鎌倉 高台に古い洋館が建つ「浄妙寺」

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 臨済宗建長寺派。鎌倉五山の第五位。山号は稲荷山、浄明寺所在。
 文治四年(1188)に足利義兼が開創、開山は退耕行勇と伝える。はじめは密教系の寺院で極楽寺と称していたが、蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅剰に改め、次いで寺名も改称するにいたった。改宗時期は正嘉年間(1257-59)のはじめ、と推定されている。歴代には約翁徳倹・高峰顕日・竺仙梵僊・天岸慧広など、名僧が多い。中興開基は足利貞氏。盛時には三門・仏殿・法堂・禅堂・経堂などが軒を並べ、霊芝庵・瑞龍庵・法雲庵等々の塔頭もあったが、震災や火災で滅んだり廃絶したりして、現在は本堂・庫裡・荒神堂等が伽藍を形作りている。

鎌倉 鎌倉公方代々の菩提寺「瑞泉寺」

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 開山は夢窓国師疎石で、1327年(嘉暦2年)二階堂道蘊がこの地に瑞泉院を建てました。この後、南北朝の時代に最初の鎌倉公方となった足利基氏は夢窓国師に帰依して瑞泉寺と改め、1350年(貞和6年)に亡くなると、瑞泉寺に葬られました。以後鎌倉公方代々の菩提寺として栄え、関東十刹に名をつらねました。
 関東十刹とは、室町時代に定められた、幕府が関東地方で保護する臨済宗のお寺の格のことで、五山の次に位置づけられたものです。

鎌倉 落馬が原因で死亡「源頼朝の墓」

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 1779年、薩摩藩主・島津重豪(頼朝の隠し子の子孫?)が、石段を設けてその上に建てたのが、この墓。
 1198年12月27日源頼朝御家人の稲毛重成の亡妻の供養のために、相模川にかけた橋の完成祝いに出掛け、その帰り稲村ガ崎で落馬した。その落馬が原因で、1199翌年1月13日に53歳で亡くなった。大倉法華堂(現在の白旗神社)に葬むられた。

鎌倉 北条氏本家の屋敷があったところ「宝戒寺」

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 開山は円観(弘安4ー正平11(延文元)(1281-1356)年)、慈威和尚ともいう。後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明の各天皇に戒を授けたことから、五代国師の号を与えられくいる。宝戒寺開山、坂本西教寺中興開山。興国和尚の門に入り円頓戒を承けた。後醍醐天皇に請われて北条氏を呪詛して幕府に捕えられたが、北条氏滅亡後許されて京都法勝寺の住持となる。(大三輪)[文献」『市史』総説編

鎌倉 塩嘗(しおなめ)地蔵を収める「光触寺」

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 滑川に架かる光触寺橋を渡り、石段を登って山門をくぐると、光触寺の境内。木々に囲まれた境内に、ひっそりと本堂がたたずんでいる。
 光触寺は、もともと、作阿上人による真言宗の寺だった。しかし遊行中の一遍上人が弘安5年(1282)、このお寺を訪れたとき、一遍上人に帰依したことで時宗に改宗したと言われている。
(「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著 実業之日本社)

鎌倉 弘法大師空海の修行の地「成就院」

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 平安時代の初期、真言宗の開祖である弘法大師空海がこの地を訪れ、景勝地だったこの地で数日間に渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法(真言を百日間かけて百万回唱えるというもの)を修したという霊跡に、1219年に鎌倉幕府第三代の執権北条泰時は京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立し、普明山法立寺成就院と称した。
 1333年新田義貞の鎌倉攻めの戦火にて寺は焼失し、奥の西が谷に移っていたが江戸時代の元禄期(1688年~1703年)に再びこの地に戻り、僧祐尊により再興され現在にいたっている。

鎌倉 火防の守護神「秋葉大権現」

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 秋葉山大権現というのは、本山は静岡県の松の方の秋葉神社で、火事を防ぐ夫伏(ひぶ)せや水難除けの神として、江戸時代には各地に秋葉講中という信者の団体がつくられ、代参という代表者の本山詣でが盛んに行われました。光明寺やその信者を火災や水難から守るため、1714年(正徳4年) に神社を秋葉山から光明寺裏山へ移してまつりました。材木座や小坪をはじめ各地に秋葉講が作られ、火災と海上安全を祈願する人々が訪れ、社殿も立派だったそうです。

鎌倉 山門に、十字架?「光照寺」

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 石段を上ると、山門の右側に「子育て地蔵」と呼ばれるお地蔵さまが立っています。このお地蔵さまに、子どものことについてお願いするとかなえてくれると信仰されています。
 山門は明治のはじめごろ廃寺となった東渓院(とうけいいん)から移したもので、「くるす門」ともいわれ、キリスト教の十字の紋がある珍しい門です。江戸時代に鎌倉にもキリスト教の信者がいたのではないかと思われい本堂内にはキリシタンが使用したとみられる燭台が2基あります。

鎌倉 旗立山とよばれる「源氏山公園」

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 英勝寺と寿福寺の裏にまたがる山をいう。後三年の役(平安時代後期の陸奥・出羽を舞台とした戦役)に際して東国に下った八幡太郎義家が山上に白旗を立てたという伝説に因って、源氏山・旗立山とよばれている。『詞林採葉抄』では鎌倉第一の勝地だという。この山は武庫山といわれていたようで、義堂周信の詩にも載せられている。 (大三輪) [文献]『鎌倉志』『相模風土記』

鎌倉 昔、熊野十二所権現社といっていた「十二所神社」

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 この神社は昔、熊野十二所権現社といって1278年(弘安元年)には光触寺の境内にありました。1838年(天保9年)に今の土地を寄付する人がおり、当時30戸の村人の協力で神社を移しました。明治になって神仏分離となり、天神七柱(あまつかみななはしら)、地神五柱(くにつかみいつはしら)の十二柱の神様をまつり、社名を十二所神社と改め、今日に至っています。

