映画ファンなら必ず訪れるのが御袖天満宮(みそでてんまんぐう)。大林映画「転校生」の舞台となった石段があるからじゃ。
上から転げ落ちて、男女が入れ替わってしもうた、あの石段じゃ。
石段は五十五段あるんじゃが、あれほど立派な石段はなかなかお目にかかれん。
すべて花崗岩(かこうがん)で造られとるんじゃが、一段の長さは5mほどあってな、すべて一本石でひとつも継ぎ目がないんじゃ。
あまりよう出来過ぎたので上から二段目だけは継いであるがの。
その石段から下ったわきに、力石をかついだ和七(わひち)の像が立っとる。
力石とはな、力自慢たちが力を競うために作られたもんで、持ち上げた人の名前が彫り込まれとるんじゃ。
尾道には、力石(ちからいし)がぎょうさんある。
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尾道 不動岩~奥の院「不動岩の上は絶景」
不動岩から奥の院に至る道です。途中に聖観音、子宝観音があります。
・聖観音……観音菩薩は聖観音が基本の姿ですが、6世紀頃の中国で密教の教義により様々な変化観音が生まれました。法華経の中の「観世音菩薩普門品第ニ十五(観音経)では、聖観音を含めた六観音が六道輪廻(世の中のあらゆる生命は六種類の世界に生まれ変わりを繰り返すという教え) の思想に基づいて六道に迷って苦しむ衆生を救うと説いています。
日本では、真言宗が六観音として聖観音(地獄道)・十一面観音(修羅道)・千手観音(餓鬼道)・馬頭観音(畜生道)・如意輪観音(人道)・准胝観音(天道)を定め、天台宗は准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音としていました。
尾道 天神さまの霊験碑「御袖天満宮」へ
尾道 こんなところが蔵王権現「日比崎 石仏群」
尾道 村上水軍の信仰を集めた「光明寺」
834~847年、円仁和尚の草創といわれています。元々は天台宗のお寺でしたが、1336年に浄土宗に改宗されました。室町時代には村上水軍の信仰を集め、1588年、豊臣秀吉の「海上鎮圧令」により武士を捨て回漕問屋へと生業を変えた後も檀家として寺を支えました。 またこの寺には尾道ゆかりの第12代横綱・陣幕久五郎の墓があり、彼を顕彰した手形付きの記念碑があります。 むかし尾道でも相撲の興業があり、その関係で横綱陣幕久五郎の碑があるのでしょう。陣幕久五郎の出身は東出雲(現松江市)出身ですが、出雲と尾道は出雲街道で結ばれており、石見銀山の銀も尾道まで陸路で運ばれ、尾道から船に乗せ替えて運んでいたものもあり、つながりが強かったそうです。 |
尾道 境内地全域が国宝の「浄土寺」
のノミ跡が残る「鼓岩(つづみ岩)」
尾道 もとは浄土寺境内にあった「住吉神社」
尾道 クスノキが群生、幹は約8mも「艮神社」
艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。 同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。 拝殿は、切妻造に掘立柱を基礎とした「神明造り」で、江戸末期に再建されました。 境内には、かつて艮神の南に形成されていた鍛冶屋町の者たちによって祀られていた金山神社があります。また当神社にはクスノキが群生し、最大のものは高さ約25m、幹は約8mにもなる大木で、樹齢900年とも推定されておリ、広島県天然記念物に指定されています。 |
尾道 裏山に岩に刻まれた仏像群が「済法寺」
尾道 熊野神社から福善寺「丹花小路」
JRの線路が敷かれる前は、ほぼ真っ直ぐに行くことができたのですが、踏切がないため遠回りになります。
江戸時代には、石見銀山の銀を運ぶ通路(丹花小路)だったようです。
「丹花小路」
美しい天然の良港鶴湾にその昔、細長くせりだしていた丹花。鉄道以南唯一の高台としてその跡をとどめ、近所の人いがい通ることのなくなった丹花小路(元は長江一丁目荒神社前から久保一丁目橋本玩具店前)の中間あたりにスッキリした高さ2.1mの宮立型燈寵がたてる。
尾道 「かたい門は持光寺」童歌に唄われた「持光寺」
1936年に建立が始められた「耕三
尾道 浄土寺山、鎖場下(鎖場経由)から不動岩へ
尾道 天保大飢聾に本堂立替で人を救った「慈観寺」
本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた・柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。 江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。 (参考:天明を挟んだ江戸時代の人口は、1780年2601万人→1792年2489万人 △112万人もの人口が減少したとも。) |