昔の船着き場があります。クレーンなどなかった時代の港の風景です。 このあたりは干満差(干潮時と満潮時の海面の高さの差)が4m程度あります。そのため、舟から荷揚げをするとき、船と船着場に渡す板の角度を平らにするため、船着場が階段状になっています。 いまはクレーンなどがあり、このような船着場はなくなってしまいました。しかし、大災害で動力が使えなくなったとき、役に立つかも知れませんね。 |
カテゴリーアーカイブ: 尾道
尾道 瀬戸内の船旅を楽しむ「駅前桟橋」
戦国時代から江戸時代の初め、尾道は歴史の上で逼塞(ひっそく)していたのですが、時代が平穏になって西回り航路が開かれ、北前船が入ってくるようになると商業のまち尾道はまた活気を取り戻します。ただし、尾道の自前の船があちこちに出掛けたのではなく、 寄港する北前船を利用することで繁栄したようです。 北前船はいわば動く商社ですから、仕入れた品物をよその港で売る。その価値差で儲けていましたので、どこで売れば最も得かという情報に長けていました。 |
尾道 浄土寺山中腹に大日如来の使者「不動岩」
浄土寺山は瑠璃山の別名をもつ。その8合目あたりに巨石が「不動岩」です。巨岩に不動明王が刻まれています。 不動明王は、真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されています。 密教の根本尊である大日如来の化身で「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれており、特に日本において根強い信仰を得ております。真言宗では大日如来の脇待として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もあります。 浄土寺山の麓に真言宗の浄土寺があり、不動明王を刻み込んだのでしょうか。 |
尾道 度々の災害に遭った西国寺塔頭「持善院」
仁王門をくぐり、ちょっと行った左側にあります。西國寺の再興傑僧・慶ばんの開基と伝えられています。 1829年大旦那灰屋茂助の寄進銀一貫目などによって本堂・庫裏を一棟として再建された。 1976年9月、集中豪雨により裏山が崩壊し全壊したが、ただちに住職・檀信徒一体となって再建にあたった。 1994年境内に祀られ長寿の神として知られる「多賀皇神社」も新しく建て替えられた。 |
尾道 五百羅漢の群像がある「天寧寺」
「五百羅漢の群像」 羅漢は正式には阿羅漢(あらかん)といい、サンスクリット語のアルハンを音写した言葉です。元来インドでは尊敬に値する人という意味で、仏教では、悟りを開いた修行者という意味です。羅漢には釈迦の十大弟子や、釈迦からこの世にとどまり仏法を護るように命じられた十六羅漢、釈迦の入滅後に行われた第一回結集(けつじゅう)(経典の編集会議)で集まった五百羅漢などが含まれます。 百体の中に必ず自分に似た顔があるそです。時間があれば、どの羅漢さんに似ているか探してみてください。 |
尾道 アララギ派のリーダー「中村憲吉旧居」
中村憲吉はアララギ派のリーダーとして現代日本歌人の第一人者として短歌界に重きをなしました。(アララギは、正岡子規門下の歌人たちによって結成された短歌結社誌) 1933年12月25日に病気(肺結核と急性感冒)の療養のために、おだやかな尾道の千光寺山中腹に転地し、1934年5月5日、45歳の若さで帰らぬ人となった。斎藤茂吉をはじめとする多くの文人たちが見舞いに訪れたといわれています。 ここでは、離れの建物のみ見学できる。中村の資料などは文学記念室の方で展示されています。 注)「文学記念室」は、2020年3月末、入館者数の低迷などを受けて閉館したようです。この施設も文学記念室の一部なので、閉館したのでしょうか。 |
尾道 断崖に造られたとは思えない「千光寺」
寺伝によれば806年に空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はなく、中世以前の寺歴は判然としない。 興趣千変万化、奇岩、奇勝など四季を通じて自然の神秘を探賞できます。 唐から空海が帰国したのが806年、これ以降、真言密教が日本に広められた。ということは、806年に創建されたは??ですね。 また、高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創したのは816年のことで、真言宗の開宗はその頃とされています。 見晴らしの良いところです。“観光のお寺さん”ですね。毎日夕方に撞く“鐘の音”が旧市街に響きます。 |
