| 北条政子のお墓があります。ただし、北条政子と呼ばれるようになったのは後世のこと。 「平政子」の名は建保6年(1218年)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名したもので、それ以前は何という名であったかは不明であるとされています。 政子の死後、遺体は源氏の菩提寺であった勝長寿院に埋葬されました。しかし、政子の墓として伝えられているのは 壽福寺のやぐら内にある五輪塔と、政子の法名から寺名を採った安養院に宝篋印塔が残っています。しかし、後に建てられた供養塔のようです。 北条政子というのも後世(近世以降)になってそう呼ぶようになったようです。 |
カテゴリーアーカイブ: 鎌倉
鎌倉 鎌倉最古の厄除開運の神社「八雲神社」
鎌倉 由比ヶ浜辺の八幡宮をここに遷した「鶴岡八幡宮」
鎌倉 一遍上人一行が野宿をした「光照寺」
鎌倉 弁財天を円覚寺の鎮守とした「鐘楼弁天堂」
鎌倉 汚れを水で洗い落とし、銭を清める「銭洗弁天」
鎌倉 立正安国論御勘由来の大きな石碑「光則寺」
鎌倉 明治維新で実現した王政復古「葛原岡神社」
鎌倉 腰越 (旧)八王子社(現:小動神社)の別当寺「浄泉寺」
| 開山は空海と伝えられ、中興開山は、1558年(弘治4年)に没している元秀(げんしゅう)です。赤い山門を入ると、正面に本堂があります。本堂は公開されていませんが、本尊は左手に剣を持つ珍しい不動明王で、腕を前で交差させています(非公開)。 昔、神仏を一緒にまつっていた時代には、今の小動神社は八王子社と呼ばれ、浄泉寺はその別当寺となっていました。そのため、1917年(大正6年)まで、浄泉寺の住職が小動神社も管理していました。神仏分離令以後もこのような形をとっていたのは珍しいことです。こうしたことから、1333年(元弘3年) に新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めのときに八王子社に奉納した剣が、この寺に保存されていたことがあったといわれています。また文治年間(1185年ー1189年)に、佐々木盛綱(もりつな)が船上からこの寺を拝んだという話も残っています。 |
鎌倉 新田義貞が本陣を構えたところ「九品寺」
江の島 台湾近代化の尽力者児玉源太郎を祀る「児玉神社」
鎌倉 白旗神社から法華堂跡、大江広元の墓へ
鎌倉 熊野大社を勧請して創建「十二所神社」
鎌倉 七堂伽藍の大寺だった「海蔵寺」
| 海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺である。この寺は、1253年に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが1333年5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。 1394年4月、足利氏満の命により上杉氏定が再建し、源翁(げんのう)禅師を開山に招いて菩提寺とした。 創建の頃、毎夜近くの山麓から悲しげな赤子の声が聞こえ、声を頼りにその場所に行くと、古い墓石があり、その下から鳴き声が聞こえるようで、しかも、まわりには金色の光がもれ、芳香が漂っていた。墓石に袈裟をかけ、読経すると鳴き声はやんだ。翌日、その墓所を掘ると、薬師如来の頭部があらわれた。 この頭部を、新しく造立した薬師如来像の胎内におさめ本尊とした。61年ごとに胎内像をを公開している。 |



















