千光寺公園の山頂からつづく尾道ゆかりの作家、詩人の尾道ゆかりの林芙美子・志賀直哉・正岡子規など25名の作家・詩人の詩歌・小説の断片等をつづる静かな散歩道。点々と続く自然石に刻まれた文学碑です。
彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、刻まれた詩歌の中から聞こえてきます。
彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、碑に刻まれた詩歌の中から聞こえてきそうです。
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尾道 信行寺から 天寧寺へ「幸神社跡」
【伝説 幸の前の尻つめり】
天寧寺下に「塞之神社」がありました。「幸之神社」ともいわれ、この神社前一帯を幸の前と呼んでいました。
むかしこのあたりは海岸で、尾道港の中心地だったところです。千石船の出入りも多く、いつもたくさんの人出でにぎわって繁盛していました。
塞之神社は建武年間に建てられました。文明年間(建立より百五十年後)になると、お宮はあちこちこわれ、雨もりがするようになったそうです。
ある夜のこと、氏子の孫右衛門が寝ていると
「孫右衛門よ、孫右衛門よ」
と呼ぶ声がして白髪の老人が現れ、
「私は幸の前の塞之神である。いたんだ社の修理をたのむ。修理して祭りをしてくれれば、幸の前の氏子たちに末長く福をさずけるであろう」
と告げました。・・・・・・
尾道 艮神社から天寧寺塔「猫の細道」
尾道には「猫の細道」と名づけられた小道があります。
生きている猫の他に、猫を書いた石が所々にあります。作家の園山春二先生によって生み出されものです。
福石猫の作り方は、日本海の荒波に長い年月もまれ、丸くなった石を拾ってきて、約半年間塩抜きをし、その後、特殊な絵の具で三度塗り重ね、作り上げていくそうで、福石猫が完成されるまでには、約1年もかるそうです。
ひとつひとつ丹念に作られていき、最後に艮神社でお祓いをうけ、晴れて福石猫となって、尾道に住んでいるのです。
縁起物の中の横綱といえば、それは招き猫。招き猫の置きものは江戸時代、江戸で誕生したようですが、どのようにして生まれたのかははっきりしていません。
天明年間(1781~89年)、江戸両国の二つの妓楼(ぎろう)(本所回向院(ほんじょえこういん)前、一つ目弁天前)で、大きな招き猫を店頭に飾りました。それが評判になり、妓楼は大いに繁盛したといいます。一説に、これが招き猫の起こりとされているのです。
尾道 古寺巡りコース「持光寺 → 光明寺へ」
尾道 裏山に岩に刻まれた仏像群が「済法寺」
尾道 干満潮の差は3mを越る「昔の船着き場」
尾道 浄土寺山鎖場下(鎖場経由)から不動岩へ
浄土寺山の鎖場です。一番鎖、二番鎖、三番鎖と、山頂に向かって三ヶ所の鎖場があります。
この「くさり」は、四国石鎚山に参詣できない人々のために石鎚山修験道の縮小版として、修験者の修行の場を海龍寺の裏山に設けた、と言われています。
真言宗の開祖空海は、「自分が学ぶ上代の俗典は、俗事のことばかりであり、人の一生が終わってしまえば何の役に立つものではない。
この際、俗典の勉学はやめて、真実の教えの源を尋ねることに越したことはない」と、山岳修行者になられて、吉野の金峯山、四国は石鎚山、阿波国の大滝嶽、土佐国の室戸崎などで山岳修行に励まれました。
室戸崎では、ついに虚空蔵菩薩の化身である明星が身中に飛び込んで一体となるという神秘体験を得て、虚空蔵求聞持法を成就したという。
尾道 日限(ひぎり)地蔵尊「大山寺」
尾道 お茶子娘の供養かんざし燈籠「八阪神社」
尾道 大きな反りの豪快な鳥居「亀山八幡神社」
尾道 三人の義賊、三つ首様をを祀る「海福寺」

【民話 海福寺の三つ首さま】
江戸時代の終わりごろ、尾道は凶作が続き悪い病気もはやり、世の中は騒然としていました。おまけにどろぽうや追いはぎまでも出没して、人々の心は安まることがありませんでした。
どろぼう一味の首領格と思われる者に、惣兵衛、亀蔵、利助というのがいました。この三人はどろぼうといっても、金持ちからお金や品物をうばい、貧しい人たちに恵んでいたのです。
ところがとうとうこの三人が捕えられました。
三人は文政十一年神無月(旧暦十月)の二十六日、木枯らしのふく寒い日に、処刑されることになりました。………
尾道 ピラミッド型に積まれ無縁仏塚「正授院」
尾道 冬至の朝日の方向に向けて造形「岩屋荒神社」
尾道にこんなところが「日比崎 竜王山石仏群」
尾道 尾道で最初にできた神社「艮神社」
尾道 熊野神社から福善寺の間に「丹花小路」
尾道を代表する景勝の地「千光寺山頂」
尾道 向島の小歌島とを結ぶ航路「福本渡船」
尾道 生口島 1936年建立始まる「耕三寺」
尾道 のんびりとした船旅を「駅前桟橋」
島に行く船が出ています。「尾道~因島~生口島」方面、「尾道~百島~常石」方面の船が出ています。
他に、春から秋までですが、「尾道~鞆の浦」への船が、土日に運航しています。
この辺りの海は、干満の差が3m前後あり、海岸の景色も変化します。海底までの深さも変わりますし、隠れていた岩が水面に顔を出します。また、潮の流れも早いのです。
前に向島があるので、風の影響は少なくて済みます。
1957年4月、瀬戸田港から尾道港に行く第五北川丸の海難事故がありました。岩礁に乗り上げ沈没、旅客112人及び乗組員1人が死亡。定員は旅客77人、乗っていた旅客は訳230人、約3倍の乗客を乗せていました。
その頃、夏の海水浴場へ行く客船は、船の周囲が通路になっており、海水が足首まで来るくらい乗客を乗せていました。
事故後、カウンターで乗客を数えるようになり、やっと定員を守るようになりました。


















