満光山 来迎寺(時宗)
標高 29.8m
ウォーキング地図へ
 開山は時宗の開祖、一遍(1239~1289年)とするが、一向(1293年に開祖)とする説もあり、本寺の寺史とともにいまだ明らかではない。一向は一遍とまったく同時代に全国を遊行し、踊り念仏によってその教えを広めた憎という。


 かってのディスコを、口の悪い人は「踊り念仏の聖地」と評していたが、一遍が布教した頃も、ディスコのように注目されたのでしょう。
 鎌倉時代の1293年(正応6年)に、鎌倉の大地震で亡くなった人々を弔うため、一向(いっこう)が建てた寺だということがわかりました。明治時代になって頼朝の墓のそばにあった法華堂(ほっけどう)がなくなったので、そこにまつられた地蔵菩薩(じぞうぼさつ)・如意輪観音(にょいりんかんのん)・跋陀婆羅尊者(ばっだばらそんじゃ)の三仏像と鰐口(わにぐち)や手洗い石が移されました。
 1923年(大正12年)の関東大地震で本堂がつぶれ、仏像は庫裏にまつられていましたが1994年(平成6年)に鉄筋の大きな本堂が建てられ、今はそこに安置されています。その後庫裏も新しく再建されました。
 本堂には本尊の阿弥陀如来(あみだにょらい)像があり、宅間浄宏(たくまじょうこう)の1384年(永徳4年)の作とみられる地蔵菩薩像はもと報恩寺(ほうおんじ)の本尊で、太平寺(たいへいじ)から法華堂へ移され、さらにここへ移っています。また、本尊の右脇の、彩色したあざやかな土紋をつけた如意輪観音像は、南北朝期につくられたとみられ、今はない光福寺(こうふくじ)から如意輸堂、法華堂と伝えられて、ここへ移されています。


 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 ここの如意輪観音には次のような話が伝えられています。
 昔、この鎌倉に由比(井)の長者といわれた染屋太郎時貞(そめやたろうときさだ)が住んでいました。大きな屋敷に大勢の家来を使って、何不自由のない日々を送っておりました。この長者には一人のかわいい娘がいて、父の長者は、目の中に入れても痛くないというほどかわいがっていました。ある日、娘が由比ケ浜のほとりで遊んでいると、一羽の大鷲(おおわし)が舞い降りて来て、あっという問に娘をさらっていってしまいました。あたりにいた人々が気がついたときには、
お祈りすると足腰の痛みがとれると信じられています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
大鷲は空高く舞い上がっていたので、手のほどこしようもありませんでした。この知らせを聞いて、気も狂わんばかりに驚いた長者は、八方手を尽くして娘の行方をさがしましたが、見つけ出されたのは変わり果てた娘の姿でした。かわいい一人娘を失った長者は、せめてもの供養にとその遺骨をこの観音像のおなかの
中に納めたということです。今もその骨といわれるものが、箱に収められてこの寺に保存されています。一説には室町時代の鎌倉公労の3歳の息子の骨だともいわれています。
 本尊の左には跋陀婆羅尊者(ばっだばらそんじゃ)像がありますが、この方は風呂場で悟りを得たので、









 墓所から本堂を眺めたところ。
八雲神社へ   白旗神社へ