鎌倉 諏訪一族の屋敷跡と伝える場所「諏訪神社」

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 現在市役所の駐車場になっているところに諏訪池があり、その池の東のほとりに諏訪神社がまつられていました。その周囲は諏訪の森と呼ばれるほど樹木が繋っていましたが、今は市庁舎側の歩道にわずかに大木が残るだけです。


尾道 観音さまを盗む民話がある..「光明寺」

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【民話 光明寺の観音様】
 むかしむかしのことよ、この尾道にの、わりい(悪い)男がおってのう。光明寺の観音さまは小まい(小さい)けど、金ぴかに光っとりなさると聞いて、男はいっぺん観音さまを拝みに行こうと思うたんよ。ほんまはその男、金ぴかが気になったんじゃけどの。
 ある日、男は光明寺にでかけたんじゃ。お寺参りの人にまじって、本堂に上がったんよ。ありがたい観音さまの前にゃあ、お供えがえっと(たくさん)してあった。
「ほんまこりゃあ、きれえな観音さまじゃ、それに小まいのう。これならわしのふところに入れられるじゃろう」………



鎌倉 もとは新居の閻魔堂というお堂「円応寺」

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 新居の閻魔堂は、知覚禅師が1250年(建長2年)に建てた寺で、はじめは甘縄神明神社の近くの「由井郷見越岩」にありましたが、足利尊氏によって海辺に移されました。材木庵の九品寺の近くに「新井閻魔堂址」の史跡案内の石碑があります 。
 新居の閻魔堂はその後、1703年 (元禄16年)に地震や津波でお堂が壊れたので、まもなく現在の場所に移されました。



座間 伊勢の神輿が漂着し社を創立した「鈴鹿明神社」

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 欽明天皇(539年即位)の御代に創祀せられたという。
  伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている。



鎌倉 北条政子の法名が寺名になった「安養院」

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 安養院の地には、尊観(そんかん)が開いた浄土宗の善導寺がありましたが焼失しました。北条政子が亡き夫源頼朝の冥福を祈って、笹目(ささめ)に建てたともいわれる長楽寺が、兵火に焼かれてしまったため、鎌倉末期にここに移され、政子の法名である安養院を院号とし、これが寺名になったと伝えられています。



尾道 「五重塔から三重塔へ」珍しい「天寧寺塔」

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 ここには珍しい三重塔があります。当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。重要文化財に指定されています。建立は1388年(嘉慶2年)。三重塔に姿を変えたのは、それから300年後の1692年(元禄5年)のことでした。
 本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上から心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。


鎌倉 鎌倉で最も古い天台宗の寺『杉本寺』

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 731年(天平3年)行基菩薩が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、
 「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」
と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。
 その後、光明皇后は夢の中で、
 「東国には中央のカがいきわたらず、悪人が絶えない。願わくば、財宝を寄付して、東国の人々を救ってください。」
という言葉を聞き、不思議に思い行基に尋ねたところ、
 「それはたぶん、私が鎌倉の里に安置した観音菩薩の言葉でありましょう。」
と答えました。そこで光明皇后は右大臣藤原房前と行基に命じて、財宝を寄付して734年(天平6年)の春、この寺を開いたと伝えられています。



尾道 林芙美子の母校「尾道東校」

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【林芙美子 高等女学校時代】
 ほんの腰掛のつもりで足を止めたこの尾道という海岸町に、私は両親と三人で七年ばかり住んでいました。この町ではたった一つしかない市立の女学校に入りました。女学校は小さい図書室を持っていて、………ホワイトファングだの、鈴木三重吉の「瓦」などを読みました。



鎌倉 横須賀線施設で廃寺となった「辻薬師堂」

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 もとはJR横須賀線の名越のトンネルの西の谷にありましたが、後にこの地に移されました。横須賀線が敷かれたとき、その線路が境内を横切ることになり、本堂が取り壊されて廃寺になり、薬師堂だけが残ったということです。
 また、一説によると、長善寺は江戸時代に焼失し、薬師堂だけを残して廃寺になったともいわれています。



尾道 二年ほど住んだ「志賀直哉旧居」

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 志賀直哉が1912年から1913年にかけて間借りしていた三軒長屋。
 志賀直哉は、夕方になると八坂神社があるあたりの歓楽街に出かけ、帰ってくるのは明け方だったとか。
 長屋のとなりのおかみさんに家事などの面倒を見てもらっていたとか、そのおかみさんのご主人は、「あの遊び人の面倒などみるな!」と言っていたとか?
 そのおかみさんのためにか、尾道でガスを引いたのが2番目に早かったとか、そんな話が残っているようです。



清川村 落人伝説が伝えられる「蓮久寺」

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 上飯山の落人伝説(小鮎地区)
 厚木市上飯山に川田姓の家が十数軒あります。この川田一族に次のような落人伝説が伝えられています。時代は約八百二十年背のこと、奥州平泉泉に逃れた源義経が衣川で鎌倉の軍勢に討たれましたが、このときに義経をかくまったという理由で、藤原泰衡も頼朝の怒りをかって殺されました。泰衡を討ったのは彼の郎従・川田次郎でした。後、頼朝は川田次郎の行為を責め、鎌倉に呼びだし、次郎を斬るとともに川田一族を罰しようとしました。



