鎌倉 江ノ島弁天に恋した五頭龍が鎮座した「龍口寺」

 龍口寺の始まりは、日蓮の弟子の日法(にっぽう)が日蓮が亡くなった後、日蓮宗にとって記念すべきこの地を後世に残すために自分で日蓮の像を刻み、1337年(延元2年)に草庵を建てて安置したことだといわれますが、やはり日蓮の弟子である六老僧(ろくろうそう)が建てたともいわれます。1883年(明治16年)ごろに住職を置くようになるまで、龍口寺には住職を置かず、輪番八ヵ寺といって、近くの八つの寺が順番に龍口寺を守っていました。室町時代のころは龍口院と呼ばれていたようで、龍口寺の名が出てくるのは戦国時代になってからです。

福山 鞆 ほぼ一直線に結ばれた寺町にある「慈徳院」

 福島正則が大檀越(だいだんおつ/「檀越」とは、仏教を後援する人のことをいいます。仏僧に帰依し、衣・食・住に関してのお布施をしたり、お寺の経営を支えたりします)となり、ご本尊・聖観世音菩薩像を寄進。そして、高僧・松雪得松禅師が開基したと伝えられています。その後、中興の祖・月湛(げったん)亮和尚がご本堂を再建し―。現在でも、境内に美しい緑をたたえながら、鞆の浦の町に静かに佇んでいます。

尾道 ネコ好きに人気の「猫の細道」

 ネコ好きに人気の猫の細道は艮神社の東側から天寧寺三重塔にかけて続く約200mのノスタルジックな細い路地です。
 作られた観光地という感じではなく、自然のままの路地。独特な雰囲気のあるカフェもあります。

鎌倉 鎌倉幕府の礎石 三浦大介義明の霊を弔う「来迎寺」

 1194年、源頼朝が鎌倉幕府の礎石となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまり。
 本堂の右には三浦義明の墓といわれる供養塔と、石橋山の戦いに敗れて三浦に引き返す途中で、平家方の畠山重忠(はたけやましげただ)軍に17歳の若さで殺された三浦一族の多々良良三郎重春(たたらさぶろうしげはる)の墓と伝えられている高さ2mほどの大きな五輪塔2基が並んでいます。

 戦で多くの人が亡くなっていますね。世界には戦に変わるやり方で、権力を手に入れる民族もいます。インド・ナガランド州に、20世紀末近くまで「首狩り族」として名をはせた民族が住んでいます。この民族は、一対一で強者・長者に挑戦し、その首を取ることを名誉とする民族でした。

 この行為をどのように見るか、悲惨なことと見るか、戦に比べればはるかに死者が少ないと見るか。
 第二次世界大戦頃から、基地や軍需工場の攻撃から無差別攻撃に移り、戦いで多くの人が命を落とすことが普通になっていますね! 

厚木 水害に合い現在の地に移された「厚木神社」

 現厚木神社(厚木市厚木町)は、古くは牛頭(ごず)天王社といい、同神社の由緒書(ゆいしょ)には、今から八百年程前の円融天皇の時、天延年中藤原伊尹公により、厚木村字天王免に同社が勧請されたと言います。
 この場所はかっての厚木町役場があった所でしたが、さらにそれ以前は旧幕時代の烏山藩の陣屋が建っていました。
 震災の被害は厚木町と相川村が最も大きかったのです。
 震災の1年後の大正13年9月に建てられた碑の正面には「あゝ九月一日」と彫られています。

海老名 有鹿神社の別当寺であった「総持院」

 「新編相模国風土記稿」では、山号は海老山万蔵寺とされています。
 本尊は、木造虚空蔵菩薩坐像で脇侍として不動明王像と毘沙門天像が安置されています。本尊は、作風から室町時代末期から桃山時代頃に造立され、元禄14年(1701)に江戸の仏師・石見によって修理された記録が残っています。不動明王像と毘沙門天像は、元禄14年(1701)に仏師・石見によって造立されたことがわかっています。

尾道 日比崎の竜王山 「石仏群」

 尾道の人たちには、この場所は何故かあまり知られていないようです。尾道駅より東側にある神社や寺院が、尾道の人たちは観光する場所と思われているようです。
 尋ねてみると、「尾道にこんなところがあったのか!」という思いはするが、観光のお客さん達に来てもらうには、???という感じなのでしょう。

 済法寺の裏山の岩に刻まれた石仏達と同様、他では観光の名所の資格は充分あるのですが、地元の人たちと縁が遠いのは何故なのでしょうか?

