福山 鞆 初代藩主水野勝成がこの地区を開発「妙蓮寺」

 慶長年間(1596~1614)に実相院日玖が創建したと伝えられています。実相院日玖は元気で充実した年頃に日常のつきあいを断ち、法宣寺十四世恵性院日親の弟子となり、修行し、法華経を読すること40年、一万二千余巻におよんだ。
 福山藩主・水野勝成殊勝に願い、寛永の末(1644年頃)今の地を賜い、三人扶持十一石を賜る。
 福島正則の改易に伴い、水野勝成が1619(元和5)年、備後10万石の領主となって入府。福山と命名して福山城を築いて以来、芦田川河口のデルタを開拓、治水工事とともに城下町として整備した。
 勝成は秀忠から郡山に替わって備中西南部と備後南部の福山10万石を与えられる。

鎌倉 鎌倉では珍しい五重塔「龍口寺」

 龍口寺の五重の塔は明治四十三年(1910)竣工、棒造り銅板葺き、神奈川県で唯一の木造本式五重塔である。初層の上部には彫刻師、永田伊助の手になる日蓮大聖人御一代記が奉納されている。

 五重の塔は、この世と、また、私たち人間を形づくっている五つの要素である
「地」、「水」、「火」「風」、「空」の五大を意味する。

尾道 柔術不遷流の開祖不遷がいた「済法寺」

 旧市街から見ると、ちょっと離れた西側にあります。

 境内に入っただけでは気がつかないのですが、裏山にある“岩に刻まれた仏像群(磨崖仏)”は見もの、特別な世界観を作り出しています。

 墓地がある斜面には、数多くの仏像か岩に刻み込まれています。ただし、お墓があるところより上は道がありません。双眼鏡などで見ることをおすすめします。(このあたりは花崗岩が風化した大きめの砂粒が斜面にあり、枯れ葉も多く、かなり滑りやすいのです。このような道のない斜面を歩きなれた人以外は、登らない方がよいでしょう。)

厚木 親鸞聖人が御巡錫の場「弘徳寺」

 寺の縁起によれば、親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡で、親鸞の嫡男・善鸞がここに草庵を結び心光院と号したのが始まりと伝わる。
 開山・開基は、親鸞の直弟子の信楽ぎょう房。信楽房は平将門の子孫で、俗名を相馬太郎義清といった。
 建暦・元仁期に親鸞が常陸国稲田に布教の折りに門弟となり、その後当山を任せられた。
 墓地に善鸞の墓と伝わる小高い土塚がある。
 明治初期の廃仏毀釈で寺院の荒廃を憂い、当山世話人島崎利助という人が明治10年に自費を投じて墓石を建立した。また、供養塔と思われる「信楽塔」も建立されている。
 『新編相模風土記稿』によれば、かってこの地には地蔵堂があり、親鸞が錫をとどめた旧跡と云われる。

鎌倉 比企能本夫妻の像が「妙本寺祖師堂」

 妙本寺の祖師堂の建立は、その棟札から1838年と推定されている。
 桁行 (正面約18.7m) 五間、梁間 (奥行約19.7m) 六間、瓦葺き入母屋造り。

 日蓮、日朗、日輪が祀られている。

 現在の建物は、天保年間(1830~1843年)に、第四十七世日教によって再建されたと伝えられている。

尾道 昔の船着き場が「福本渡船 ⇔ 駅前海岸」

 昔の船着き場があります。クレーンなどなかった時代の港の風景です。
 このあたりは干満差(干潮時と満潮時の海面の高さの差)が4m程度あります。そのため、舟から荷揚げをするとき、船と船着場に渡す板の角度を平らにするため、船着場が階段状になっています。
 いまはクレーンなどがあり、このような船着場はなくなってしまいました。しかし、大災害で動力が使えなくなったとき、役に立つかも知れませんね。

海老名 大型の一間社流造「有鹿神社」

 市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
 建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。
 大住郡坪之内村の絵師近藤如水(藤原隆秀)が描いたものです。
 如水が諸国遍歴から坪之内村に帰ってきた後の嘉永2年(1849)頃の作と考えられています。