鎌倉 家康が駆け込み寺として保障した「東慶寺」

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 東慶寺が開かれたのは、鎌倉時代の1285年。八代執権・北条時宗が34歳という若さで急死、時宗の夫人だった覚山志道尼が、その菩提を弔うために開山したといわれている。
 関ヶ原の合戦から大阪夏冬の陣を経て、豊臣家が滅亡した折、豊臣秀頼の娘を「まだ幼い」ということでこの尼寺に移す。このときに家康が駆け込み寺としての寺法を保障した。この助命された娘は、家康の孫娘の千姫を義母としていたことから助命された。そして東慶寺の二十代住持となり、子の尼寺の寺法を守り続けたと言われている。

鎌倉 不思議な雰囲気が漂う「内藤家墓地」

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 磐城平(福島県浜通南部)から日向延岡(宮崎県)へ移封となった内藤家の墓地。
 代々のものが一墓地に建立されている。 高さ3mに及ぶ大宝筺印塔などが多く、他に笠塔婆、仏像形、五輪塔形、各塔婆形がある。
 不思議な雰囲気が漂っている墓地です。 入口は施錠されていて中には入れませんが、道路の位置が2~3m高い位置ですので、よく見えます。今は幼稚園で分離されていますが、光明寺の墓地の一部なのでしょう。このような大規模の大名の墓所がひとつにまとまっているのはめずらしいのだそうです。

鎌倉 北条一族終焉の地「東勝寺跡」

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 宝戒寺後方の屏風山と小富士山に囲まれた葛西ヶ谷の奥、東勝寺跡内にあるやぐら、新田義貞の鎌倉攻めで自刃した北条高時をはじめ、北条一族の屍を奉ったとされるが、実際の埋葬地は釈迦堂ヶ谷奥やぐら群と推定されている。高時の墓と伝えられる石を積んだ塔も建っている。この腹切りやぐらを含む葛西ヶ谷の北条一門滅亡の地として知られる東勝寺跡は、国指定史跡となっている。

鎌倉 鎌倉駅から若宮大路を通り鶴岡八幡宮へ

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 鶴岡八幡宮の参道の「若宮大路」は、頼朝が妻政子の安産を祈願して1182年3月に整備したという。若宮大路は儀礼のための道、御所を除き、武士の屋敷は若宮大路側には門がなかったという。
 「“儀礼”という方式を使い、民を支配する」方法は、古代中国で発達した技法。いまではこの技法は、あまり有効ではなくなりましたが、鎌倉時代においては、最も重要な技法だったのでしょう。

鎌倉 子育て観音の聖観音を祀る「来迎寺」

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 1194年、源頼朝が鎌倉幕府の礎石となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまり。
 当時、能蔵寺の名前は、この付近の地名として使われていた。頼朝が亡くなった後、音阿上人が時宗に改宗し、来迎寺に改名した。

鎌倉 頭脳明噺・記憶力増進を計ろう「虚空蔵堂」

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 極楽寺坂、星月ノ井の上方にある。明鏡山星井寺という小さな堂。成就院の管理。『明鏡山星井寺略伝記』によると、天平二年(730)行基が当所で虚空求聞持の法を修していたとき、傍の井戸(星月ノ井)から明星に似た光り輝く奇石を得た。この石は虚空蔵の化身であろうと思った行基は、虚空蔵菩薩像を彫って安置した所だと伝える。

鎌倉 哀しい話が残されている「岩舟地蔵」

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 分かれ道の角に海蔵寺が管理する岩船地蔵(いわふねじそう)があります。地蔵の床下には、さらに約130cmの船形の背をもっ石の地蔵があり、「岩船」の呼び名はここからついたといわれています。
 ここにまつられている地蔵は、2体の童子立像を従えた、高さ90cmほどのもので、源頼朝(みなもとのよりとも)の娘である大姫(おおひめ)の守り本尊と伝えられています。
 この大姫には、次のような哀しい話が残されています。

鎌倉 地元では八雲さんとかお天王さんの「八雲神社」

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 八雲神社は、もと祇園天王社(ぎおんてんのうしゃ)と呼ばれていました。1087年(寛治元年)弓馬の名将といわれた新羅三郎義光(源義光)が、後三年の役で兄八幡太郎義家(源義家)の援護のため奥州(東北)へ下るときに鎌倉を通り、疫病が流行して人々が苦しむようすをみて、京都京都祇園社の祭神をここに移して祭ったと伝えられています。鎌倉では古い神社の一つです。


鎌倉 子宝のご利益がある「縄神明宮」

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 甘縄の「甘」は海女のこと、「縄」は漁をするときの縄の意味だろうという説もあります。
 その後、源頼義(よりよし)が相模守としてこの神社にお祈りをしたあと、義家(よしいえ)が生まれたと伝えられています。それでこの神社のご神体は義家の守り神といわれたそうです。後に義家が社を再建したといわれており、源氏と関係の深い神社だったと考えられます。


鎌倉 幕府の裏鬼両という方角に当たる「本覚寺」

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 「東身延」とも呼ばれる。佐渡配流から帰った日蓮が一時、この夷堂に滞在し、辻説法などの拠点としていた。
 本覚寺の開山は、日出上人、駿河の国三島の出身の学者。後に日蓮宗の僧となった。
 寺伝によると、日出上人は熱心に布教活動をしたが、日蓮聖人同様激しい反対に遭い、捕らえられたが、そのときの鎌倉公方足利持氏が、その熱意に感心し、日蓮聖人ゆかりの夷堂のあるこの場所を与え、1436年に建立された。