鎌倉 明治の神仏分離で静かな寺に「寶善院」

 開山の泰澄は、「越の大徳」(越前(福井)・越中(富山)・越後(新潟)で並ぶ者のいないほどの徳の高い僧)と呼ばれていた。加賀の白山を開いた人物。
 江戸時代には、この寺の僧が龍口明神社の別当に任じられたこともある。
 村人の信仰を集め栄えたが、明治の神仏分離によって、静かな寺となった。
“越の大徳” 泰澄大師の十一面観音伝説がいきるお寺さん腰越にある真言宗のお寺さんです。腰越の海近くの山裾にあり、とても静かで清々しい空気があります。白山信仰の神の山、白山を開き“越の大徳”といわれた泰澄大師が開いた寺院としても存在感があります。

海老名 奈良・平安の昔、相模国を守護「有鹿神社」

 市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
 建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。
 大住郡坪之内村の絵師近藤如水(藤原隆秀)が描いたものです。
 如水が諸国遍歴から坪之内村に帰ってきた後の嘉永2年(1849)頃の作と考えられています。

尾道 五百羅漢もある「天寧寺」

「五百羅漢」

 羅漢は正式には阿羅漢(あらかん)といい、サンスクリット語のアルハンを音写した言葉です。元来インドでは尊敬に値する人という意味で、仏教では、悟りを開いた修行者という意味です。羅漢には釈迦の十大弟子や、釈迦からこの世にとどまり仏法を護るように命じられた十六羅漢、釈迦の入滅後に行われた第一回結集(けつじゅう)(経典の編集会議)で集まった五百羅漢などが含まれます。

福山 鞆 見事な石造物が「阿弥陀寺」

 永禄年間(1558~1569年)の開基と伝えられる。
 江戸前期~中期にかけて十代目の雲洞和尚が時運を隆盛させた。それを伝える丈六、阿彌陀如来坐像「鞆の大仏」など目を見張る数々の寺宝がある。
 境内には、江戸時代の多彩で見事な石造物が多くあり、鞆の町人文化の興隆振りもよくうかがえる。江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。

鎌倉 かまどの神・火の神の荒神さまを祀る「巽神社」

坂上田村麻呂、源頼義ゆかりの神社(801年創建)
 祭神:津日女生命、奥津日子命、火産霊命
 延暦20年(801年)坂上田村麻呂は征夷大将軍として陸奥国の蝦夷を降し、現在の岩手県奥州市、盛岡市に城を築きました。
 その東征の際、奥津日女生命、奥津日子命、火産霊命を葛原岡(源氏山)に勧請したのが、巽神社の始まりといわれています。
 その後、葛原岡から現在の地に移され寿福寺の鎮守神として敬われ、寿福寺の巽の方角にあることから巽神社と改称されました。

相模原南区 前田家が鷹狩りによく来た「長松寺」

 鎌倉公方足利氏満開基となり、曇芳(どんぽう)(1399年没)を開山として臨済宗建長寺宝珠庵の末寺として建立。
 1430年再建。その後何度か衰退を繰り返したが小田原北条氏の時代お堂が再建された。また、換室宗応(かんしつそうおう)という僧が代官平岡岡右衛門吉道とともに曹洞宗に改宗し、津久井の功雲寺末寺として再度開基された。
 1649年に寺領十石の朱印状(寄進状)が与えられている。

尾道 生口島 ここはイタリア?「耕三寺 未来心の丘」

 境内北方に位置する。瀬戸田の町と瀬戸内海を見渡せるイタリア産大理石を用いた環境芸術。彫刻家杭谷一東の作。
 制作にあたって、「金は出すが、口は出さない。」と言って制作を依頼したとか。イタリアで制作し、ここで組み立て、調整した。
 仏教護法の十二天よりテーマが設定されているようです。「十二天」とは、古代インドの聖典ヴェーダに登場していた神々が仏教に取り入れられ、十二天となりました。
 中国では唐代に成立し、日本には平安時代前期に持ち込まれたそうです。
 東西南北などの八方位に、天・地と、さらに昼・夜が加わって、十二天のかたちができあがりました。密教では曼荼羅(まんだら)に描かれ、主要な地位を占めています。

