厚木 鎌倉幕府御家人安達藤九郎盛長勧請「八幡神社」

“ 八幡神は、早い時代から反乱の鎮圧や仏教の保護などに霊験を示して各地への広まりをみせます。また「ツキを呼ぶ神様」としても登場しています。
 全国の八幡様を祀る神社の数は三万とも四万ともいわれています。
 八幡神社など、同じ名前の神社が多いのは、なぜでしょうか?
 それは、神さまが分身の術を使えるから。
 神さまは分祀されても、霊験が落ちることはありません。だから、人気のある神さまはどんどん数が増えるのです。”

鎌倉 常に粛然と静まっている「成就院」

“ 本尊「不動明王」の御分身

 男女の関係に限らず、仕事や人間関係の「縁結び」にご利益があるという「パワースポット」。
 不動明王は19の特徴を備えているとされているが、その顔は他の仏像の顔とかなり違っていて印象的である。
 不動明王の顔は左右が対称をなしていない。その目は、右目は全開しているのに、左目は細く閉じており(ただし両眼を全開したものもある)、右目では天を見、左目では地を見ているとされている。そこで不動明王の眼は天地眼と呼ばれている。”

福山 鞆 石山合戦に参加した「明圓寺」

“ 承久年間、沼隈郡山田村に建立された小坊が元とされています。当初は天台宗を奉じていましたが、1238(歴仁元)年、山南村光照寺の明光上人の導きで真宗に改宗しました。
 鞆の浦への移転は文明年間、山田村の領主に日蓮宗への改宗を迫られ、これを拒否した直後のことです。戦国時代末期にあった織田信長と本願寺の戦い(石山合戦)では、住職の長存が備後門徒を集め、「進者往生極楽、退者無間地獄」の旗を掲げて奮戦し、その後は東本願寺設立にも尽力しました。「松江山明圓寺」の寺号はこれらの功績により、教如上人から授けられたものです。
 石山合戦は、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦いです。浄土真宗本願寺派は、武装もするし、非常に自主性の高く、横並びの感性が非常に高い集団だったそうです。”

鎌倉 四季花が絶えない美しい庭もある「光則寺」

“ 1274年の創建。開基は北条氏の家臣・宿谷光則(やどやみつのり)、開山日朗上人。
 開基の宿谷光則は、日蓮が佐渡に流罪になったとき、ともに捕らえられた日蓮の高弟日朗を幽閉し監視する任についたが、日朗は自らの不運を嘆くことなく、弟子の案ずる姿に心打たれた光則は、後に日蓮宗に帰依し、屋敷を寺にしたといわれる。
 1650年建立の本堂の中には非公開ではあるが、日蓮、日朗の坐像が安置され、境内の後山には日朗が幽閉されたという土牢跡が残っている
 山野草などがよく手入れされており、境内というより庭園といった感じです。
 このお寺さんに何故か二羽の孔雀(飼育)がいました。”

尾道 駅前に海に続く公園「尾道駅前」

 駅前にこんなに広い空間を公園にするという発想が、どこから生まれて来るのでしょうか。古くから尾道に住んでいる人にとっては違和感がないのでしょう。
 しかし、他の都市はバスやタクシー乗り場以外は商業スペースになっています。
 古くからの商業都市の尾道、駅前にしては広大とも言っていい公園スペースを許す文化があるのですね。

厚木 明治の先進民家「古民家 岸邸」

“ 厚木市古民家岸邸として開館されています。
 古民家岸邸は、郷土に残された貴重な文化遺産として、皆さんに公開しながら長く保存をしていきます、と。
 古民家は、当時の生活を色濃く伝えるものです。生活のスタイルが大きく変化してきた現代では、ますます注目されてきています。
 随所で見られる、職人が手をかけて作った凝った意匠も一遍ではなく、建築当時の時代の先端的な様式を併せ持ち、家を作った職人の技と、家を守ってきた人々の営みを感じてみてはいかかでしょうか。
 明治時代になってこのあたりで養蚕業を始められた岸家。絹の輸出で立派な建物を建てることが出来ました。このあたりは桑の木がたくさんあったそうです。
 今ではまったくありませんが。 ”

