福山 鞆 観心行ができる「顕政寺」

 足利義昭が身を寄せていた(後ろ山の奥、熊野町の)常国寺の末寺であったが絶えて、慶長年間(1596~1614年)1600年頃、福島正則(芸備藩主)によって、この顕政寺などの寺々をほぼ一直線に結ぶ寺町(町割り)が形成された。正善院日実は顕政寺を再建し、日蓮宗に改め二代・日運は、本堂と庫裡を拡張する事績を遺し、四代目の日富は、延宝年中(1673~1680年)に、奉行・藤井六郎右衛門に願い出て門前の境内を拡め、今日の基礎を築いた。と伝えられる。

鎌倉 病にご利益があるる瘡守稲荷も祀る「上行寺」

 上行寺は、日範(にちはん)が1313年(正和2年)に創建したといわれる日蓮宗(にちれんしゅう)の寺で、山号は法久山(ほうきゅうざん)といいます。現在の本堂は1886年(明治19年)に、名越松葉ヶ谷(なごえまつばがやつ)の妙法寺(みょうほうじ)の法華堂(ほっけどう)を移築したものといわれています。本堂の中は公開されていませんが、その格天井(ごうてんじょう)には美しい花鳥の絵が、表の欄間には十二支の彫刻がほどこされています。

尾道 昔は入江で渡しがあった「磯の辨天神社」

 遠い昔、長江が文字どおり長い入り江であった頃、この一帯は海辺だったので、磯の弁天と呼ぶようになったそうです。今は建物の陰にひっそりと残っています。
 現在の神社はあまりにも小さもく、昔からこの狭さであったとは思えません。
 横のお店の裏側に名前もいわれも不明の神社があります。この神社と関係があるのでしょうか?
 この不明の神社は現在もお祭りをしているようですが、近所の人や市役所に聞いても情報はありませんでした。

厚木 安産の命、木花咲耶姫命を祀る「子安神社」

 子安神社の創立は不詳でありますが、古社調査事項取調書(明治二十九年(1896)によれば文明十八年(1486)以前の創立。
 祭神は木花咲耶姫命が祀られておりますが、配祀祭神として豊宇気命と須佐之男命が祀られております。
 古社調査書によれば、境内地には稲荷神社があり祭神は宇加之魂命が祀られておりました。
 境内には御神木の楠木がありますが、樹齢八百年以上の古木と言われ、見るからに子安神社の歴史を物語っています。

鎌倉 石仏「百観音」を安置 「円覚寺 大方丈」

 百観音霊場の由来は、養老二年(718年)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた板東三十三観音霊場と、その後にできた秩父三十四観音霊場の総称とされています。
 円覚寺方丈前の百観音は江戸時代、拙隻尊者が百体の石仏を岩窟に泰安したことが由緒となり、明治に至って今北洪川老師が整備されました。
 円覚寺の百観音を結願所として円覚寺派の寺院に百観音巡礼の札所が開設されました。

尾道 四十八夜念仏修行ののち入水往生「信行寺」

 1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
  「浄土宗」は、誰でも悟りに至ることができる教えで、自分の力だけでは無理でも、阿弥陀仏の力を借り、阿弥陀仏が私たちのために用意いただいた極楽で修行するなら、私たちでも悟れるであろう、という教えです。
 では、その阿弥陀仏とはどのような仏かと申しますと、私たちのような修行に堪え得ない普通の者を救おうとして修行を積まれ、仏となられた方です。

鎌倉 平政子(北条政子)の墓がある「寿福寺」

 このあたりは源義朝の屋敷のあった所といわれています。源頼朝は鎌倉に入ると、父義朝ゆかりのこの地に屋敷や幕府を造ろうとしたのですが、狭いことと、すでに義朝の家来の岡崎義実が義朝をとむらうためのお堂を建てていたので、大倉(蔵)というところに、幕府や屋敷を構えました。
 頼朝が亡くなった後、夫人の政子は頼朝の遺志を継ぎ、1200年(正治2年)、栄西を開山に招き、2代将軍頼家を開基として、ここに亀谷(きこく)という山号の寺を建てました。3代将実朝もしばしば訪れ、やがて七堂伽藍というお堂をもつ立派な寺になり、塔頭も14を数えたといわれ、鎌倉五山の第三位となりました。1323年(元亨3年)の北条貞時十三回忌に、260人もの僧衆が参加する大寺院でした。

