鎌倉 門前に[源頼朝公祈願所]の石碑「補陀洛寺」

 この寺は南向山(なんこうざん)という山号をもつ真言宗の寺で、源頼朝が文覚(もんがく)を開山として1181年(養和元年)に建てたといわれます。もとは七堂伽藍という建物がそろった大きな寺院であったということです。その後、だいぶ荒れてしまいましたが、文和年間(1352~1356年)に、鶴岡八幡宮の供僧(ぐそう)だった頼基(らいき)が復興したと伝えられています。
 補陀洛寺は別名竜巻寺(たつまきでら)ともいわれ、竜巻にあったり火災にあったりしたようです。寺に伝わるものとして、本尊の十一面観音をはじめとする仏像や貴重な文化財の多い寺です。

尾道 806年、尾道で最古の「艮神社」

 艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。
 同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。

江の島 明治の陸軍大将児玉源太郎を祀る「児玉神社」

 明治時代の陸軍大将・児玉源太郎(1852(嘉永5)年~1906(明治39)年)を祀った児玉神社は、児玉が生前、江の島を非常に愛していたことから、この地に神社が創建された。
 児玉公は江の島の風景を愛し、しばしば清遊した由縁により1917(大正6)年官許を得て神社創建を決し、後藤新平らの尽力により、主要な社殿が建立され、1921(大正10)年主要な社殿が建立され、7月御鎮座を了えた。1940(昭和15)年県社に列し、公の遺徳を慕う人々の奉賽が多かった。ことに境内には台湾総督時代の関係者による献納の燈籠・水盤などが見られる。 

福山 鞆 坂本龍馬「いろは丸展示館」

 いろは丸事件ば、慶応3年(1867)4月、龍馬は海援隊を組織し伊予大洲藩から借げ受けた西洋式の蒸気船「いろは丸」に乗って長崎から大坂に物資(鉄砲)を運ぶ途中、岡山県六島沖(現在の同県笠岡市)で、紀州藩の蒸気船「明光丸」に横から衝突されたのです。明光丸は鞆港へ向けて、いろは丸を曳航しようとしましたが、浸水のため宇治府沖で沈没してしまいました。
 このため両者は鞆の浦にとどまりの損害賠償について昼ゆ夜交渉を繰り返しましたが決裂し、舞台を長崎に移して再交渉を行いました。最終的に、龍馬側が賠償金を受け取る、ことでようやく決蒲ししました。
 この事件は、坂本龍馬が暗殺される半年前のことです。

鎌倉 福の神が住でいる「銭洗弁天宇賀福神社」

 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の夢枕に、一人の老人が現われた。「西北の方向に仙境があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。そこは清浄な地で、福の神が住でおり、その水を使っている。その水は神の霊水である。この水を使って神仏を祀(まつ)れば、国内は平穏に治まる。われこそは隠れ里の主の宇賀神(うががみ)である」といい、やがて消えてしまった。
 翌朝、頼朝が西北のほうへ行ってみたところ、たしかに泉があった。頼朝はさっそくそこに宇賀神を祀った。すると国は平穏になったという。
 北条時頼が当社に参詣のおり、この水で銭を洗い、福銭としたそうです。その話から、銭を洗うと二倍にふえるという、いい話が誕生したらしい。

厚木 古い石仏が数多く掘り出された「金剛寺」

 飯山金剛寺の大師堂に、神仏が八人の翁に化身して現れたという言い伝えがあります。
 最乗寺(南足柄市)の輪番にあたった三田村の清源院の四世忠州は、最乗寺へ向かう途中、この大師堂に立ち寄ってお経を上げていると、「ここで一夜を明かせ」という八人の翁の声がしました。翁達は、退廃しているお堂の再興を依頼して夜明けに帰っていきました。
 八人の翁は・観音様・黒地蔵・白地蔵・白山権現・不動尊・竜蔵権現・熊野権現・稲荷明神とわかり、大師堂は、金剛寺と忠州によって復興されました。
 この大師堂の向かって右側と奥に石仏が100体ほども置かれています。畑に埋まっていたそうです。

尾道 曲がりくねった道を「猫の細道」

  昇っていくと「猫の細道」です。
 福石猫の作り方は、日本海の荒波に長い年月もまれ、丸くなった石を拾ってきて、約半年間塩抜きをし、その後、特殊な絵の具で三度塗り重ね、作り上げていくそうで、福石猫が完成されるまでには、約1年もかるそうです。 ひとつひとつ丹念に作られていき、最後に艮神社でお祓いをうけ、晴れて福石猫となって、尾道に住んでいるのです。

