鎌倉 平政子(後世に北条政子と呼ばれた)の墓がある「寿福寺」

 北条政子のお墓があります。ただし、北条政子と呼ばれるようになったのは後世のこと。
 「平政子」の名は建保6年(1218年)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名したもので、それ以前は何という名であったかは不明であるとされています。
 政子の死後、遺体は源氏の菩提寺であった勝長寿院に埋葬されました。しかし、政子の墓として伝えられているのは 壽福寺のやぐら内にある五輪塔と、政子の法名から寺名を採った安養院に宝篋印塔が残っています。しかし、後に建てられた供養塔のようです。
 北条政子というのも後世(近世以降)になってそう呼ぶようになったようです。

鎌倉 鎌倉最古の厄除開運の神社「八雲神社」

 鎌倉最古の厄除開運の神社。平安末期に疫病が流行。その時に、源義光が京都祇園社の祭神をここへ勧請したのが始まり。
 古くは祇園天王社・祇園社と称したが、明治維新に八雲神社に改称された。
 1080年頃に大発生した黒蜘蛛が疫病を蔓延させたが、当時「蜘蛛は益虫」とされていたため駆除ができなかった。 そこに中央より新羅三郎義光(八幡太郎吉家の弟)が、「朝見た蜘蛛は逃がせ、夜見た蜘蛛は殺せ」というスローガンをかかげ、多くの蜘蛛を焼き殺し駆除に成功した。その後、蜘蛛のたたりを恐れ神社が建てられた。当初「焼蜘蛛神社」では気持ちが悪いため、間もなく「祇園天王社」と改められ、その後、「八雲神社」になった。

鎌倉 由比ヶ浜辺の八幡宮をここに遷した「鶴岡八幡宮」

 1063年 源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。
 その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝は、1180年鎌倉に入り、由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地に遷し、鎌倉にはしかるべき大工がいないので、1181年 武蔵国浅草から大工(戦争時の宮大工ら)を呼び、八幡宮の造営が開始されました。
 もとは鶴岡八幡宮寺であり、神祇・仏教信仰の両面から祀って護持する宗廟としての役割をになうものでした。

鎌倉 一遍上人一行が野宿をした「光照寺」

 1282年 鎌倉時代、布教の為に鎌倉に入ろうとした一遍上人の一行(おそらく尼を引き連れ、乞食同然の姿)は鎌倉につながる関所を守る武士達に拒絶され、やむなく、江ノ島に通じる街道筋に一夜の野宿をした。その野宿した跡地に建てられたのがこの光照寺で、一遍上人法難霊場となっている。
 時宗の成功を賭け鎌倉入りを目指した一遍にとっては、その直前で、鎌倉入りを阻止され、この地で不安な一夜を過ごしたのでしょう。翌日江ノ島に行き、そこで踊念仏を行い大成功することができひと安心した。

鎌倉 弁財天を円覚寺の鎮守とした「鐘楼弁天堂」

 急な石段を上ると、正面に弁天堂(べんてんどう)があります。その左側には、「正安三年」(1301年)の年号が記された梵鐘(国宝)があります。この梵鐘は、北条貞時が物部国光(もののべくにみつ)に造らせた鎌倉時代の代表的な名鐘の一つで、高さは2.59mもあり、関東地方最大の鐘です。また、鐘楼の鰐口(わにぐち)には「天文九年」(1540年)の年号が記されています。弁天堂は、麓鐘が江の島弁財天の教えによって鋳造に成功したという伝説により建てられています。

鎌倉 汚れを水で洗い落とし、銭を清める「銭洗弁天」

 宇賀神は正体がよく分からない神で、もともとは稲霊(いなだま)(稲の精霊)であるともいわれている。宇賀神は「うかがみ」ともいい、食べものを意味する古語の「うけ」に通じることから、食べものを司る神ともされた。そして、この神様は弁財天と結びつき、同一神とされた。
 では、泉の水で銭を洗うということは、いつごろから始まったのか。伝説によれば、鎌倉幕府の五代執権・北条時頼がそこに参詣して、湧水で銭を洗って福銭にしたのがその起こりだという。

鎌倉 立正安国論御勘由来の大きな石碑「光則寺」

 朱ぬりの山門をくぐると、正面に日蓮の字を刻んだ「立正安国論御勘由来」の大きな石碑が建ち、隣にその説明の石碑があります。その奥の梅林を進むと深い傾斜の屋根をもった本堂があります。この本堂は江戸時代の1650年(慶安3年)に建てたものと伝えられ、修理を加えて今まで続いているものです。本堂の正面に、日蓮が弟子の日朗をたたえた「師孝(しこう)第一」の額がかかっています。

