もともとは別当(べっとう)大光院の本尊でした。<br> 相模原市相模原市観光協会(案内板より) 2012年4月4日に全焼しましたが、建て直されています。 |
福山 鞆 2014年5月火事で焼失「大観寺」
鎌倉 鎌倉交通の要衝であった「化粧坂」
尾道 五百羅漢の群像がある「天寧寺」
厚木 かっては石神社と呼ばれた「荻野神社」
鎌倉 源頼朝の館 大倉御所の北隅「白旗神社」
尾道 アララギ派のリーダー「中村憲吉旧居」
中村憲吉はアララギ派のリーダーとして現代日本歌人の第一人者として短歌界に重きをなしました。(アララギは、正岡子規門下の歌人たちによって結成された短歌結社誌) 1933年12月25日に病気(肺結核と急性感冒)の療養のために、おだやかな尾道の千光寺山中腹に転地し、1934年5月5日、45歳の若さで帰らぬ人となった。斎藤茂吉をはじめとする多くの文人たちが見舞いに訪れたといわれています。 ここでは、離れの建物のみ見学できる。中村の資料などは文学記念室の方で展示されています。 注)「文学記念室」は、2020年3月末、入館者数の低迷などを受けて閉館したようです。この施設も文学記念室の一部なので、閉館したのでしょうか。 |
相模原 西部 北条氏照の娘貞心尼を中興開基の「天應院」
鎌倉 腰越 生き延びた比企高塚の屋敷跡に「本龍寺」
尾道 断崖に造られたとは思えない「千光寺」
厚木 江戸時代は境内に山王社にまつられていた「知恩寺」
鎌倉 浄土宗三祖光明寺開山の「良忠上人御廟」
念仏僧の代表者の一人、然阿良忠。石見国三隅荘(島根県)に生まれた人。深く学問を学ばれた後、38歳で聖光上人の弟子となり、法然上人の教えを受け継ぎ、浄土宗の三祖に呼ばれる。法然からかぞえて三代目の人。62歳の頃に鎌倉に入り、布教と弟子の育成に取り組み、鎌倉における専修念仏者の間で指導的立場に立つとともに、他宗僧侶の間でも大きな位置を占めた。78歳の時、在京の門下の招請により、京に上がり布教、著述に励んだ。その後、88歳の時鎌倉に帰ったが、翌年89歳の高齢で入寂した。 その後、生前の功績が認められ伏見天皇より「記主禅師」の謚号を賜った。本堂横の池のある庭園が記主庭園と名付けられているのはこのことに由来している。 |