厚木 明治の先進民家「古民家 岸邸」

 厚木市古民家岸邸として開館されています。古民家岸邸は、郷土に残された貴重な文化遺産として、皆さんに公開しながら長く保存をしていきます、と。
 古民家は、当時の生活を色濃く伝えるものです。生活のスタイルが大きく変化してきた現代では、ますます注目されてきています。随所で見られる、職人が手をかけて作った凝った意匠も一遍ではなく、建築当時の時代の先端的な様式を併せ持ち、家を作った職人の技と、家を守ってきた人々の営みを感じてみてはいかかでしょうか。
  

福山 鞆 神功皇后の妹君の淀媛命を祀る「淀媛神社」

 神功皇后が三韓征伐のため西国下向の際、鞆の浦の地に寄泊しました。帰路携帯していた「鞆」を奉納し、海神・大綿津見命を祀った際に、妹君の淀媛命を祭主として奉任させました。その神社が沼名前神社(渡守神社)の起源です。
 数年後に淀姫命は鞆の浦を去りましたが、後世その特を偲び氏神として奉斎し、鞆の浦湾の入口の丘の上に鎮座する護り神として現在に至ります。
 現在の社殿は大正3年に建立。平成13年に修復。

鎌倉 龍口寺輪番八ヶ寺の一つ「本成寺」

 門を入った正面に本堂があり、右側に墓地、左側に庫裏(くり)があります。日蓮(にちれん)の弟子日賢(にっけん)が1309年(延慶2年) に開いたと伝えられています。本尊は、三宝本尊(さんぽうほんぞん)(祖師(そし))という「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のお題目が書かれた塔と釈迦如来(しゃかにょらい)、多宝如来(たほうにょらい)で、日蓮上人像とともにまつられています。

 また、岩の上のキッネにまたがった稲荷明神像(いなりみょうじんぞう)もありますが、これは「教(経)-稲荷」と呼ばれ、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つ江戸時代のものです。

尾道 浄土寺山中腹に大日如来の使者「不動岩」

 浄土寺山は瑠璃山の別名をもつ。その8合目あたりに巨石が「不動岩」です。巨岩に不動明王が刻まれています。
 不動明王は、真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されています。
 密教の根本尊である大日如来の化身で「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれており、特に日本において根強い信仰を得ております。真言宗では大日如来の脇待として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もあります。
 浄土寺山の麓に真言宗の浄土寺があり、不動明王を刻み込んだのでしょうか。

厚木 日蓮上人配流のとき逗留した「妙伝寺」

 妙傳寺は、文永8年(1271)日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流される際、当地にあったとされる本間六郎左衛門尉重連宅内の観音堂に逗留、月に向かい法楽したところ、邸宅内の梅樹に明星が降臨する奇瑞が顕れたところから、本間六郎左衛門尉重連が帰依しました。
 日蓮上人は曼荼羅を授与、弘安元年(1278)には僧日源が草庵を営み、日蓮上人を勧請開山、本間重連・重直兄弟を開基として創建しました。
 日蓮上人配流に際して、無量光寺開祖一遍上人は、当所觀音堂に来て日蓮上人と謁見、以来無量光寺と当寺とで音信を取り合っていたと伝えられています。

鎌倉 もとは新井(荒井)の闇魔堂だった「円応寺」

閻魔さま……恐ろしい閻魔大王は天国の主だった!

 釈迦の時代より数百年さかのぼるインド最古の神話叙事詩『リグ・ヴェーダ』にヤマ(夜摩天・焔魔天(えんまてん))という神が語られている。ヤマは太陽神の子である。双子の妹ヤミーと結婚して地上で暮らし、子孫をふやした。これが人類の始まりだという。
 この人類の父祖ヤマは、あるとき、未開の領域を探検して、そこに死への道を発見した。そして、その道をたどって最初の死者になった。以後、すべての人は父祖ヤマの道をたどって死におもむくことになり、ヤマは死の国の王になったのである。
 そのとき、死は永遠の安らぎであった。

尾道 度々の災害に遭った西国寺塔頭「持善院」

 仁王門をくぐり、ちょっと行った左側にあります。西國寺の再興傑僧・慶ばんの開基と伝えられています。
 1829年大旦那灰屋茂助の寄進銀一貫目などによって本堂・庫裏を一棟として再建された。
 1976年9月、集中豪雨により裏山が崩壊し全壊したが、ただちに住職・檀信徒一体となって再建にあたった。
 1994年境内に祀られ長寿の神として知られる「多賀皇神社」も新しく建て替えられた。