鎌倉 明治維新で実現した王政復古「葛原岡神社」

 葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社。
 後醍醐天皇の鎌倉倒幕の計画の際、天皇とともに日野俊基も楠木正成を説得して味方にするなど、天皇をお助けしたが、1331年、計画が幕府に知られ、日野俊基が天皇をかばうため、捕らわれの身になった。その後、後醍醐天皇による幕府打倒計画は着々と進められ、皇子の大塔宮護良親王の指揮のもと、楠木正成、新田義貞らの活躍により、日野俊基卿が葛原岡の露と消えられてから約一年後の1333年、ついに鎌倉幕府は滅亡した。

鎌倉 腰越 (旧)八王子社(現:小動神社)の別当寺「浄泉寺」

 開山は空海と伝えられ、中興開山は、1558年(弘治4年)に没している元秀(げんしゅう)です。赤い山門を入ると、正面に本堂があります。本堂は公開されていませんが、本尊は左手に剣を持つ珍しい不動明王で、腕を前で交差させています(非公開)。
 昔、神仏を一緒にまつっていた時代には、今の小動神社は八王子社と呼ばれ、浄泉寺はその別当寺となっていました。そのため、1917年(大正6年)まで、浄泉寺の住職が小動神社も管理していました。神仏分離令以後もこのような形をとっていたのは珍しいことです。こうしたことから、1333年(元弘3年) に新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めのときに八王子社に奉納した剣が、この寺に保存されていたことがあったといわれています。また文治年間(1185年ー1189年)に、佐々木盛綱(もりつな)が船上からこの寺を拝んだという話も残っています。

鎌倉 新田義貞が本陣を構えたところ「九品寺」

 開基は、新田義貞と伝えられています。1333年(元弘3年)新田義貞軍が北条氏を討つため鎌倉攻めをしたとき、この場所に本陣をかまえたということです。
 北条氏が滅びたあと、義貞は北条方の戦死者の霊を慰めるため、1336年(延元元年)この地に九品寺を建て、義貞が日ごろから尊敬していた風航順西(ふうこうじゅんさい)和尚(おしょう)を京都から招いて開山とし、戦死者の霊を厚く弔ったといいます。

江の島 台湾近代化の尽力者児玉源太郎を祀る「児玉神社」

 明治時代の陸軍大将・児玉源太郎(1852(嘉永5)年~1906(明治39)年)を祀った児玉神社は、児玉が生前、江の島を非常に愛していたことから、この地に神社が創建された。
 児玉公は江の島の風景を愛し、しばしば清遊した由縁により1917(大正6)年官許を得て神社創建を決し、後藤新平らの尽力により、主要な社殿が建立され、1921(大正10)年主要な社殿が建立され、7月御鎮座を了えた。1940(昭和15)年県社に列し、公の遺徳を慕う人々の奉賽が多かった。ことに境内には台湾総督時代の関係者による献納の燈籠・水盤などが見られる。 

鎌倉 白旗神社から法華堂跡、大江広元の墓へ

 白旗神社手前の道を右に入ります。
 途中の法華堂跡は、三浦市一族が宝治合戦(1247年)で、自害、討ち死にしたところ。毛利氏や島津氏は三浦氏に加わり、多くが死んだ。
 一族の最後の場面では、「自害した人の顔を削いで、誰の死体か分からなくしよう」という提案もあったとか(そうはしなかったが)。

 当時の武士の、過激な生き様がしのばれますね。

鎌倉 熊野大社を勧請して創建「十二所神社」

 この神社は昔、熊野十二所権現社(ごんげんしゃ)といって1278年(弘安元年)には光触寺(こうそくじ)の境内にありました。1838年(天保9年)に今の土地を寄付する人がおり、当時30戸の村人の協力で神社を移しました。明治になって神仏分離(しんぶつぶんり)となり、天神七柱(あまつかみななはしら)、地神五柱(くにつかみいつはしら)の十二柱の神様をまつり、社名を十二所神社と改め、今日に至っています。

鎌倉 七堂伽藍の大寺だった「海蔵寺」

 海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺である。この寺は、1253年に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが1333年5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。
 1394年4月、足利氏満の命により上杉氏定が再建し、源翁(げんのう)禅師を開山に招いて菩提寺とした。
 創建の頃、毎夜近くの山麓から悲しげな赤子の声が聞こえ、声を頼りにその場所に行くと、古い墓石があり、その下から鳴き声が聞こえるようで、しかも、まわりには金色の光がもれ、芳香が漂っていた。墓石に袈裟をかけ、読経すると鳴き声はやんだ。翌日、その墓所を掘ると、薬師如来の頭部があらわれた。
 この頭部を、新しく造立した薬師如来像の胎内におさめ本尊とした。61年ごとに胎内像をを公開している。