尾道 生口島の北鬼門の鎮護「向上寺」

 1400年 生口守平の開基、臨済宗仏通寺派 愚中周及の開山により臨済宗の寺院として創建されたのに始まり、向上庵と号した。一旦衰退したが、江戸時代に入り1609年 関的が入寺して再興し、曹洞宗に改められた。
 向上寺は町の北鬼門の鎮護として存立し御本尊聖観世音菩薩は、今日まで町 の災障を防除し、古来島の災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺。
 臨済宗 仏通寺派開山勅特賜仏徳大通禅師愚中周及大和 尚(1323~1409年)を迎えて開きました。

座間 崖下に湧く清水悪疫を止めた「座間神社」

 約八百年前の源頼朝が鎌倉へ幕府を開いたころ、悪疫が流行したした時に白衣の老人が来て、日本武尊を祀れば悪疫が治まると教えたので、日本武尊を祀ったといいますが、その時代は1313年で、祭神は飯綱権現だという説もあります。
 1313年に社殿を再建した頃より武家の参詣が相次ぎ、1602年には領主内藤修理亮清成が一統を率いて参拝し、武運長久、氏子の繁栄を祈られたという記録もあります。また、古くからこの地は、八王子街道の宿場街として栄え、ここを往来する人々、また生糸を運ぶ車両の安全を祈念した人々で社頭が賑わいをみせたとも伝えられています。

鎌倉 「日朝さま」といわれる「本覚寺」

 本覚寺の開山は、日出上人、駿河の国三島の出身の学者。後に日蓮宗の僧となった。
 寺伝によると、日出上人は熱心に布教活動をしたが、日蓮聖人同様激しい反対に遭い、捕らえられたが、そのときの鎌倉公方足利持氏が、その熱意に感心し、日蓮聖人ゆかりの夷堂のあるこの場所を与え、1436年に建立された。
 日出上人の後を継いだ日朝上人は、幼いときから神童とよばれた優れた人で、身延山より日蓮聖人の遺骨をここに分骨し、祖師分骨堂が建てらた。また、自分の名を呼びながらお祈りすれば目の病を治してあげようとも言ったそうで、いまでも本覚寺は「日朝(にっちょう)さま」の愛称で通っている。 日蓮の生まれ変わりといわれるほどウルトラ秀才だったので、本覚寺には大物過ぎ、身延山に移り法主となった。

尾道 自然石に刻まれた25の文学碑「文学の小路」

 千光寺公園の山頂からつづく尾道ゆかりの作家、詩人の尾道ゆかりの林芙美子・志賀直哉・正岡子規など25名の作家・詩人の詩歌・小説の断片等をつづる静かな散歩道。点々と続く自然石に刻まれた文学碑です。
 彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、刻まれた詩歌の中から聞こえてきます。
 彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、碑に刻まれた詩歌の中から聞こえてきそうです。
 自然石に刻まれた25の文学碑から、尾道を愛した文人の思いが伝わってきます。

鎌倉 二本のタブの木が枝を広げる「八坂神社」

 道路脇の小川を渡ると石の鳥居がありへ左右の石灯籠(いしどうろう)のそばに、2本のタブの木が枝を広げています。社殿前の狛犬(こまいぬ)のそばに、枝をとり払ったけやきの根本が残っています。
 江戸時代に社殿を改め、場所も変わってきたということです。拝殿前に社殿の土地を寄進した人の記名碑が建っています。

座間市 悪疫流行を抑えたお礼に「座間神社」

 「相模の飯綱さま」と親しまれている当神社の創祀は神代と云われている。
 一つは欽明天皇の御代(539~571)に、坐摩郷(座間の古名)に悪疫が流行した折に飯綱権現の化身である白衣の老人が現われ、崖下の森の中に湧く清水を使うようにすすめたので、村人がそのすすめに従ったところ、悪疫はやみました。そこで飯綱権現を祀ったという。
 別の説(明治十二年編成皇国地誌)では、約八百年前の源頼朝が鎌倉へ幕府を開いたころ、悪疫が流行したした時に白衣の老人が来て、日本武尊を祀れば悪疫が治まると教えたので、日本武尊を祀ったといいますが、その時代は1313年で、祭神は飯綱権現だという説もある。

尾道 干満潮の差は3mを越る「昔の船着き場」

 「昔の船着場」が再整備されています。
 瀬戸内海中央部の干潮と満潮の差は3mを越えます。そのため船着場は階段状に作られており、毎日2回づつ干潮と満潮があり、海面の高さの変化に応じて、船と船着場(岸)に板をかける段を変えて、人が荷の積み卸しをしていました。
 このあたりは瀬戸内海の中央部で、海水が激しく混ぜ返されます。このため、海の栄養分が行き渡り、しかも18kmにもなる潮流が味の良い海産物を生み出します。料理人の中には備後地方の海で採れた魚が一番おいしいと言われる方もおられます。(ただし、小魚が多く、骨がしっかりした魚が多いので、子どものときから食べ慣れていないと食べにくいのですが!