鎌倉 源氏と鎌倉のつながりのできた「元鶴岡八幡宮」

 元八幡は、相模守(さがみのかみ)であった源頼義(みなもとのよりよし)が京都の石清水(いわしみず)八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(えき)(1051~1062年)で、奥州(今の東北)の豪族の阿部頼時(よりとき)・貞任(さだとう)に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡(ゆいごうつるがおか)のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
 後三年の役(えき)のとき、頼義の子の義家(よしいえ)が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。
 1180年(治承4年)、鎌倉を根拠地としで鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)が、現在の八幡宮がある元八幡と呼ばれていますが、正しい名は由比若宮です。

尾道 生口島 奈良・平安時代を参考「耕三寺」三段部分

 大阪の元実業家耕三寺耕三が、昭和10年より建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。
 お母さんが旅行に行けないためか、堂塔伽藍は奈良・平安時代の浄土教の寺院を参考に建立されています。
 仏教を日本に広めるために奈良時代や平安時代当時のお寺を彷彿させる賑やかさがあります。
 そして、有名な堂塔の建築様式の建築された当時の姿をを一挙に見ることができます。

座間 鈴鹿郷神社の神輿が海上を渡御し漂着「鈴鹿明神社」

 欽明天皇(539年即位)の御代に創祀せられたという。

  伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている。
 みこしがこの地に着いたとき、梨の木坂に住む龍神(座間にもともといた神)はみこしの中の宝物を欲しがり、七日七晩暴れました。これに対して流れついた鈴鹿の神は宝物を与えてしずめ、ここに落ち着くことにしました。

福山 古くからの航路、航海安全を祈願「阿武兎観音」

 磐台寺観音堂(臨済宗)

 1570~73年(元亀年間)に、毛利輝元によって再建された観音堂で、国の重要文化財に指定されています。急峻な岩肌に、青々と飛沫をぶつける瀬戸内の海。その荒々しい自然の中にあって、この異国情緒漂う朱塗りの観音堂が、妙に調和して見えるから不思議です。
 その美しさは古くから名高く、安藤広重の浮世絵や、志賀直哉の小説「暗夜行路」の中でも取り上げられているほど。一度は訪れてみたい名所です。

鎌倉 このあたり源義朝の屋敷のあった「寿福寺」

 源氏山を後ろにしたこの寺は、朱塗りの総門をくぐると、木立に囲まれた石だたみの参道がまっすぐに続き、山門のむこうに大きなビャクシンが枝を広げ禅寺(ぜんでら)の雰囲気をただよわせています。
 残念ながら、境内には入れません。 山門前から脇の小道を上がると墓地に出ます。そこには、源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。

尾道 行基菩薩創建と伝えられる「西国寺」

 西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山。 ある日、尾道に立ち寄られた行脚の中の行基はその夜、加茂明神の霊夢を見て、その御告げによってこの地に開山したと言い伝えられます。

 西国寺は平安時代の院政期より朝廷との関わりが深く、官寺として大きな影響力を持っていたと考えられます。

 備後守護の山名氏一統の手によって再興されました。山名氏は明との交易を盛んに行っていたため、瀬戸内海交易の中心地の尾道は非常に重要な拠点でした。港町尾道を円滑に管理下に治めるため、西国寺に多くの寄進を行っていました。

座間 日蓮が立ち寄り休息をされた「圓教寺」

円教寺に伝わる話
 鈴木弥太郎貞勝は、龍ノ口で日蓮上人に向かって振り上げられたものの、光る玉の出現で3つに折れた刀、「蛇胴丸」を作った人。
 そしてあの事件の翌日9月13日、昨夜のうわさを聞きつけた鈴木弥太郎貞勝が、依知の本間屋敷に向かって相模川を渡る前にぜひ自宅にお立ち寄り下さいと申し出たことにより日蓮の一行は貞勝の屋敷で休息を取ることになりました。 このとき貞勝は日蓮の教えに入信し、円教坊(えんきょうぼう)という名をいただきました。円教坊はこのあたりの水が刀作りに適さないことを話すと、日蓮は石に南無妙法蓮華経の文字を書き、「三十番神」(さんじゅうばんじん)をまつって地面を掘りました。その時わき出た泉がこの番神水だというのです。