尾道 瀬戸田 多彩な堂塔が並ぶ「耕三寺の」三段部分
大阪の元実業家耕三寺耕三が、昭和10年より建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。 お母さんが旅行に行けないためか、堂塔伽藍は奈良・平安時代の浄土教の寺院を参考に建立されています。 仏教を日本に広めるために奈良時代や平安時代当時のお寺を彷彿させる賑やかさがあります。 そして、有名な堂塔の建築様式の建築された当時の姿をを一挙に見ることができます。 |
尾道 船内で料金が徴収される「福本渡船」
尾道駅前広場の東端付近から少し東に行くと、向島の小歌島(おかじま)とを結ぶ航路があります。3つある航路の中で最も運賃が安い渡船でもあります。尾道側桟橋入口の赤く塗られたゲートが特徴です。
大林宣彦監督の映画「ふたり」「さびしんぼう」のロケ地となったり、PlayStation 4用ゲームソフト「龍が如く6 命の詩」にも尾道仁涯町の“仁涯渡船場”として描かれています。
チケットを購入する必要はありません。船内で料金が徴収されます。カード類は利用できませんので小銭を用意して乗船して下さい。片道3分の航海を体験でき、通勤時間帯は約5分間隔、通勤時間帯以外は10分間隔で就航しています。(混み具合で変わるようです。)
厚木 盤筒男命と平将門の御霊を相殿に「依知神社」
縄文弥生の往古より遠い祖先は、盤筒男命を祭神に依知神社を創建し、郷土の開発に尽力して来た。平将門が関東平定のおり、当社に参詣し相模川氾濫の苦難を眼前にし、赤城山神馬献進の託宣を給いたちまち堅牢なる護岸の完成が実現したとのこと。 このことに感謝感激した 氏子は、将門公の御霊を相殿にして937年社殿を再建し、赤城明神社と称した。 源頼朝が鎌倉幕府を創設のとき、10万余坪に及ぶ 社領を寄進したという。その境内は、祭り競馬をした所を馬場、大鳥居のあった所を鳥井という地名にするほどの広大なる土地であった。 |
尾道 昔は昼寝寺として有名だったのですが「浄泉寺」
本尊は阿弥陀如来(南無阿弥陀仏) 開基は、1525年に宗円が現在の木ノ庄町市原の地に一精舎を建立したのが始めで、その後1596年に現在地に道場を移した。 大屋根には畳16畳という鬼瓦を東西に頂き、瀑布の流れ下るような瓦の波は近在随一の大伽藍である。 本堂前の水盤「離垢」の名文は頼山陽の筆で、「浄泉即是萬劫不乾」などの句が読まれる。また、元禄時代の尾道の石工の名工の作、雨受盤をささえる「天邪鬼」は有名。 昔は「昼寝寺」として有名だったのですが、いまは、たばこでの火災危険のため禁止になって随分たちました。 |
尾道 豪壮な山門「ええもん」と呼ばれる「福善寺」
山門は、四脚門(よつあしもん)で本瓦葺の切妻造となっており、軒丸瓦の円形瓦頭(がとう)は烏丸家(からすまるけ)の家紋である鶴丸の文様となっている。 欄間には豪壮な龍の彫り物が施されている。 幕末のころ、第11代住持であった性円が妻を京都の烏丸大納言家から迎えたとき、尾道の大工が京都制作された彫刻を引き継いでこの山門を組み立てたという。 「ええもん」と呼ばれ、方言として、良い物を「ええもん」と言っています。 尾道の子供たちが、親にねだるときに「なんかええもんこうてえ(買って)」とおねだりすると、親は「ええもんは福善寺」と言って、ごまかしていたとか。 |
尾道 空海入唐の頃には既に開かれていた「大山寺」
「愛宕山の日限地蔵」 往昔、釈迦如来が在世のさい、地蔵菩薩を召して日く「われ入涅槃すれば弥勒菩薩出世の暁まで五十六億七千万年なり、この間娑婆世界に於いて諸々の悪業をつくり五濁濫漫の苦海に沈める薄福重障の衆生をば済度し、永く悪道を離れて仏道を成せらしめよ」と-。この時から地蔵は我が身を百千億にもわかち民衆救済のため路傍にたたれた。 日限地蔵は数百年前からこの地にありて、幕末ごろ現在のお堂の東手から移り住われた。 |
尾道 市立美術館から千光寺間にある「鼓岩」
