鎌倉 新田義貞が本陣を構えたところ「九品寺」

 開基は、新田義貞と伝えられています。1333年(元弘3年)新田義貞軍が北条氏を討つため鎌倉攻めをしたとき、この場所に本陣をかまえたということです。
 北条氏が滅びたあと、義貞は北条方の戦死者の霊を慰めるため、1336年(延元元年)この地に九品寺を建て、義貞が日ごろから尊敬していた風航順西(ふうこうじゅんさい)和尚(おしょう)を京都から招いて開山とし、戦死者の霊を厚く弔ったといいます。

相模原 西部 鎌倉幕府や北条氏の保護が「無量光寺」

 1261年 23歳の一遍はこの地を訪れ、草庵を設けたのが始まり。
 一遍は、伊予国の豪族・河野通広の子。河野氏といえば、瀬戸内海の水軍を率いた有力な武士である。しかし、承久の乱で京方について没落し、一遍が生まれたころは、かつての力を失っていた。
 十三歳で九州におもむき大宰府の寺に入る。岩窟に日を過ごすこと六カ月、おもむろに山を下りた一遍は、家を捨て、妻子を捨て遍歴の旅に出た。
 そして、五十一歳で他界するまで、その旅をつづけることになった。

福山 鞆 鞆城二ノ丸の跡地に再建された「地蔵院」

 鞆城跡の高台の南西あたりに位置する「鶴林山地蔵院」。この地蔵院は、慶長年間の後半に徳川家康が立案し、徳川秀忠が発令した「一国一城令」のため廃城となった鞆城の二ノ丸の跡地に再建された、真言宗のお寺です。
 1408(応永15)年に宥真法師によって中興され、室町時代には将軍家の祈願所とされていたようです。金色に輝く本堂には、ご本尊である秘仏地蔵菩薩が鎮座。中国地蔵尊霊場第八番として信仰を集めています。また、山門や本堂脇には達筆なご説法が貼られており、じわっと心に染み渡ります。

江の島 台湾近代化の尽力者児玉源太郎を祀る「児玉神社」

 明治時代の陸軍大将・児玉源太郎(1852(嘉永5)年~1906(明治39)年)を祀った児玉神社は、児玉が生前、江の島を非常に愛していたことから、この地に神社が創建された。
 児玉公は江の島の風景を愛し、しばしば清遊した由縁により1917(大正6)年官許を得て神社創建を決し、後藤新平らの尽力により、主要な社殿が建立され、1921(大正10)年主要な社殿が建立され、7月御鎮座を了えた。1940(昭和15)年県社に列し、公の遺徳を慕う人々の奉賽が多かった。ことに境内には台湾総督時代の関係者による献納の燈籠・水盤などが見られる。 

1936年に建立が始められた「耕三

 耕三寺(こうさんじ)は、尾道市瀬戸田町(生口島)にある仏教寺院です。1936年から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」「母の寺」とも呼ばれています。小高い山を利用しており、この第二段には、室生寺の五重塔を模した「五重塔、また、四天王寺の金堂を模した「法宝蔵」などがあります。
 一目見ると派手なお寺という印象ですが、仏教が伝来したとき、それを広めるため豪華で大きな建物をつくり、人々を仰天させ、朝廷の力を鼓舞した時代はこのようだったのか、と思い巡らすことも出来ます。そういう意味では、歴史を実感する場所でもあるのでしょう。

鎌倉 白旗神社から法華堂跡、大江広元の墓へ

 白旗神社手前の道を右に入ります。
 途中の法華堂跡は、三浦市一族が宝治合戦(1247年)で、自害、討ち死にしたところ。毛利氏や島津氏は三浦氏に加わり、多くが死んだ。
 一族の最後の場面では、「自害した人の顔を削いで、誰の死体か分からなくしよう」という提案もあったとか(そうはしなかったが)。

 当時の武士の、過激な生き様がしのばれますね。

尾道 浄土寺山、鎖場下(鎖場経由)から不動岩へ

 この「くさり」は、四国石鎚山に参詣できない人々のために石鎚山修験道の縮小版として、修験者の修行の場を海龍寺の裏山に設けた、と言われています。
 写真は 2013年~2014年の落石対策工事前です。
 鎖場が1番から3番あり、1番が一番長く、3番は“腕の力”だけで登る箇所もあります。
 ほぼ斜面を真っ直ぐ登りますので、かなり急斜面を登ることになります。
 各鎖場は、横に迂回もできますが、山道として整備されてはいません。

