開基は、新田義貞と伝えられています。1333年(元弘3年)新田義貞軍が北条氏を討つため鎌倉攻めをしたとき、この場所に本陣をかまえたということです。 北条氏が滅びたあと、義貞は北条方の戦死者の霊を慰めるため、1336年(延元元年)この地に九品寺を建て、義貞が日ごろから尊敬していた風航順西(ふうこうじゅんさい)和尚(おしょう)を京都から招いて開山とし、戦死者の霊を厚く弔ったといいます。 |
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相模原 西部 鎌倉幕府や北条氏の保護が「無量光寺」
福山 鞆 鞆城二ノ丸の跡地に再建された「地蔵院」
江の島 台湾近代化の尽力者児玉源太郎を祀る「児玉神社」
1936年に建立が始められた「耕三
鎌倉 白旗神社から法華堂跡、大江広元の墓へ
尾道 浄土寺山、鎖場下(鎖場経由)から不動岩へ
厚木 反乱の鎮圧などに霊験、各地へ「八幡神社」
八幡神社は三田村の鎮守です。「新編相模国風土記稿」によれば、安達藤九郎盛長が勧請したと言い伝えられているとあります。 本殿の規模は桁行(問口)6尺、梁行(奥行)5尺を測り、一問社流造としては荻野神社に次ぐ大きさです。 八幡神は、もとは九州の航海系民族の神さまで海神でした。「八幡」は船に立てるたくさんの旗を表わす言葉でしたが、その後、大分県の宇佐八幡宮を本宮として、八幡神(応神天皇の神霊とされる)を祭神とするようになったのです。 八幡神は、早い時代から反乱の鎮圧や仏教の保護などに霊験を示して各地への広まりをみせます。九世紀なかばには、のちに東国平定などに武勲を示す源義家が石清水八幡宮で元服の儀式を行ない「八幡太郎」と称しました。その後、源氏の勢力拡大にともなって、八幡信仰も各地へと広がっていきました。 |
福山 鞆 加藤清正公を祀るお堂があった「法宣寺」
鎌倉 熊野大社を勧請して創建「十二所神社」
尾道 天保大飢聾に本堂立替で人を救った「慈観寺」
本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた・柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。 江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。 (参考:天明を挟んだ江戸時代の人口は、1780年2601万人→1792年2489万人 △112万人もの人口が減少したとも。) |
海老名 江戸時代初期に創建か「龍昌院」
座間 美濃齋藤氏の遺臣が開拓し祀る「日枝大神」
華経こそ仏の真の教えと日蓮宗「妙蓮寺」
鎌倉 七堂伽藍の大寺だった「海蔵寺」
海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺である。この寺は、1253年に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが1333年5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。 1394年4月、足利氏満の命により上杉氏定が再建し、源翁(げんのう)禅師を開山に招いて菩提寺とした。 創建の頃、毎夜近くの山麓から悲しげな赤子の声が聞こえ、声を頼りにその場所に行くと、古い墓石があり、その下から鳴き声が聞こえるようで、しかも、まわりには金色の光がもれ、芳香が漂っていた。墓石に袈裟をかけ、読経すると鳴き声はやんだ。翌日、その墓所を掘ると、薬師如来の頭部があらわれた。 この頭部を、新しく造立した薬師如来像の胎内におさめ本尊とした。61年ごとに胎内像をを公開している。 |
尾道 福本渡船から 駅前海岸へ「旧船着場」
厚木 親鸞聖人がここに草庵を「弘徳寺」
開基は二十四輩第五番信楽房(信楽房は、常に親鸞聖人の身近に奉仕したと伝えています。) 弘徳寺の寺伝ではかつてこの地には聖徳太子の発願によって秦河勝が地蔵菩薩を安置するために建てた地蔵堂があり、そこに親鸞聖人が御巡錫になり、その宿縁を大変喜ばれて、ここに草庵を結ばれて浄土真宗の教えをひろめられ、後に信楽坊に草庵を託されたと伝えています。 寺の縁起によれば、親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡で、親鸞の嫡男・善鸞がここに草庵を結び心光院と号したのが始まりと伝わる。 開山・開基は、親鸞の直弟子の信楽ぎょう房。信楽房は平将門の子孫で、俗名を相馬太郎義清といった。 建暦・元仁期に親鸞が常陸国稲田に布教の折りに門弟となり、その後当山を任せられた。 |