鎌倉 明治の王政復古で祀られた「日野俊基朝臣の墓」

 日野俊基は、討幕運動の先駆者として、明治天皇が、忠臣として再評価されました。
 明治維新後、後醍醐天皇に忠義を尽くした人達が人達が祀られました。

 1331年、後醍醐天皇は二度目の倒幕計画を企てたが、これが露見し、日野俊基は再び捕らえられ、翌年、葛原ヶ岡で処刑された。
 日野俊基は、鎌倉に入ることなく仮粧坂の葛原ヶ岡で斬首されたと伝えられている。

 明治維新は、幕府を倒して実現した王政復古で、いわば南北朝のリターンマッチとして堀起したと位置づけられたようです。

厚木 学問・音楽・除災・至福の「大釜大弁財天尊」

 広沢寺温泉入口の駐車場より1km程行った所に大釜弁財天があります。
 3m余りの巨石が2つ、掌を合わせたように並んでおり、奥行4mの内部には七沢石で造った蛇の宇賀神(文政5年銘、とぐろを巻いた形)と高さ60cmのほこらの中にはいった弁天様が祭られています。
 その2つの巨石に前面には渓流が勢いよく流れ、直径1m50cmの一の滝壺、3m40cmの二の滝壷で渦となり次の1m50cmの滝壷、2m80cmの滝壷、2m50cmの滝壷へと巨岩を縫って落下しています。昔は7つの滝壷があり荘厳な眺めであったということです。

尾道 もともとは海徳寺の鎮守だった「勇徳稲荷神社」

軒が低く打ち水が涼気を誘う後地小路をくぐりぬけるとまねくが如く道路にセリだした松の木の根元にギョッとするほど鮮やかな朱塗の鳥居が待ち受ける。もともと正一位勇徳稲荷神社は海徳寺の鎮守であったが、大正十五年に同寺が火災にあい、このため寺は、東久保町の山手に引っ越したが、神社だけは独立し、そのころの名ごりをとどめ「抱二天」の仏様がまつられている。
 鎮座はこれまたいつのころかわからないが鏡台に文久二年(一八六二)と書きこんであるところからこれよりさかのばるものとみられ、間口三間ほどの拝殿はそう古くはないが玄関は昭和年代に入り、近くの御嶽教社をとりこわし移し、また鳥居も元市民病院横にあった稲荷様のものといわれる。

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鎌倉 学僧達の修行道場であった「 千手院」

 光明寺が「檀林(だんりん)」という仏教の最高の学問をおさめるところであったとき、各地から多くの学僧が集まってきました。千手院は、そうした学僧達の修行道場である僧坊(そうぼう)の一つでした。代々の住職は学頭(がくとう)といわれ、学僧達の指導者だったといわれています。学頭の墓のいくつかが本堂左手の墓地にあります。
 江戸時代の中頃からは学僧の数も少なくなったので、住職は近所の子ども達に読み書き、そろばんを教えるようになったようで、境内には寺子屋の記念碑が立っています。

鎌倉 北条時宗公産湯の井がある「甘縄神明宮」

 急な石段を上ると甘縄神明神社の拝殿と、その奥に本殿があります。この神明神社は天照大御神をまつる神社です。神社の縁起では、奈良時代の和銅年間(708年~715年)に、このあたりの豪族の染屋太郎時忠(そめやとろうときただ)が建てた鎌倉で一番古い神社(昭和の町村合併前まで)だといわれ、長谷の鎮守です。
 平安時代中期の武将 源頼義が甘縄神明宮で子供が欲しいと祈願したところ、本当に子供を授かったことから“子宝のご利益がある神社”として有名になりました。

座間 行基が金光星の如く輝くのを見た「星谷寺」

 行基菩薩が諸国教化の際当地で金光星の如く山谷に輝くのを見て、自ら聖観音の像を彫刻し、堂宇を営み星の谷観音堂として建立されたも。
  お寺の山門に怒った顔をして立っている仁王像は、ふつうペアをなしており、一方は口を大きく開き(それを「阿(あ)」形(ぎょう)という)、もう一方は口をへの字に結んでいる(それを「吽(うん)」形(ぎょう)という)。
 仁王は金剛力士とも呼ばれ、仏法を守護し邪悪をしりぞけるために寺の入口に立っている。一体の仁王像もあるが、ペアの仁王像では一方は「阿」形、もう一方は「吟」形の姿で表現される。