江の島 たびたびの崖崩れ「延命寺」

「此処は何なのかしら・・・・?」

 閻魔大王が鎮座している石窟の奥が納骨堂になっています。
 閻魔大王を筆頭とする十王の信仰は、鎌倉時代に流行した信仰で、死後に人は天国か地獄に行くと信じられていました。天国か地獄かの裁きを司るのが、十王で、裁きは七日ごとに七回行われるので、四十九日目には天国か地獄かが決定します。
 最初の七日目は三途の川を渡り、冥府でまず秦広王の裁きを受ける。次の七日目(十四日目)には、初江王のもとで裁かれる。次々とさらに七人の王のもとで裁かれて、最後に閻魔大王に引導を渡されることになりまする。さらに、その後、百か日、一年、三年と、合計十回裁きがあり、それぞれ、そのときの十人の王が裁きが行なわれます。

尾道 水祭りが復活した「熊野神社」

 西国寺山南先端部にある水尾町にある神社です。
 日本最古の伽藍様式の大阪四天王寺の伽藍配置でも最南端部に造営されているのが熊野権現です。
 むかしの西国寺を想像した時、この配置にも何らかの意味があるのでしょうか。
 古く江戸時代から続く水祭りが復活したようです。
 旧水尾町(現久保)に伝わる夏祭りで、水細工人形を陳列し、水尾町の豊かな水源を慶ぶ熊野権現神社の祭祀です。
 からくり人形をで水細工の場面がつくられ、人形の手の先から水が噴水のように吹き出します。

鎌倉 ここにも稲荷を祀られている「本成寺」

 門を入った正面に本堂があり、右側に墓地、左側に庫裏(くり)があります。日蓮(にちれん)の弟子日賢(にっけん)が1309年(延慶2年) に開いたと伝えられています。本尊は、三宝本尊(さんぽうほんぞん)(祖師(そし))という「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のお題目が書かれた塔と釈迦如来(しゃかにょらい)、多宝如来(たほうにょらい)で、日蓮上人像とともにまつられています。また、岩の上のキッネにまたがった稲荷明神像(いなりみょうじんぞう)もありますが、これは「教(経)-稲荷」と呼ばれ、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つ江戸時代のものです。

海老名 江戸時代初期に創建「龍昌院」

 「新編相模国風土記稿」では、山号を上郷山、宗珪寺(海老名市河原口)の末寺とされています。本尊は、木造釈迦如来坐像で、寛保2年(1742)の修理墨書があることや作風から江戸時代前期に造立されたと考えられます。
 寛政2年(1790)に江戸糀町7丁目の仏師・西山平治郎が造立した木造地蔵菩薩半珈像なども安置されています。
 能山雲元(?~1620)が開山したと伝えられることから江戸時代初期に創建されたと考えられます。

福山 古くは澳(沖)の御堂と言われ「本願寺」

 時宗寺院の多くは海港に分布しています。福山の鞆には興楽山陽場院本願寺、雲波羅山福寿院永海寺があったのですが、永海寺は1754年に焼失し今はありません。
 本願寺は古くは澳(沖)の御堂と言われました。隣の港町尾道には海徳寺、常称寺、海福寺、西郷寺、慈観寺等が存しています。尾道の時宗寺院で最も古いと言われる海徳寺も沖の道場と言われ、かつては尾道港の沖にあって常夜燈をつけて行き交う船の標となっていたのではと推察され、本願寺もかつては現在の場所ではなく海辺に寄った所にあり海徳寺と同じ役割を果たしていたのではないでしょうか。
 ちなみに寺院の呼称に沖を用いるのは時宗のみだそうです。

尾道 現在はあまりにも小さい「磯の辨天神社」

 遠い昔、長江が文字どおり長い入り江であった頃、この一帯は海辺だったので、磯の弁天と呼ぶようになったそうです。今は建物の陰にひっそりと残っています。
 そのころは東西に渡し船がありました。

 現在の神社はあまりにも小さもく、昔からこの狭さであったとは思えません。
 横のお店の裏側に、名前もいわれも不明の神社があります。この神社と関係があるのでしょうか?
 この不明の神社は現在もお祭りをしているようですが、近所の人や市役所に聞いても情報はありませんでした。

鎌倉 石仏補陀落迦観自在窟 「円覚寺 大方丈」

 円覚寺方丈前の百観音は江戸時代、拙隻尊者が百体の石仏を岩窟に泰安したことが由緒となり、明治に至って今北洪川老師が整備されました。
 円覚寺の百観音を結願所として円覚寺派の寺院に百観音巡礼の札所が開設されました。
 昔は、霊場に写経を納め、その際に納経印をいただいていましたが、それが現在の御納経帳または御朱印帳に変わったものとされています。行く先々の霊場で観音さまの由来を知り、観音さまの御利益にあずかり、観音さまを念じながらお参りされると、心が清浄になり安心を得られることと思います。

