林 芙美子の出身校として有名です。石碑があります。
1909年 尾道市立高等女学校として開校
貴重なピアノを保有しています。
1931年の創立20年寺に、当時のお金で2,000円(2,000円は民家が2軒も建つ貨幣価値があった)で、世界でも最高級品のベヒシュタイン社のフルコンサート・ピアノ(1906年製)が備えられた。購入時のベヒシュタイン日本代理店の帳簿には、同型のピアノは、日本に3台輸入されたと記録されている。1台は宮内庁、1台は内閣総理大臣官邸、そして最後の1台は広島県立尾道高等女学校(現在の尾道東高等学校)である。
音楽準備室に設置されていたが、象牙の鍵盤は磨り減り黄ばんでいた。何回か移動したためであろう、脚は傷ついていた。
こうした優れた楽器は、単に音を出す道具と考えたくない気品がある。1990年創立80周年記念事業として同窓会が寄付金600万円を募り、完全修復したという。しかしながら、専門家の鑑定で分かったことだが、修復部品にヤマハ製が使われており、残念ながら骨董的価値はなくなった。
お隣の久保小学校にもピアノの名器がある。
Steinway & Sons NewYorkの1899年製で、1998年10月に再生された。
1997年当時は、象牙作りの52鍵の白鍵は部分的に剥げ落ち、外観の痛みもひどくなっていた。
話によれば、このピアノは尾道ゆかりの軍人が軍艦に載せて尾道に運んで来たという。久保小学校のPTAが中心となって、このピアノを修復しようという動きが芽生えた。この修復を300万円で手掛けたのが、大阪堺在住の山本宣夫さん(山本コレクション代表、フォルテピアノ修復家)。
彼はオーストリア国立ウィーン芸術史博物館の専属フォルテピアノ修復師であり、尾道の大ファンでもある彼が、 1年の歳月かけ修復、スタインウエイ・ピアノは美しい音色ときりっとした容姿で再び久保小学校に帰ってきた。
選手に選ばれるなど交通安全については先進的な役割りを果しにものの、これも交通事情の悪化がそうさせたとも云え、それだけに約150年前、茶の師匠がたてた戯れとも思われるこの灯籠に深い感懐を覚える。
(郷土の石ぶみ 第五週(山陽日日新聞社)より)
「往来安全燈籠」
根まわり3mもある負フェニックスやたらえふ、つじに固まれた華やいだ文学碑と対照的祥碑のスグ後方に風雅な頼山陽遺墨の「往来安全」灯籠がひっそりたっている。
この灯籠は頼山陽と交りが深かった籔内流茶道の宗匠内海自得斉が山陽来遊のさい揮毫を依頼して
天保年中(1830-)当時山陽道の脇道として往来の激しかった東高下の防地川に建てたもので、1973年頃同所に移した。おそらく日本最古の交通安全標識であろう。
幸わい尾道市は交通安全都市宣言もいち早く行ない、長江小の学童が世界交通・安全カップ大会の
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【林芙美子 高等女学校時代】
ほんの腰掛のつもりで足を止めたこの尾道という海岸町に、私は両親と三人で七年ばかり住んでいました。この町ではたった一つしかない市立の女学校に入りました。女学校は小さい図書室を持っていて、……
亀井花子という音楽教師がレコードをかけてくれ、……唱歌の判らない私しにも、その言葉は心が燃えるほど縞麗だったのです。上級に進んで……エルテル叢書、……マノンレスコ、カルメン、若きエルテルの悲しみ、等読み耽りました。受持ち教師に森要人という……:年輩の方がいました。雨が降ると詩というもの
(文学的自叙伝より)
ホワイトファングだの、鈴木三重吉の「瓦」などを読みました。
……誰もいない家へ帰るのが厭で卒業する四年の間、ほとんどこの陰気な図書室で暮らしておりました。目立たない生徒で、仲のいい友人も一人もありませんでした。二年生の時、椿姫の唄を唱歌室で聴きました。
を読んで聞かせてくれました。……ハイネ、ホイットマン、等、……:みんな忘れてしまったけれども、ずいぶん心温かでした。……私は詩が大変好きになりました。燃え上がる悲しみやよろこばしさを、不自由もなく歌える詩というものを組みしやすしと考えてか、埒もない風景詩をその頃書きつけて愉しんでいました。