2021/11/03 

無礙山 法界寺(浄土宗)
厚木市下荻野1396  標高 53.4m
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 北条氏直が荻野郷の地頭松田康長に命じて造営。秀吉の小田原攻めの際、兵火にかかり以前のような繁栄は失われたことが相模国風土記稿に記されている。

(北条 氏直(うじなお)は、相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、豊臣秀吉による小田原攻めで、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。)

 その後、近世初期、僧党誉の中興もあり壮大な寺容を誇り、六斎市(門前市)も栄えた。本堂の裏には、厚木を中心に多くの梵鐘や仏像を製作した鋳物師、木村一族のお墓がある。

 この法界寺は、明治期の県央教育界に大きな足跡を残している。1872年に「学制」が発布され、それまで県央地区に存在した41の寺子屋と4つの郷学校が廃止され、「尋常小学校」が開設された。 この廃止された学校に替わり法界寺では住職・曽我明随により私塾が開設されている。
 法界寺は荻野新宿の中央に現存し、戦国時代の末期北条氏家臣松田右兵衛大夫康長の創建によるもの、その後近世初期僧党誉の中興もあり壮大なる本堂を中心にして現存している浄土宗の寺です。
 「厚木の観光ポケットブック」(厚木市観光政策課発行)

 新宿日吉神社脇の大山街道沿いにあり、江戸幕府の山中藩参勤交代の「殿様道」に山門を構えた名刹です。
 法界寺は荻野新宿日吉神社脇の大山街道沿いにあり、江戸幕府の山中藩参勤交代の「殿様道」に山門を構えた名刹。
 江戸から大山へ向かう街道はいくつもあるが、最も利用されたのは矢倉沢往還で、途中で一泊し、座間から海老名の河原口に出て渡船場から厚木村に入った。
 その後は厚木を抜け大山道を伊勢原に向かったのである。
 大山もうでをした後、翌日は江の島や鎌倉に出て
見物し、場合によっては金沢八景まで足を延ばして旅を楽しむこともあったという。その後は東海道を江戸に向かって帰ったのでした。
 徳川幕府の三代将軍家光が不動明王に深く帰依したことから、将軍に倣って多くの大名が大山を信仰したという。やがて大山信仰は一般の民衆の間にも




浸透していったが、大山の不動尊は商売繁盛や博打にもご利益があると広く喧伝され、商人や町人たちの信仰を集めた。とくに八百八町といわれた江戸では爆発的な広まりを見せて、それぞれの町每に大山講が作られていたという。
 大山は別名を“雨降山”とも呼ばれているが、これは閧山した良弁が寺の山号として名付けたものといわれる。この名前に関する言い伝えとして、昔この付近が日照り続きで困っていた時に、農民たちが大山の修験者に降雨の祈祷を頼み、それにより恵みの雨が降ったので大山が農民たちの尊崇を集めるように
 この地は北条氏により開かれた自由に商売ができる「六齊の市」が開かれ、四と九のつく日を定めた「四、九の市」が月六回開かれ、宿場として大いに賑わった。
なったという話が伝わっている。
 また大山は独立峰であり、その姿は遠くからでも見ることができたので、相模湾で働く漁師たちにとっては方角を知るための目印になった。そのために漁師たちの間にも大山信仰が広まっていったといわれる。
(「石が伝える厚木の郷土史澤田五十二著より)






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