尾道 尾道随一の名水『延命水』の「正念寺」

 当山は第三十一代遊行上人によって開かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発揮したと言います。
 本堂に安置する阿弥陀如来像は、全国的にも珍しい半跏座木像で、鎌倉期の趣があります。尾道市の民族文化財に指定されている「下陣の格天井の彩色画」、延命地蔵堂に安置されている「木造地蔵菩薩立像」があります。
 また、今も境内に滾々と湧く「延命水」は尾道随一の名水です。
 「おどり念仏」を今に伝える当山は、まさに時宗の町寺というべき存在と言えるでしょう。
 尾道市には奇跡的にも未だ六カ寺の時宗寺院が存在しております。

厚木 神奈川景勝五十選、飯山の観音さん「長谷寺」

 「飯山の観音さん」「縁結びの観音さま」として知られる長谷寺(通称飯山観音)は厚木市街から約六キロ、丹沢から東へのびる尾根、白山の中腹に位置している。
 神奈川景勝五十選、花の名所百選にもなっており、参道、境内、桜の広場には約二千二百本もの桜の木があり、春にはお花見客でも賑わう。
 また、本堂裏側より登る白山森林公園ハイキングコース頂上展望台からは関東平野を一望でき、正面に横浜、左手に東京新宿を見ることができる。

鎌倉 源氏が衰退の原因か?「永福寺跡」

 頼朝の死後。二代目の将軍になったのは息子の頼家。 こんな豪華な建物を受け継いだ頼家なんですけど。家臣たち、御家人たちは、「次の将軍さまは何やってんの」というような、不信感を抱いてしまった。それは、頼家がここで何とをやったのか? なのですが、二代目将軍頼家の永福寺での行いに、家来たちは不信感を募らせたといいます。
 どんなことをやったのかというと、京都から文化人を呼び寄せ、遊びの名人を呼び寄せ、頼家はここでどんちゃん騒ぎや蹴鞠をやったり、遊び場にしてしまったのだという。しかも京都から人を呼び寄せており、武士よりも朝廷の貴族たちを大切にしているとして、家来たちが不信感を抱いていった可能性があるのだ、と思われます。

尾道 夕方“鐘の音”が市街に響く「千光寺」

 寺伝によれば806年に空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はなく、中世以前の寺歴は判然としない。
 興趣千変万化、奇岩、奇勝など四季を通じて自然の神秘を探賞できます。
 唐から空海が帰国したのが806年、これ以降、真言密教が日本に広められた。ということは、806年に創建されたは??ですね。
 また、高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創したのは816年のことで、真言宗の開宗はその頃とされています。

厚木 鋳物が盛んだった「鐘鋳神社」

鋳物師と小坊主(荻野地区)

 荻野には、鉄や銅を使って鋳物を作る鋳物師(いものし)(「いもじ」ともいう)がたくさん住んでいました。もとは飯山に住んでいたものが、移り住んできたようです。難波氏、木村氏、毛利氏などが鋳物師として活圖しました。荻野で鋳物が盛んになったのは、荻野川から原料の砂鉄が手に入りやすかった上に、砂鉄を溶かすための木材も手に入りやすかったからでしょう。

鎌倉 薬師堂だけが残った「辻薬師堂」

 ここには医王山(いおうざん)という山号の長善寺(ちょうぜんじ)があり、寺の伝えでは、奈良時代の神亀(じんき)年間(724~729)、鎌倉にいた豪族で「由比の長者」といわれた染屋太郎時忠(そめやたろうときさだ)が建てたといわれますが、確かなことはわかりません。もとはJR横須賀線の名越のトンネルの西の谷にありましたが、後にこの地に移されました。横須賀線が敷かれたとき、その線路が境内を横切ることになり、本堂が取り壊されて廃寺(はいじ)になり、薬師堂だけが残ったということです。
 また、一説によると、長善寺は江戸時代に焼失し、薬師堂だけを残して廃寺になったともいわれています。

御袖天満宮 から福善寺への小道!