厚木 反乱の鎮圧などに霊験、各地へ「八幡神社」

 八幡神社は三田村の鎮守です。「新編相模国風土記稿」によれば、安達藤九郎盛長が勧請したと言い伝えられているとあります。
 本殿の規模は桁行(問口)6尺、梁行(奥行)5尺を測り、一問社流造としては荻野神社に次ぐ大きさです。
 八幡神は、もとは九州の航海系民族の神さまで海神でした。「八幡」は船に立てるたくさんの旗を表わす言葉でしたが、その後、大分県の宇佐八幡宮を本宮として、八幡神(応神天皇の神霊とされる)を祭神とするようになったのです。
 八幡神は、早い時代から反乱の鎮圧や仏教の保護などに霊験を示して各地への広まりをみせます。九世紀なかばには、のちに東国平定などに武勲を示す源義家が石清水八幡宮で元服の儀式を行ない「八幡太郎」と称しました。その後、源氏の勢力拡大にともなって、八幡信仰も各地へと広がっていきました。

福山 鞆 加藤清正公を祀るお堂があった「法宣寺」

 1358(延文3)年、日蓮宗の高僧、大覚大僧正が鞆の浦に上陸し、法華堂を建立したのが法宣寺のはじまりです。日蓮宗きっての実力者であり、後醍醐天皇の第三王子でありながら出家した大覚大僧正が、この地で説法を始めたことで、鞆の浦は一躍、西国法華布教の拠点となり、お堂も「大法華堂」と称されるようになりました。以後、多少の盛衰は経ながらも、法宣寺は三備(備前、備中、備後)日蓮宗の重要寺院でありつづけ、江戸時代には朝鮮通信使の宿所にもなっていました。

鎌倉 熊野大社を勧請して創建「十二所神社」

 この神社は昔、熊野十二所権現社(ごんげんしゃ)といって1278年(弘安元年)には光触寺(こうそくじ)の境内にありました。1838年(天保9年)に今の土地を寄付する人がおり、当時30戸の村人の協力で神社を移しました。明治になって神仏分離(しんぶつぶんり)となり、天神七柱(あまつかみななはしら)、地神五柱(くにつかみいつはしら)の十二柱の神様をまつり、社名を十二所神社と改め、今日に至っています。

尾道 天保大飢聾に本堂立替で人を救った「慈観寺」

 本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた・柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。
 江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。
(参考:天明を挟んだ江戸時代の人口は、1780年2601万人→1792年2489万人 △112万人もの人口が減少したとも。) 

海老名 江戸時代初期に創建か「龍昌院」

 「新編相模国風土記稿」では、山号を上郷山、宗珪寺(海老名市河原口)の末寺とされています。本尊は、木造釈迦如来坐像で、寛保2年(1742)の修理墨書があることや作風から江戸時代前期に造立されたと考えられます。
 寛政2年(1790)に江戸糀町7丁目の仏師・西山平治郎が造立した木造地蔵菩薩半珈像なども安置されています。
 能山雲元(?~1620)が開山したと伝えられることから江戸時代初期に創建されたと考えられます。

座間 美濃齋藤氏の遺臣が開拓し祀る「日枝大神」

 当社の創建は、元亀年間(1570~1573)と伝えられています。
 創建者は織田信長に敗れた美濃国(岐阜県)の齋藤龍興(道三の孫)の遺臣四名で、この地を開拓し祭神を四ツ谷の氏神として祀ったと伝えられています。
 宝暦十三年(1763)に火災にあい、七十八年後の天保十二年(1841)に再建、棟札に「山王大権現」と記され、手水石や諏訪社の祠の奉納年号から見ると、社域もこのころから整えられてきたようです。
 明治二年(1869)、「山王大権現」から「日枝神社」に改称、祭神も「大山咋命」に変わり、同六年には村社に列され、同十八年八月に再遷宮の記録があります。

華経こそ仏の真の教えと日蓮宗「妙蓮寺」

 慶長年間(1596~1614)に実相院日玖が創建したと伝えられています。実相院日玖は元気で充実した年頃に日常のつきあいを断ち、法宣寺十四世恵性院日親の弟子となり、修行し、法華経を読すること40年、一万二千余巻におよんだ。
  福山藩主・水野勝成殊勝に願い、寛永の末(1644年頃)今の地を賜い、三人扶持十一石を賜る。
 備後国は水野勝成が放浪時代を過ごした場所であった。