鎌倉 1903年までは尼寺だった「東慶寺」

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 鎌倉には尼寺として、東慶寺、知足寺、海岸尼寺、法華寺などが存在した。江戸時代、東慶寺は縁切寺として有名で、当寺に逃げ込んで、髪を切り、経を読み、和裁などを行って、二年間を過ごし、その後離婚が認められていた。
 江戸時代も「DV=夫婦間暴力」があったのでしょうね。今もDVやがある世の中、「縁切寺」(DVシェルター)としての役割を果たすお寺さんがあってもよいのではないでしょうか。



厚木 豆腐地蔵の伝説「広沢寺」

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 曹洞宗に属し薬師如来を本尊とし、創立は後花園天皇の時代、相州足柄上郡の最乗寺了庵彗明禅師が開山しました。
 禅師は、当時七沢城主であった上杉定正と親交が深く、寺内には領地の一部を寄附してもらった上杉定正夫婦の遺骨が埋葬されています。



鎌倉 空海が護摩を焚いて修行跡に「成就院」

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 坂の頂部に近い左手の石段を上ると、古義真言宗の寺、普明山成就院がある。山ノ内の長寿寺、円応寺などと同様、昔の高い道のところに置き去りにされた格好であり、この寺の場合は主要観光ルートから外れているので、常に粛然と静まっている。縁起によれば、弘法大師・空海が護摩を焚いて修行した跡に北条泰時が開いた寺という。時に順徳天皇の1219年11月21日。その後兵火にあい、他へ移っていたが江戸期にまた当地へカムバック。



尾道 むかし北前船が寄港、今は「海の駅」

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[尾道町の政治体制」
 戦国時代、尾道は毛利氏の支配下にありましたが、その支配方法は、自分の家臣を尾道に配置したのではなく、地元の豪商と主従関係を結ぶことで間接的に行われました。なぜそのような方法をとったのでしょうか。それは新たに家臣を配置し、一から支配体制を作り上げるよりも、もとよりその地で活動していた商人と手を結ぶほうが容易に支配できたからです。しかし一番の理由は、当時から経済活動が盛んだったこの地を治めるためには、その中心であった商人たちと手を組むことで彼らが持っている流通ルートを掌握することもでき、軍事物資や、中国や朝鮮の高価な品物を入手しやすかったという利点がありました。



鎌倉 五つの神社を一緒にして祀った「五所神社」

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 境内には、「寛文十二年」(1672年)の年号がある庚申塔などが13基あり、庚申塔の由来の立札も立っています。そのほか、大きな石をまつった石上稲荷大明神や祭りのとき唄われる「天王謡」の由来を書いた立札などがあります。



鎌倉 明治時代に小学校が建てられた「啓運寺」

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 1876年(明治9年)頃、ここに桑楊学校という小学校が建てられ、乱橋・材木座・大町の三ケ村の子ども達が通いました。その後1882年に、光明寺の千手院境内に移り、乱橋・材木座の子ども達だけが通い、大町村の子ども達は、別願等に建てられた大町学校に通いました。
 また、明治の中ごろ、洋画家として有名な黒田清輝が、この寺の本堂をアトリエに使い、「日蓮の辻説法」の名画を描いたということです。


尾道 江戸時代の豪商橋本家の「爽籟軒庭園」

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 橋本家は、江戸期から尾道を代表する豪商として知られ、尾道市街地の中で広大な当地は橋本家の別荘であり、爽籟軒と言われていました。橋本家は江戸期に代々町年寄を務め、田能村竹田、菅茶山ら多くの文人墨客と交友し、頼山陽や本因坊秀策を支えたことで知られています。
 また橋本家は、重要文化財浄土寺方丈建立(1690年)をはじめ、神社仏閣への寄進や、飢饉に際して慈善事業(1834年慈観寺本堂建立)を行い、更に1878年には県内初の銀行である第六十六国立銀行(現広島銀行)の創業、尾道商業会議所の創設(1892年)など、近代産業や諸機関の普及、育成に尽力しました。

鎌倉 行基が行脚の途中修行した「虚空蔵堂」

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 正式な名称は、明鏡山円満院星井寺
 聖武天皇の時代の730年 行基が全国行脚の途中、ここで頭脳明晰、記憶力増進をかはる虚空蔵求聞持法(頭脳明晰・記憶力増進の秘宝)の修行したときの伝説が残されている。
 石段を上ると虚空蔵堂があります。ここは道の向い側の山の上にある成就院が管理している所です。
 本尊の虚空像菩薩は、はかり知れない福徳と知恵をそなえて常に人々にこれを与え、すべての人の願いごとをかなえてくださる仏様といわれています。
 源頼朝もこれを敬い、ご本尊は秘仏として35年に一度だけ拝めるようにしました。けれども今は、毎年1月13日に御開帳して拝めるので、受験の時期でもあり、たくさんのお参りがあります。


鎌倉 中世の状況を残す「浄光明寺」

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 山門を入ると客殿、庫裏、不動堂などがあり、その裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫があります。重要文化財の阿弥陀三尊像等は収蔵庫に安置されています。これらのさらに裏手、狭い階段を上った先の山上には岩壁をうがった「やぐら」があり、内部に石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)が安置されています。そこからさらに登ったところには国の史跡に指定されている冷泉為相(れいぜいためすけ、鎌倉時代の歌人)の墓があります。境内は、谷戸を雛壇状に造成した中世寺院の景観がよく保存されています。