清川村の煤ヶ谷から厚木の七沢、および伊勢原の日向にかけては石造物に適した石を産する石山があったが、石を切出して細工する石工がいなかったために手付かずのままでした。その石山を開発したのが信州高遠の石工たちでした。
高遠は長野県伊那市の高遠町のことで、鎌倉時代の頃から石材業が発達して農民の多くが石工となって働いていた。
高遠の地は田畑が少なかっただめに農家の次、三男が働くほどの農作業の仕事がなかった。
高遠藩はその対策として、元禄の初め頃にいろいろな職人になることを奨励したのであった。
津久井を通り、道中で石山を探しつつ厚木地方に来たものと思われる。
最初は煤ヶ谷と七沢の間に石山を見つけたが、その後は七沢の奥半谷という場所を拠点にして長く石の採掘を続けたのでした。
(「石が伝える厚木の郷土史 」制作:澤田五十二 より)
そのような背景があり、また職人の中でも手間賃は石工が最も高かったので石工になる者が多かったといわれている。
藩では石工の他国への出稼ぎを許し、信州の他にも甲斐・相模・武蔵・駿河・上野などの各地に石工が集団をつくって出稼ぎに出かけるようになった。
その一団が厚木方面に出稼ぎに来るようになった。
石工たちは目的の国に入ると良質の石山を探し、有望な山が見つかると村役人に願い出て採掘の許可を取りつけ、さらに村役人や有力者に自分たちの身元請け人を依頼し、その後に石の切り出しを行った。
相模国を目指した石工たちは甲州街道から
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【豆腐地蔵】
(本堂に安置されています)
ある雪の積もった朝、七沢の豆腐屋が家の前を見ると、山に向かって誰かの足跡が付いた。
「こなに朝早く来た人もせいるもんだ」
と足跡をたどって行くと、、広沢寺奥の地蔵堂の所でとまっていた。主人は豆腐を置いて帰ってきた。
その夜豆腐屋の夢の中に地蔵様が現れ
「私は及川村のある寺におった地蔵だが、及川村は豆腐屋がなくこの七沢にやってきた。これからも頼む、そのかわりこの村に来る疫病を追い払つてやる」
村の人々はこの地蔵様を豆腐地蔵と呼び、毎日毎日豆腐を上げお参りし、みんな長生きをしたそうな。
「玉川の歴史と民話を21世紀に」 玉川地区協議会 2000年3月発行 より
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