鎌倉 七堂伽藍の大寺だった「海蔵寺」

 海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺である。この寺は、1253年に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが1333年5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。
 1394年4月、足利氏満の命により上杉氏定が再建し、源翁(げんのう)禅師を開山に招いて菩提寺とした。
 創建の頃、毎夜近くの山麓から悲しげな赤子の声が聞こえ、声を頼りにその場所に行くと、古い墓石があり、その下から鳴き声が聞こえるようで、しかも、まわりには金色の光がもれ、芳香が漂っていた。墓石に袈裟をかけ、読経すると鳴き声はやんだ。翌日、その墓所を掘ると、薬師如来の頭部があらわれた。
 この頭部を、新しく造立した薬師如来像の胎内におさめ本尊とした。61年ごとに胎内像をを公開している。

尾道 福本渡船から 駅前海岸へ「旧船着場」

 昔の船着き場があります。クレーンなどなかった時代の港の風景です。
 このあたりは干満差(干潮時と満潮時の海面の高さの差)が4m程度あります。そのため、舟から荷揚げをするとき、船と船着場に渡す板の角度を平らにするため、船着場が階段状になっています。
 いまはクレーンなどがあり、このような船着場はなくなってしまいました。しかし、大災害で動力が使えなくなったとき、役に立つかも知れませんね。

厚木 親鸞聖人がここに草庵を「弘徳寺」

 開基は二十四輩第五番信楽房(信楽房は、常に親鸞聖人の身近に奉仕したと伝えています。)
 弘徳寺の寺伝ではかつてこの地には聖徳太子の発願によって秦河勝が地蔵菩薩を安置するために建てた地蔵堂があり、そこに親鸞聖人が御巡錫になり、その宿縁を大変喜ばれて、ここに草庵を結ばれて浄土真宗の教えをひろめられ、後に信楽坊に草庵を託されたと伝えています。
 寺の縁起によれば、親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡で、親鸞の嫡男・善鸞がここに草庵を結び心光院と号したのが始まりと伝わる。
 開山・開基は、親鸞の直弟子の信楽ぎょう房。信楽房は平将門の子孫で、俗名を相馬太郎義清といった。
 建暦・元仁期に親鸞が常陸国稲田に布教の折りに門弟となり、その後当山を任せられた。

福山 龍馬評価が変わってきた「いろは丸展示館」

 いろは丸事件ば、慶応3年(1867)4月、龍馬は海援隊を組織し伊予大洲藩から借げ受けた西洋式の蒸気船「いろは丸」に乗って長崎から大坂に物資(鉄砲)を運ぶ途中、岡山県六島沖(現在の同県笠岡市)で、紀州藩の蒸気船「明光丸」に横から衝突されたのです。明光丸は鞆港へ向けて、いろは丸を曳航しようとしましたが、浸水のため宇治府沖で沈没してしまいました。
 このため両者は鞆の浦にとどまりの損害賠償について昼ゆ夜交渉を繰り返しましたが決裂し、舞台を長崎に移して再交渉を行いました。最終的に、龍馬側が賠償金を受け取る、ことでようやく決蒲ししました。
 この事件は、坂本龍馬が暗殺される半年前のことです。

鎌倉 一向宗開祖が創建した「向福寺」

 1282年創建。開山は一向俊聖上人。本尊:阿弥陀三尊(木造南北朝作)…… 南北朝時代の作。
 一向俊聖上人は、時宗の開祖一遍上人同様、鎌倉時代、各地を遊行回国し、踊り念仏を広めた。しかし、一遍と違い一向の教えは踊り念仏を行うとはいえ、念仏そのものに特別な宗教的意義を見出す事は少なかったとされている。
 一向俊聖上人の一向宗は、江戸時代に幕府により強制的に時宗に統合された。その後、一向宗の復活をはかったが実現されていない。
 大正12年の関東大震災によって、文政年間に建てられた本堂と表門が倒潰してしまった。現在の本堂は昭和5年に再建されたもの。

尾道 瀬戸内の船旅を楽しむ「駅前桟橋」

 戦国時代から江戸時代の初め、尾道は歴史の上で逼塞(ひっそく)していたのですが、時代が平穏になって西回り航路が開かれ、北前船が入ってくるようになると商業のまち尾道はまた活気を取り戻します。ただし、尾道の自前の船があちこちに出掛けたのではなく、 寄港する北前船を利用することで繁栄したようです。
 北前船はいわば動く商社ですから、仕入れた品物をよその港で売る。その価値差で儲けていましたので、どこで売れば最も得かという情報に長けていました。