鎌倉で最も古い天台宗の寺です。寺の伝えによると、731年(天平3年)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、
「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」
と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。現在、本堂内に本尊として三体の十一面観音像がまつられていますが、内陣の左側に立っている平安時代のころの作という本尊がこれだといわれています。
その後、光明皇后(こうみょうこうごう)は夢の中で、
「東国には中央のカがいきわたらず、悪人が絶えない。願わくば、財宝を寄付して、東国の人々を救ってください。」
という言葉を聞き、不思議に思い行基に尋ねたところ、
「それはたぶん、私が鎌倉の里に安置した観音菩薩の言葉でありましょう。」
と答えました。そこで光明皇后は右大臣藤原房前(ふじわらふささき)と行基に命じて、財宝を寄付して734年(天平6年)の春、この寺を開いたと伝えられています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
十一面観音像がまつられていますが、内陣の左側に立っている平安時代のころの作という本尊がこれだといわれています。
観音菩薩像には、十一面観音、千手観音、馬頭観音など変わった姿のものがあり、それらを変化(へんげ)観音といいます。
観音菩薩は人々を救うためにいろいろな姿に変化することになっています。そこからたくさんの顔、たくさんの手を持った変化観音が生まれました。
十一面観音は変化観音の第1号です。
1725年の建立の山門。
切妻造、茅葺の八脚門。両脇に仁王様。
「仁王」とは、仏教寺院の門や、須弥壇前面の左右に安置される一対の尊像の総称。仏法や伽藍の守護神として、外敵を威嚇する。
筋骨たくましく上半身は裸。下半身に裳をつけてたくしあげ、忿怒相をしている。