厚木 飯山の観音さん・縁結びの観音さま「長谷寺」

【観音堂】 (重要文化財)

 建久年間(1109~1198)源頼朝公が秋田城介義景に命じ造営を加えしめられた。
 だが、嘉吉二年(一四四二)春一山炎上する処となり、ついで六間半四面の堂宇を再建されたのが堂宇であります。宝形堂で斗棋の組み物や、十二支を素朴な彫りに飾った墓又等によった格調高い建築様式です。内陣には寛文十二年(1672)に旧飯山村の大工西海氏によって造られた厨子が安置され観音堂と共に重要文化財に指定されており、その中に本尊十一面観世音菩薩立像が納められている。

尾道 806年空海によって創建「千光寺」

千光寺本堂からの景色


 冬至の朝、本堂に行くと、本堂を照らす朝日が本堂正面から登り、本堂舞台に、欄干の細長い影を落し、その長い影は舞台に敷かれた板と、美しく平行線を絵描き、本堂本尊に真直ぐ向かっているそうです。
 本堂の本尊が祭られているのはこの後側です。そのためか、最もお参りが少ない本堂と言われているとのこと。
 遠くに「しまなみ海道」の最初の橋が見えます。ただし、サイクリングをする人は、この橋は渡りません。渡船で向島まで行き、因島大橋を目指します。

尾道 大火で焼失、海岸から1928年に移転「海徳寺」

 1926年10月12日の早暁、不幸大火のため全山焼亡、1928年現在地に移転新築しました。
 むかしは、防地川河口にありました。広大な境内を有する通称「沖の道場」と呼ばれ、市の発展につれて周辺に民家が建ち並び、境内が広かったので、サーカス興行や相撲の興行があって、名力士常陸山、梅ヶ谷、太刀山、鳳などの勇姿も見られたそうです。
 その頃は、本堂の東側に一本の古松があって、竜神がその梢に燈明を献じるというので、その松は「竜燈松」と呼ばれていたそうです。
 一遍上人が諸国遊行の途中、尾道に草庵を結んで念仏勧進されたのにはじまると言われています。

福山 鞆 新羅へ出兵の淀媛命を祀る「淀媛神社」

神功皇后の妹君の「淀媛命」
 十四代仲哀天皇の后であられた神功皇后が、新羅へ出兵に際し、諸国に使令を出して船舶を集め武器鎧をお揃えになった。 また皇后は、妹の淀姫命を松浦に遣わし兵と船を集められた。松浦地方の族長である磯良(しら)を伴い此の地の海辺・膳崎(かしわざき)に着船された。

鎌倉 若狭の局の霊をまつる「蛇苫止堂」

 蛇苦止明神(じゃくしみょうじん)
 比企ヶ谷(ひきがやつ)で能員(よしかず)が滅ぼされたとき、能員の娘で、若狭(わかさ)の局(つぼね)と呼ばれた一幡の母が家宝を抱いて井戸に身を投げ、蛇(へび)に化けて今も家宝を守っていると、言い伝えられています。
 その後、執権北条政村(まさむら)の娘が、もだえ苦しむ不思議な病気にかかりました。うわごとをロぱしり、蛇のようにのたうちまわるのです。そのうわごとから、若狭の局の亡霊が、北条一族にとりついて、うらみを晴らそうとたたりをしていることがわかりました。政村はえらい僧に祈祷をたのみ、若狭の局の霊をまつる祠(ほこら)を建てて供養したところ、娘の病気が治ったということす。その祠が蛇苦止堂だと伝えられています。

尾道 瀬戸田 80数年前に建立が始った「耕三寺」

 耕三寺(こうさんじ)は、尾道市瀬戸田町(生口島)にある仏教寺院です。1936年から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」「母の寺」とも呼ばれています。小高い山を利用しており、この第二段には、室生寺の五重塔を模した「五重塔」、また、四天王寺の金堂を模した「法宝蔵」などがあります。