鎌倉 一向宗開祖が創建した「向福寺」

 1282年創建。開山は一向俊聖上人。本尊:阿弥陀三尊(木造南北朝作)…… 南北朝時代の作。
 一向俊聖上人は、時宗の開祖一遍上人同様、鎌倉時代、各地を遊行回国し、踊り念仏を広めた。しかし、一遍と違い一向の教えは踊り念仏を行うとはいえ、念仏そのものに特別な宗教的意義を見出す事は少なかったとされている。
 一向俊聖上人の一向宗は、江戸時代に幕府により強制的に時宗に統合された。その後、一向宗の復活をはかったが実現されていない。
 大正12年の関東大震災によって、文政年間に建てられた本堂と表門が倒潰してしまった。現在の本堂は昭和5年に再建されたもの。

鎌倉 龍口寺輪番八ヶ寺の一つ「本成寺」

 門を入った正面に本堂があり、右側に墓地、左側に庫裏(くり)があります。日蓮(にちれん)の弟子日賢(にっけん)が1309年(延慶2年) に開いたと伝えられています。本尊は、三宝本尊(さんぽうほんぞん)(祖師(そし))という「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のお題目が書かれた塔と釈迦如来(しゃかにょらい)、多宝如来(たほうにょらい)で、日蓮上人像とともにまつられています。

 また、岩の上のキッネにまたがった稲荷明神像(いなりみょうじんぞう)もありますが、これは「教(経)-稲荷」と呼ばれ、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つ江戸時代のものです。

鎌倉 もとは新井(荒井)の闇魔堂だった「円応寺」

閻魔さま……恐ろしい閻魔大王は天国の主だった!

 釈迦の時代より数百年さかのぼるインド最古の神話叙事詩『リグ・ヴェーダ』にヤマ(夜摩天・焔魔天(えんまてん))という神が語られている。ヤマは太陽神の子である。双子の妹ヤミーと結婚して地上で暮らし、子孫をふやした。これが人類の始まりだという。
 この人類の父祖ヤマは、あるとき、未開の領域を探検して、そこに死への道を発見した。そして、その道をたどって最初の死者になった。以後、すべての人は父祖ヤマの道をたどって死におもむくことになり、ヤマは死の国の王になったのである。
 そのとき、死は永遠の安らぎであった。

鎌倉 鎌倉交通の要衝であった「化粧坂」

 化粧坂は、鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「鎌倉住環上ノ道」(武蔵路)の出入り口に当たります。鎌倉の交通の要衝であったことから、元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでも戦場となっています。 『吾妻鏡』建長3年(1251)12月3日条には、鎌倉の中で小町屋及び売買所を構えても良い場所の一つとして「気和飛坂山上(化粧坂の山上)」と書かれています。

鎌倉 源頼朝の館 大倉御所の北隅「白旗神社」

 白旗神社のある所は、源頼朝の館のあった大倉御所の北隅で、持仏堂があった所。頼朝の死後は、法華堂と呼ばれ、ここに葬むられていました。源頼朝の持仏堂であったことから鎌倉幕府の保護も厚く鶴岡八幡宮と並ぶ崇敬を集めた。
 江戸時代末までは寺院として法華堂があった。明治維新に白旗神社と改められた。
 神社奥の山上には源頼朝の墓がある。また、その少し先に大江広元、毛利秀光(大江広元の四男…長州藩主・毛利氏の祖)、島津忠久(薩摩藩主・島津氏の祖)の墓もある。これらの墓は、江戸時代になってつくられた。島津も毛利も後にも手を結んで行く事になったのだろうか。

鎌倉 腰越 生き延びた比企高塚の屋敷跡に「本龍寺」

 この寺は、日蓮聖人の直弟子である日朗聖人の弟子、朗門九鳳の一人、妙音坊日行聖人を開山とする。比企高家の屋敷跡に建てられたと伝えられ、境内には高家の墓が残る。
 龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。慶長6年(1601年)に津村の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女により龍口寺が本格的な寺としての格式を整えられてから、江戸時代までは片瀬腰越八ヶ寺(通称片瀬八ヶ寺)が輪番で維持していた。本龍寺もそれまでは、「与蓮山」と号していたが、「龍口山」と改める。
 平成14年、立教開宗750・創建700年を期して、本堂建て替え並び寺域整備を行う。