鎌倉 一時は約3,000坪の境内だった「薬王寺」

 昔は梅嶺山(ばいれいざん)夜光寺(やこうじ)とい真言宗の寺でしたが、1293年(永仁元年)日朗(にちろう)の高弟だった日像(にちぞう)が開山となって日蓮宗に改められたと伝えられています。また、梅立寺(ばいりゅうじ)とか梅嶺寺(ばいれいじ)とかの名も伝わっていますが、江戸時代の初めごろ日達(にちたつ)によって薬王寺と改められ再興されました。その後、徳川忠長(ただなが)が1633年(寛永10年)高崎で自刃しましたので、妻の松孝院(しょうこういん)殿(織田信長の次男信雄(のぶかつ)の娘)は、夫の霊を供養するためにこの寺に墓を建立し、多額のお金と広大な土地を寄進しました。

福山 鞆・備前・備中・備後の日蓮宗の重要寺院「法宣寺」

 友光軒の前の四つ辻から、鞆小学校前を経て法宣寺に至る道筋を、「清正公道(せいしょうこうどう)」と呼びます。これは江戸末期、法宣寺境内に加藤清正を祀るお堂があり、多くの参拝者を集めていた名残です。法華信仰の篤かった清正は、死後主に日蓮宗徒の間で治病除災の神として崇められたのです。清正公堂はなくなりましたが、今でも法宣寺には二体の清正公像があります。そのうち一体はなんと、清正公自彫りとの伝承も!

鎌倉 日蓮が佐渡へ流されるまで土牢に幽閉「光則寺」

 境内は四季花が絶えない美しい庭ですが、特に、本堂の右前には樹齢約200年、高さ7mほどのカイドウがあり、4月上旬に咲くので有名です。
 本堂に向かって左前に、日蓮宗の信者でもあった宮沢賢治(みやざわけんじ)の『雨ニモマケズ…』の詩碑があり、池の奥は竹林が裏山へと続いています。
 境内奥の墓地上にある。文永八年(1271)龍ノロ法難で日蓮は斬首をまぬがれ、佐渡へ流されるまで、他の僧俗とこの土牢に幽閉されたという。

尾道 鉄道施設のため消えた「荒神社跡」

 天寧寺からバス通り(旧国道二号線)まで降り、右に行くと途中に「荒神社跡」という石碑が立っています。
 むかしこのあたりは海岸で、尾道港の中心地。むかしこのあたりは海岸で、尾道港の中心地だったところで、千石船の出入りも多く、いつもたくさんの人出でにぎわって繁盛していたそうです。

厚木 奈良時代後期のころ創建「七沢観音寺」

 七沢字観音谷戸2741番地の奥まった所にあり、奈良時代後期元正天皇(715~723)のころ創建と伝えられます。その後土御門天皇の時不幸にも野火にて焼失し廃寺のままであったが、日向一ノ沢の浄発願寺の中興開山、木食空誉禅阿上人が七沢鐘ケ嶽に創始した禅法寺と共に開山された天台宗の寺です。

鎌倉 十字架を模した紋がいまも残る「光照寺」

 石段を上ると、山門の右側に「子育て地蔵」と呼ばれるお地蔵さまが立っています。このお地蔵さまに、子どものことについてお願いするとかなえてくれると信仰されています。
 山門は明治のはじめごろ廃寺となった東渓院(とうけいいん)から移したもので、「くるす門」ともいわれ、キリスト教の十字の紋がある珍しい門です。江戸時代に鎌倉にもキリスト教の信者がいたのではないかと思われい本堂内にはキリシタンが使用したとみられる燭台(しょくだい)が2基あります。

尾道 伝教大師高弟持光上人創創「持光寺」

 当寺は834~848年、伝教大師の高弟持光上人により、天台宗の寺として創創され、寺号は日輪山天禅寺と号し本尊は立像・聖観音菩薩の霊像でありました。
 この天台宗時代の寺宝も数点伝わり、中でも絹本着色・普賢延命菩薩像は1153年と銘が記されており、この仏画は「保元・平治の乱」の直前・鳥羽法皇の御宇、最愛の御子・近衛天皇の御息災を祈願された尊像であり、現在「国宝」に指定されております。
 1382年浄土弘伝の沙門善空頓了上人により本尊、立像・来迎の阿弥陀如来を迎え浄土宗に改宗される、寺号も日輪山金剛台院持光寺と改めた。