相模原南西部 2012年4月全焼したが再建「下溝八幡宮」

 この神社は、天文年間(1532ー1555年)に溝郷(ごう)が上溝と下津の両村に分かれた際に、下溝村の鎮守として上溝の亀ヶ池八幡宮から勧請(かんじょう)して創建された神社であると伝えられています。また、中世の屋敷跡と思われる「堀の内」と呼ばれる地点からみて、その裏鬼門(西南)にあたるので、ここに建立されたという話もあります。参道の脇にある小祠には、市の重要文化財に指定されている「不動明王坐像(ふどうみょうおうざぞう)が安置されています。これは享保9年(1724年)に後藤左近藤原義貴(ごとうさこふじわらよしたか)が製作したもので、もともとは別当(べっとう)大光院の本尊でした。<br>
   相模原市相模原市観光協会(案内板より)

 2012年4月4日に全焼しましたが、建て直されています。

福山 鞆 2014年5月火事で焼失「大観寺」

 麾尼山大観寺は昭和初期に、増福寺・玉泉寺・地福院・宝嚴寺・常喜院の五ヶ寺を統合した寺院である。
 増福寺は、永禄年間(1558~1569年)に、玉泉寺・地福院(江戸初期は泉蔵坊)は天正年間(1573~1591年)に再興されたと伝えられる。宝嚴寺(江戸初期は長福寺)と常喜院は慶長10(1605年)年頃の建立と伝えられる(『あくた川のまき』天和3(1683)年)。
 再々、朝鮮通信使の上官の宿舎になった。江戸時代は真言宗明王院末寺。

鎌倉 鎌倉交通の要衝であった「化粧坂」

 化粧坂は、鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「鎌倉住環上ノ道」(武蔵路)の出入り口に当たります。鎌倉の交通の要衝であったことから、元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでも戦場となっています。 『吾妻鏡』建長3年(1251)12月3日条には、鎌倉の中で小町屋及び売買所を構えても良い場所の一つとして「気和飛坂山上(化粧坂の山上)」と書かれています。

尾道 五百羅漢の群像がある「天寧寺」

「五百羅漢の群像」

 羅漢は正式には阿羅漢(あらかん)といい、サンスクリット語のアルハンを音写した言葉です。元来インドでは尊敬に値する人という意味で、仏教では、悟りを開いた修行者という意味です。羅漢には釈迦の十大弟子や、釈迦からこの世にとどまり仏法を護るように命じられた十六羅漢、釈迦の入滅後に行われた第一回結集(けつじゅう)(経典の編集会議)で集まった五百羅漢などが含まれます。
 百体の中に必ず自分に似た顔があるそです。時間があれば、どの羅漢さんに似ているか探してみてください。

厚木 かっては石神社と呼ばれた「荻野神社」

 当社は 旧荻野村の中央に位置し祭神は 大己貴命、配祀は素戔嗚尊。
 創立年は不詳 1687年再興し自然石をご神体とし牛頭天王を合祀し石神大明神と称した。1870年に荻野神社と改称された。
 1591年 徳川家康より社領に三石の朱印を附せられ1873年に郷社に指定された。
 境内は約七百坪で御神木の大公孫樹を中心に構成する一大高森は荻野郷総鎮守に相応しい様相を呈している。
 本殿は1687年に建てられたもの。市内最古で最大規模。境内の御神木の銀杏は樹齢600年と推定されている。境内社には、有賀神社、豊受神社、春日神社、日神社、八幡神社、菅原神社、ほかがある。

鎌倉 源頼朝の館 大倉御所の北隅「白旗神社」

 白旗神社のある所は、源頼朝の館のあった大倉御所の北隅で、持仏堂があった所。頼朝の死後は、法華堂と呼ばれ、ここに葬むられていました。源頼朝の持仏堂であったことから鎌倉幕府の保護も厚く鶴岡八幡宮と並ぶ崇敬を集めた。
 江戸時代末までは寺院として法華堂があった。明治維新に白旗神社と改められた。
 神社奥の山上には源頼朝の墓がある。また、その少し先に大江広元、毛利秀光(大江広元の四男…長州藩主・毛利氏の祖)、島津忠久(薩摩藩主・島津氏の祖)の墓もある。これらの墓は、江戸時代になってつくられた。島津も毛利も後にも手を結んで行く事になったのだろうか。

