女学校時代に、その女学校もやっぱり私、自分で業実(実業をもじった語:学生のスラング)を働いておりましてね。今で言えばアルバイトの先駆者みたいなんですけれども。こうは言っても、私の育ったとこは尾道というところで、景色のいいとこなんですよね。「この女学校入っておりましてね。そして親が女学校には入れてくれないって言うんですけども、勝手に試験を受けに行ったら6番ぐらいで入っちゃったんです。得意になって入ってたんですけど、袴も買えないし、教科書も買えない。仕方がないから、
「巷に来れは憩いあり、人間みな吾を慰めて 煩悩滅除を歌ふなり」(林芙美子)
碑文は自筆、裏面の「林芙美子記念働の文字は、川端康成氏。「少女期の感じやすい魂に文学の芽を開かしめたるは、この地なり」と刻まれている。
NHKアーカイブに、戦後まだ6年の1951年に放送されたもので、作家の林芙美子さん47歳の肉声が残っていました。
放送終了後、林さんは4日後に亡くなった。本当に最後の音声となったという貴重なものです。その中の一部をかきとめました。
1951年 6月29日、医師の手当てもおよばず、午前1時、永眠。芙美子48才。1957年の芙美子七回忌に母校の校門に建丈建てられた文学記念碑。
これが工場に入ってあの太い針で本縫になって、そして日給をもらって、それでもって貯めたりして、日給といっても夜に行ってましたからね。だから、あるいは袴だとかそういうものを、自分のお金で稼いで、そして学校に入った。学校に入った時に私は地方での土着のものじゃないもんですから、
非常に排斥されていた。自然に図書室に入ったりするようになって、その頃のものだとか、「椿説弓張月」という馬琴のものとか、それから鈴木三重吉さんの「瓦」」とか。それから北原白秋、たいへんな流行でした。倉田百三とかね外国のものだとモーパッサン、詩人では(ベル)ハーレンとか
ホイットマンだとか、。その頃たいへん詩が大変流行して、流行っていて、若い人に読まれて、私も自然詩を読んで非常に好きでした。先生がまた非常に詩の好きな方でして読んでくださって、そして自然に自然発生的にそういうものが好きになっていったと思っています。………
1933年に建てられた鉄筋コンクリート造り三階建てで、建てられてから80年を超えました。
太平洋戦中と戦後しばらくは、校舎がグレーと黒に塗られていたとか。
戦前に建てられた鉄筋コンクリート造の小学校でいまも使われているのは、広島県内には2つのみ。なんとその両方が尾道にある「土堂小」と、「久保小」だ。壁にくっついた煙突のような控え壁(バットレス)が、天に昇るような垂直性を表すところがゴシック的。規模・装飾ともに中国地方随一といわれ、昭和
初期の尾道の先進性をいまに伝える。
「尾道近代建物マップ」より