福山 鞆 瀬戸内の要港にある古刹「小松寺」

 安元元(1175)年、春小松内府平重盛卿は、父・清盛が守護神として祀った厳島神社参詣の途次、旅の安全を祈願するため船を渡守の地に立ち寄った。重盛は西方の正覚山静観寺の七堂伽藍、空高くそびえ立つ五重の塔の偉容に打たれ、この地に滞在。静観寺(当時で創建370年を超えていた)境内に自作護身阿弥陀仏像を安置して一宇を建立し、その際記念に松の木を植えた。重盛は「もし、この松が天に伸びれば平家は栄え、地に這えば平家は衰退するだろう」と言い残す。(樹齢850年の偉容を誇っていたが、昭和二十九年の台風によって倒伏した。)

鎌倉 退居寮として開創「白雲庵」

  正和年間(1312~16)に退居寮として開創。 禅師は曹洞宗を修めた中国元の高僧で、1309年、時の執権北条貞時の招きで来日し、1310年円覚寺第10世となり、暦応3年当寺にて遷化するまで、建長寺(18世)、寿福寺などの住職を務めた。江戸時代前期には40の塔頭があった。 現在は18寺の塔頭があり、そのうち住職のおられるところは13寺。 白雲庵はその中で最も古い塔頭である。

江の島 たびたびの崖崩れ「延命寺」

「此処は何なのかしら・・・・?」

 閻魔大王が鎮座している石窟の奥が納骨堂になっています。
 閻魔大王を筆頭とする十王の信仰は、鎌倉時代に流行した信仰で、死後に人は天国か地獄に行くと信じられていました。天国か地獄かの裁きを司るのが、十王で、裁きは七日ごとに七回行われるので、四十九日目には天国か地獄かが決定します。
 最初の七日目は三途の川を渡り、冥府でまず秦広王の裁きを受ける。次の七日目(十四日目)には、初江王のもとで裁かれる。次々とさらに七人の王のもとで裁かれて、最後に閻魔大王に引導を渡されることになりまする。さらに、その後、百か日、一年、三年と、合計十回裁きがあり、それぞれ、そのときの十人の王が裁きが行なわれます。

尾道 水祭りが復活した「熊野神社」

 西国寺山南先端部にある水尾町にある神社です。
 日本最古の伽藍様式の大阪四天王寺の伽藍配置でも最南端部に造営されているのが熊野権現です。
 むかしの西国寺を想像した時、この配置にも何らかの意味があるのでしょうか。
 古く江戸時代から続く水祭りが復活したようです。
 旧水尾町(現久保)に伝わる夏祭りで、水細工人形を陳列し、水尾町の豊かな水源を慶ぶ熊野権現神社の祭祀です。
 からくり人形をで水細工の場面がつくられ、人形の手の先から水が噴水のように吹き出します。

鎌倉 ここにも稲荷を祀られている「本成寺」

 門を入った正面に本堂があり、右側に墓地、左側に庫裏(くり)があります。日蓮(にちれん)の弟子日賢(にっけん)が1309年(延慶2年) に開いたと伝えられています。本尊は、三宝本尊(さんぽうほんぞん)(祖師(そし))という「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のお題目が書かれた塔と釈迦如来(しゃかにょらい)、多宝如来(たほうにょらい)で、日蓮上人像とともにまつられています。また、岩の上のキッネにまたがった稲荷明神像(いなりみょうじんぞう)もありますが、これは「教(経)-稲荷」と呼ばれ、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つ江戸時代のものです。

海老名 江戸時代初期に創建「龍昌院」

 「新編相模国風土記稿」では、山号を上郷山、宗珪寺(海老名市河原口)の末寺とされています。本尊は、木造釈迦如来坐像で、寛保2年(1742)の修理墨書があることや作風から江戸時代前期に造立されたと考えられます。
 寛政2年(1790)に江戸糀町7丁目の仏師・西山平治郎が造立した木造地蔵菩薩半珈像なども安置されています。
 能山雲元(?~1620)が開山したと伝えられることから江戸時代初期に創建されたと考えられます。