尾道 アララギ派のリーダー「中村憲吉旧居」

 中村憲吉はアララギ派のリーダーとして現代日本歌人の第一人者として短歌界に重きをなしました。(アララギは、正岡子規門下の歌人たちによって結成された短歌結社誌)
 1933年12月25日に病気(肺結核と急性感冒)の療養のために、おだやかな尾道の千光寺山中腹に転地し、1934年5月5日、45歳の若さで帰らぬ人となった。斎藤茂吉をはじめとする多くの文人たちが見舞いに訪れたといわれています。
 ここでは、離れの建物のみ見学できる。中村の資料などは文学記念室の方で展示されています。
注)「文学記念室」は、2020年3月末、入館者数の低迷などを受けて閉館したようです。この施設も文学記念室の一部なので、閉館したのでしょうか。

相模原 西部 北条氏照の娘貞心尼を中興開基の「天應院」

 戦国時代に八王子を中心とした大石定久公(八王子滝山城主)の統治により、心源院、天應院等が季雲永嶽大和尚を開山にして、明応4年に建立されたと考えられます。虚空蔵菩薩を本尊とし、9石7斗の御朱印を賜り、5世太蔭師の時代、北条氏照の娘貞心尼を中興開基として、明応4年(1495)に当地に中興開山したと伝えられます。
 徳川家光の養育役であった青山忠俊により再中興されています。明治時代には、当地に麻溝小学校の前身にあたる下溝学校を開校、また下溝の松原集落にあった薬師堂を当地に移転、この薬師は関東九十一薬師霊場19番です。
 また、本堂、客殿、庫裡の新築が平成23年4月に終了し、落慶式を迎えました。

鎌倉 腰越 生き延びた比企高塚の屋敷跡に「本龍寺」

 この寺は、日蓮聖人の直弟子である日朗聖人の弟子、朗門九鳳の一人、妙音坊日行聖人を開山とする。比企高家の屋敷跡に建てられたと伝えられ、境内には高家の墓が残る。
 龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。慶長6年(1601年)に津村の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女により龍口寺が本格的な寺としての格式を整えられてから、江戸時代までは片瀬腰越八ヶ寺(通称片瀬八ヶ寺)が輪番で維持していた。本龍寺もそれまでは、「与蓮山」と号していたが、「龍口山」と改める。
 平成14年、立教開宗750・創建700年を期して、本堂建て替え並び寺域整備を行う。

尾道 断崖に造られたとは思えない「千光寺」

 寺伝によれば806年に空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はなく、中世以前の寺歴は判然としない。
 興趣千変万化、奇岩、奇勝など四季を通じて自然の神秘を探賞できます。
 唐から空海が帰国したのが806年、これ以降、真言密教が日本に広められた。ということは、806年に創建されたは??ですね。
 また、高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創したのは816年のことで、真言宗の開宗はその頃とされています。
 見晴らしの良いところです。“観光のお寺さん”ですね。毎日夕方に撞く“鐘の音”が旧市街に響きます。

厚木 江戸時代は境内に山王社にまつられていた「知恩寺」

【智恩寺山王大権現懸仏】
 江戸時代には、智恩寺境内にあった山王社にまつられていた懸仏(かけぼとけ)が、現在では本堂の中に保存されています。
 山王権現とは、日吉神社・日枝神社の祭神であり、権現とは仏・菩薩が化身してわが国の神として現れることを意味しています。また懸仏は銅などの円板上に、仏像・神像を半肉彫りにあらわし、柱や壁などにかけて礼拝したもので、特に鎌倉時代から室町時代にかけての資料が多く見られます。

鎌倉 浄土宗三祖光明寺開山の「良忠上人御廟」

 念仏僧の代表者の一人、然阿良忠。石見国三隅荘(島根県)に生まれた人。深く学問を学ばれた後、38歳で聖光上人の弟子となり、法然上人の教えを受け継ぎ、浄土宗の三祖に呼ばれる。法然からかぞえて三代目の人。62歳の頃に鎌倉に入り、布教と弟子の育成に取り組み、鎌倉における専修念仏者の間で指導的立場に立つとともに、他宗僧侶の間でも大きな位置を占めた。78歳の時、在京の門下の招請により、京に上がり布教、著述に励んだ。その後、88歳の時鎌倉に帰ったが、翌年89歳の高齢で入寂した。
 その後、生前の功績が認められ伏見天皇より「記主禅師」の謚号を賜った。本堂横の池のある庭園が記主庭園と名付けられているのはこのことに由来している。

尾道 瀬戸田 多彩な堂塔が並ぶ「耕三寺の」三段部分

 大阪の元実業家耕三寺耕三が、昭和10年より建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。
 お母さんが旅行に行けないためか、堂塔伽藍は奈良・平安時代の浄土教の寺院を参考に建立されています。
 仏教を日本に広めるために奈良時代や平安時代当時のお寺を彷彿させる賑やかさがあります。
 そして、有名な堂塔の建築様式の建築された当時の姿をを一挙に見ることができます。