厚木 平安初期の美人小野小町を祀る「小町神社」

 鎌倉時代、源頼朝の側室後の局ま頼朝の子を身ごもったことから、政子に恨まれて処刑されそうになりました。それを命じられた畠山重忠(鎌倉初期の武将)の家人本田次郎が心をひるがえして局を連れて、難波(大阪)へ逃げるという事件が起こりました。しかし、一説では、地元の豪族愛甲三郎季隆が局をかくまって、この山里に住まわせたと言い伝えられています。丹後の局は政子の恨みのためか、精神的苦しみからか、今までの黒髪が一夜にして老婆のような白髪に変わってしまいました。非常に悲しんだ局は小町神社の祭神の小町姫にお願いをして数日間祈願を続けたところ、不思議なことに、白髪がまた元のように黒髪に戻りました。

鎌倉 隣の光明寺より古い「蓮乗院」

 この寺院の創立年代や開山については、はっきりわかりませんが、光明寺より早い時期からこの地にあった寺で、蓮乗寺(れんじょうじ)といってはじめ真言宗だったということです。その後、光明寺が佐助ヶ谷(さすけがやつ)から移されてきてから、光明寺の子院となり、浄主宗の蓮乗院と改めたといわれてします。

「浄土宗の開祖:法然」
 ある人が法然上人に尋ねた。「念仏をしているとき、どうも眠くなって困ります。どうしたらよいのでしょうか?」
 すると、法然上人はこう答えられた。「それなら、目が醒めたときに念仏をされるとよい」と。

尾道 もとは祇園社、神仏分離令で「八阪神社」に!

色町の中の神域
 このあたりは、かつて海の中に突き出しており、「築島」と呼ばれたようです。もとは常称寺境内にあり、明治元年の神仏分離令により、厳島神社に合祀され、翌二年に現在の場所に移りました。その為、鳥居には「八坂神社」と「厳島神社」の額がかかっています。周阴に遊郭が多かった時期には、この神社に遊女のお参りが絶えなかったそうです。

厚木 信玄が出陣したとき兵火にあった「妻田薬師院」

 妻田薬師、正しくは、西隣にある遍照院というお寺の薬師堂です。
 伝説によれば、本尊の薬師像は聖徳太子によって造られたといわれています。お堂がいつごろ建てられたのかはわかりませんが、室町時代の末には信仰を集めていたようです。
 薬師堂のある地名は、白根といいます。言い伝えによれば、良弁(ろ)べん)という僧がお堂で休んでいて夢を見ました。東の方を見ると、庭の大楠が灯籠になり、お堂は昼のように明るくなりました。良弁が身を清めようとして池の側へ行くと、一夜のうちに蓮の花が咲いて、白い根が池一面に広がりました。そこでこの地を白根と呼ぶようになったそうです。

鎌倉2021年2月12日麻、火事「満福寺」

 この寺の開山は行基といわれています。寺の伝えによれば、奈良時代に関東地方に悪い病気が流行してたくさんの死者が出ました。聖武天皇はこれを心配し、行基に「これから関東に下って悪い病気を除くように。」と命じました。はるばる鎌倉に来た行基は、前に広がった青い海原と後ろの山並みがとても美しく見えたので、
 「ここでお祈りをしたら、きっと流行病もなくなるに違いない。」
と思いました。また、漁師が海難事故にあうことが多いと聞いたので、さっそく薬師如来、日光・月光菩薩の三尊を彫って祈りをささげると、不思議なことにあれほどはやっていた病気もぴたりと治まり、海難事故もなくなりました。

鎌倉 禅を世界的に広めた鈴木大拙ゆかりの「東慶寺」

 寺号は詳しくは東慶総持禅寺と称する。
 東慶寺は現在は男僧の寺ですが、明治36年(1903年)までは尼寺で、尼五山の第二位の寺でした。後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住持として入寺してから格式の高さを誇った。江戸時代には、豊臣秀頼の娘で、徳川秀忠の養外孫にあたる天秀尼が20世住持として入寺している。
 近代になって、中興の祖とされる釈宗演が寺観を復興した。釈の弟子にあたる鈴木大拙は禅を世界的に広めた人で、寺に隣接して鈴木の収集した仏教書を収めた松ヶ岡文庫があり、世界的禅文化の発展の拠点となりました。