【民話 力じまんの和七】

 明治の初の頃のことです。尾道の港の仲仕たちは、畳表を上げ下ろしする表仲仕と、海産物を上げ下ろしする浜仲仕とに別れていました。
 表仲仕の和七は心やさしく働き者でだれにもまして力持ちでした。
 そんな和七の鼻をあかそうと、浜仲仕たちの考えたのが、天神さんの五十五段の石段を、三十貫の鉄棒を二本担いで下りることです。
 この挑戦を和七はうけてたちました。そして当日、大勢の見物人に囲まれて和七は、六十貫の鉄棒をいっきに胸まで持ち上げると、石段の中程まで下りていきました。 しかしその後、和七は苦しそうになり足も遅くなりました。そして「天神さん、一生一度の力ですぞ。」と天神さんに誓うと、石段の中程まで下りていきました。しかしその後、和七は苦しそうになり足も遅くなりました。そして「天神さん、一生一度の力ですぞ。」と天神さんに誓うと、すべての力をふりしぼって、最後の一段を下りきりました。 その後表仲仕と浜仲仕のいざこざもなくなりました。

相模原市南区 多くの石仏がある「長松寺」

長松寺三世大林和尚逸話
 大林和尚は相州西郡小田原領田方村の出生である。若い時行脚ばかりしていて、師匠の義天和尚のもとにいることはほとんどなかった。ある時大林を呼んで「西行法師は歌詠みだから、一生諸国を廻り歩いて無庵であった。お前もその類だろう」と叱りつけた。大林答えて「お叱りはどもっともです。しかし私は死後にせめて西行の七分の一ぐらいの名を残したく存じています」といったという。
 義天和尚臨終の時、大林は西郡赤田村太鼓庵にいた。師匠危篤の知らせに驚いて、とるものもとりあえず駈けつけたが、ついに最期に間に合わなかった。あるものがつぎのような狂歌を詠んだ。

鎌倉 果てしなく大きな智慧と福徳がある「虚空蔵堂」

 正式な名称は、明鏡山円満院星井寺
 聖武天皇の時代の730年 行基が全国行脚の途中、ここで頭脳明晰、記憶力増進をかはる虚空蔵求聞持法(頭脳明晰・記憶力増進の秘宝)の修行したときの伝説が残されている。
 本尊は虚空菩薩(智慧と頭脳明晰と広大無辺の宇宙を掌る仏様)で、行基が彫って祀ったと伝えられている。その後、源頼朝が、秘仏として35年に1度だけ開帳するように命じたと伝わる。現在は毎年1月13日に御開帳して拝める。

尾道 港の守護神を浄土寺から移す「住吉神社」

 尾道や瀬戸田は、中世から瀬戸内海交易の中継地として発展し、江戸時代においても有数の港町でした。北前船が寄港するようになると、さらなる飛躍をとげています。
 尾道では、1689年に薬師堂浜の西側を、1690年にさらに西の荒神堂浜を、1697年に土堂浜を埋め立てています。この埋立は商人たちの手によるもので、増大する船舶の出入りに応じる形となっていました。
 この後、さらなる港の活性化に伴い、住吉浜の築造が急務となりました。そこで、広島藩は、直接工事を計画し、1740年尾道町奉行に平山角左衛門を任命。平山角左衛門は、翌年工事に着手し、住吉浜を築造しました。
 (神社は昭和の初期までは、こちら側(海側)を向いていたようです。)

福山 鞆 最澄による創建「静観寺」

 平安時代には最澄により静観寺、空海により医王寺が創建され、それぞれ西日本の布教拠点となった。南北には北朝と南朝間で幾度も戦闘があり、静観寺五重塔など貴重な文化財が失われた。また鞆の浦が足利尊氏の再起の拠点となり、室町幕府成立へ重要な役割を担った。戦国時代に入ると、毛利、尼子勢の間で拠点争いの地となった。毛利氏擁護の下で室町幕府15代将軍足利義昭が長期滞在、鞆幕府とも呼ばれた。

鎌倉 頼朝が戦いで大勝したため改名「大巧寺」

 創建は1320年と伝えられています。
 この寺は、はじめ大行寺(だいぎょうじ)といって十二所しありました。頼朝がある戦いのとき、この寺で練った作戦によって大勝したため、大巧寺と名を改めるよう命令したそうです。
 本尊は安産の神様とされる産女霊神(うぶすめれいじん)。550年前の室町時代、難産のために死んで霊となり人々を苦しめていた女の霊を、当時の住職であった日棟上人が鎮め、安産の神として祀ったことから、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになりました。

尾道 足利二代将軍義詮が寄進「天寧寺」

 開基は1367年に、尾道の人 万代道円の発願により、足利二代将軍義詮が父尊氏の遺志をついで工費を寄進し、普明国師を講じて開山したもので、宗旨は臨済宗、創建当時は東西三町にわたる宏荘な大寺院であった。本尊は宝冠の釈迦如来。
 仏教が成立した初期は、釈迦を像にすることが禁止されていました。しかし釈迦の死後、シンボルとして蓮華や法輪、仏塔が作られ、礼拝対象となります。さらに時が経ち、初めてできた仏像が釈迦如来です。