鼓岩(つづみ岩)、別名ポンポン岩と呼ばれ、岩の上を石で打つと「ポンポン」と鼓のような音がします。 右側の岩の傷は大阪城築城の時、石垣材として搬出すべく割りかけたノミの跡だといわれています。 ここには【民話 鼓岩とお姫様】のお話があります。 |
尾道 幕末、芸州藩が派兵し、この寺を本陣に「妙宣寺」
後醍醐天皇の第三王子でありながら出家した大覚大僧正が正平年中(1346~)全国を旅し布教の途次、鞆から本郷に出て尾道入りし、番所からこの谷を下られ、同所で説法され滞在されたとか。このあと長江一丁目妙宣寺の建立を発願され、同寺は1354年に完成している。本尊は法華宝塔釈迦牟尼仏である。寺記によると、1615~1623年の頃、寺運が衰えたが、1708年本堂を再興し、次いで1782年現在の本堂を再建した。 幕末の風雲急を告げる1867年の末、芸州藩は片岡大記を大隊長とする一個大隊を派兵し、この寺を本陣として尾道を鎮め東の福山藩に備えた。この寺は尾道地方に数少ない幕末維新の史跡である。 |
尾道 斜張橋で初の最大支間200m超え「尾道大橋」
1968年(昭和43年)3月に尾道大橋有料道路として開通。 2013年(平成25年)3月31日に料金徴収期間満了し無料開放された。 本州本土と向島の間にある幅約200mの尾道水道を結んでいる。 ・全 長 : 386m ・最大支間長 : 215m ・海面からの主塔高: 約76m ・海面からの路面高: 34m ・形 式 :3径間連続鋼箱桁放射形斜張橋 尾道大橋は,我が国で建設される斜張橋では初めて最大支間が200mを超え,本格的斜張橋の先駆けとして、綿密な検討をし架けられました。 |
尾道 瀬戸田 “往生要集”を体感「耕三寺千仏洞地獄峡」
千仏洞地獄峡 – 約350mに及ぶ地下霊場。仏教世界の地獄観・極楽観を描く。
1961年から着工し、内部は富士山と浅間山から運んだ溶岩が積み上げてある。完成まで3年を要した大工事だったという。これだけの長さ、しかも、立体的な洞窟が境内にあるお寺さんは、ここが初めてです。
洞内は「往生要集」を体感するための空間とされ、石仏が約一千体あるという。
尾道 技芸が上達する「お経の塚」がある「海龍寺」
このお堂は、阿弥陀如来を、ご本尊とする阿弥陀堂であります。当山では、位牌堂と呼ばれています。江戸期より死者の為に家の仏壇にお位牌をまつると共に、この位牌堂にもお位牌を作り、まつる習わしが、現在も続いています。ご本尊、阿弥陀如来様は、柔道家西郷四郎(姿三四郎のモデル)が晩年期、祈っていた念持仏です。 大きな岩が境内の奥(東)の方にあります。 裏山は浄土寺山(瑠璃山)という山で、登山道を登るルートの他に、海龍寺の裏手からは3つの鎖場を経て歩きで登るルートもあります。 2019年2月19日午前2時10分頃、この寺で火事があり、地蔵堂など2棟が焼けました。仏像を盗んだ後、放火したとのことです。 |
尾道 大火のため焼亡、1928年に移転「海徳寺」
1926年10月12日の早暁、不幸大火のため全山焼亡、1928年現在地に移転新築しました。 むかしは、防地川河口にありました。広大な境内を有する通称「沖の道場」と呼ばれ、市の発展につれて周辺に民家が建ち並び、境内が広かったので、サーカス興行や相撲の興行があって、名力士常陸山、梅ヶ谷、太刀山、鳳などの勇姿も見られたそうです。 その頃は、本堂の東側に一本の古松があって、竜神がその梢に燈明を献じるというので、その松は「竜燈松」と呼ばれていたそうです。 一遍上人が諸国遊行の途中、尾道に草庵を結んで念仏勧進されたのにはじまると言われています。 |
尾道 静かさを味わう「浄土寺から鎖場下へ」
浄土寺と海龍寺の間を抜けて昇っていくと、ここが「観音のこみち」入り口で、木々の緑をバックに、心落ち着くところです。耳を澄ませると、………が。 石造りの瑠理橋があります。この石橋はその昔、久保を縦に流れていた防地川の川下にあつた元借楽座前から海徳寺に向いかかつていた新橋で、この地名はいまでも残り、もとは木の橋であったが、大正四年御大典記念に寄付をつのり大金を投じ石橋にやりかえたものです。その後道路拡張のため取りこわし、その材料の一部で瑠璃橋をかけ、残った石材がいまでも浄土寺境内に残っています。 |