鎌倉 太田道灌の屋敷跡と伝わる「英勝寺」

“ 英勝寺は、鎌倉にある唯一の尼寺。1636年(寛永13年)に建立された。
 開基は、英勝院尼で扇谷上杉氏に仕えた太田道灌の曾孫、太田資宗の娘。徳川家康に仕え、家康の命により水戸家初代の徳川頼房の養母となった。家康が没すると、出家して名を英勝院とあらためた。そして、先祖の供養とみずからの後生のため、寺を開くことを幕府に申し入れ、1636年11月に仏殿が完成した。その後、代々、水戸家の娘が住持となった。
 お勝の方(英勝院尼)の逸話。あるとき江戸城内で家康公が大勢の家臣たちとの雑談の折、「およそ食物のうち、一番うまいものは何じゃ?」とご下問があった。めいめい一番うまいものを言ったが、お勝の方は「塩でございます。およそ食物の味をひきたて、旨くするも、まずくするも、塩加減ひとつでございます」と答えた。料理で苦労した人でもあったのでしょう。”

尾道 裏山の岩に彫られた十六羅漢「済法寺裏山」

 済法寺の裏山斜面の自然岩に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。

 ただし注意が必要です。見学用の道がないので山で遊んだ経験のある人はともかく、山遊びの経験がない人は、双眼鏡など準備して下から見てください。特に枯れ葉が落ちている(残っている)シーズンは、滑りやすいので注意してください。

鎌倉 江戸の増上寺に次ぐ学問所「光明寺」

“ 浄土宗の寺で、建長寺(けんちょうじ)・円覚寺(えんがくじ)などとならぶ鎌倉の大きな寺の一つです。
 一時衰えたようですが、江戸時代に徳川家康(とくがわいえやす)が、浄土宗の学問所として関東の主な寺院十八寺を十八檀林(じゅうはちだんりん)という有名な学問所と定めたとき、光明寺は江戸の芝にある増上寺(ぞうじょうじ)に次ぐ学問所として選ばれ、大いに栄えました。また、光明寺は、家康などの将軍から寺領の寄進を受けただけでなく、大名の内藤家(ないとうけ)からも寄進を受け、内藤家の菩提寺(ぼだいじ)となってからは大名寺(だいみょうじ)としても栄えました。
 広々とした境内の正面には、大殿(本堂)が建っています。1698年(元禄十一年)の建立。現存する木造の古建築では鎌倉一の大堂で、本尊阿弥陀三尊ほか諸仏が祀られています。”

厚木 曹洞宗天巽派の修行道場「清源院」

“ 厚木市三田に曹洞宗の巨利、東福山清源院があります。三田地域のほぽ中央、西方丘陵、緑したたる森の中に所在し、禅宗としての巨刹です。この地は、昔北条氏の家臣、越智弾正忠の館跡とも伝えられ、清源院の本尊薬師如来像は、天正年間、越智出雲守の寄進によると伝えられます。
 中世末期、天台宗を曹洞宗の名僧、慶順和尚の同時再興によって改宗されたもので、近世においては曹洞宗のこの地方における中心として権威をもっていました。
 同寺の縁起によると平安時代、伊豆天城山麓の伊東家の香華院(こうげいん=菩提寺のこと)として建立されたと伝えられ、江戸時代に入って旗本、伊東氏の菩提寺となりました。”

尾道 1935年より建立した瀬戸田「耕三寺」

“ 大阪の元実業家耕三寺耕三が、昭和10年より建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。
 お母さんが旅行に行けないためか、堂塔伽藍は奈良・平安時代の浄土教の寺院を参考に建立されています。
 仏教を日本に広めるために奈良時代や平安時代当時のお寺を彷彿させる賑やかさがあります。
 そして、有名な堂塔の建築様式の建築された当時の姿をを一挙に見ることができます。”

海老名 高野山真言宗の寺院「総持院」

「新編相模国風土記稿」では、山号は海老山万蔵寺とされています。
 本尊は、木造虚空蔵菩薩坐像で脇侍として不動明王像と毘沙門天像が安置されています。本尊は、作風から室町時代末期から桃山時代頃に造立され、元禄14年(1701)に江戸の仏師・石見によって修理された記録が残っています。不動明王像と毘沙門天像は、元禄14年(1701)に仏師・石見によって造立されたことがわかっています。
 また、大山寺(伊勢原市大山)の鉄造不動明王を模して江戸時代に鋳造されたと考えられる銅製不動明王坐像があります。この不動明王坐像と同鋳造と推i定されるものが西善院(寒川町宮山)ほかにもあることから大山信仰によって流布されたものと考えられています。

福山 鞆 箏曲家宮城道雄の先祖墓がある「南禅坊」

“ 天正年間(1573~1591年)に創建したと伝えられる。
  元々、福禅寺下にあったが、江戸中期(正徳年間・1711~1715年頃)に現在地に移転する。 寺院調査の中で、「梵鐘一件記録」が発見され、鐘の供出を巡る経過を詳しく記した史料として貴重である。かって、その鐘があった鐘楼門(山門)は現存する。
  なお、境内には、宮城道雄(「春の海」(箏と尺八)の作曲家・箏曲家)の先祖墓がある。 江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。

 朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開された。
 江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいた。”

鎌倉 この谷戸あたりが腰越の中心部だった「東漸寺」

“ 山門をくぐると正面に本堂があります。この寺は、龍口寺を守るために千葉県中山の法華経寺から差し向けられたといわれる日東(にっとう)が1352年(正平7年)に開いたと伝えられます。
 本堂には、日蓮上人(にちれんしょうにん)像と釈迦如来(しゃかにょらい)像がまつられています。「腰越駅」近くの諏訪神社は、もとはこの寺の境内にあったそうです。寺の裏山には、エフェドリンという咳止めの薬を作り、日本薬学の基礎を築いた長井長義(ながいながよし)博士夫妻の墓がありましたが、現在は墓は移され、墓地に記念碑が立っています。
 この寺の近くには妙典寺(みょうてんじ)、勧行寺(かんぎょうじ)、本成寺(ほんじょうじ)、本龍寺(ほんりゅうじ)があり、輪番八ヵ寺のうち五寺が集まっています。昔は、この谷戸あたりが腰越の中心部だったそうです。”

尾道 尾道で最初にできた神社「艮(うしとら)神社」

 艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。
 同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。
 艮神社は大宝山(千光寺山)を背にして建てられています。参拝者はちょうど大宝山を拝する格好になります。艮神社と千光寺は何か関連があるのでしょう。

厚木 親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡弘徳寺」

“ 弘徳寺の寺伝ではかつてこの地には聖徳太子の発願によって秦河勝が地蔵菩薩を安置するために建てた地蔵堂があり、そこに親鸞聖人が御巡錫になり、その宿縁を大変喜ばれて、ここに草庵を結ばれて浄土真宗の教えをひろめられ、     後に信楽坊に草庵を託されたと伝えています。
 寺の縁起によれば、親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡で、親鸞の嫡男・善鸞がここに草庵を結び心光院と号したのが始まりと伝わる。
 開山・開基は、親鸞の直弟子の信楽ぎょう房。信楽房は平将門の子孫で、俗名を相馬太郎義清といった。
 建暦・元仁期に親鸞が常陸国稲田に布教の折りに門弟となり、その後当山を任せられた。
 墓地に善鸞の墓と伝わる小高い土塚がある。
 明治初期の廃仏毀釈で寺院の荒廃を憂い、当山世話人島崎利助という人が明治10年に自費を投じて墓石を建立した。また、供養塔と思われる「信楽塔」も建立されている。
 『新編相模風土記稿』によれば、かってこの地には地蔵堂があり、親鸞が錫をとどめた旧跡と云われる。”

鎌倉 日蓮が斬首を免れた霊場跡「龍口寺」

 龍口寺の始まりは、日蓮の弟子の日法(にっぽう)が日蓮が亡くなった後、日蓮宗にとって記念すべきこの地を後世に残すために自分で日蓮の像を刻(きざ)み、1337年(延元2年)に草庵(そうあん)を建てて安置したことだといわれますが、やはり日蓮の弟子である六老僧(ろくろうそう)が建てたともいわれます。1883年(明治16年)ごろに住職を置くようになるまで、龍口寺には住職を置かず、輪番八ヵ寺といって、近くの八つの寺が順番に龍口寺を守っていました。室町時代のころは龍口院と呼ばれていたようで、龍口寺の名が出てくるのは戦国時代になってからです。

鎌倉 孟宗竹林の竹の庭「報国寺」

 1334年(建武元年)、足利尊氏(あしかがたかうじ)の祖父蒙蒔が開いたといわれていますが、宅問(たくま)上杉氏の祖とされる重兼(しげかね)が建てたという説もあります。開山は、仏乗禅師(ぶつじょうぜんし)ともいう天岸慧広(てんがんえこう)です。中国に渡り修行を積んだ高僧で、五山文学の代表の一人に数えられています。
 報国寺は、足利氏と上杉氏の菩提寺(ぼだいじ)として栄え、5kmほど先の衣張(きぬばり)山まで境内に含むような大きなお寺でした。足利持氏(もちうじ)の子義久(よしひさ)が永享(えいきょう)の乱で自殺したのはこの寺です。
 
【伝説】
 室町時代この谷にも宅間猫という年老いた大猫が住みつき、里へ出ては子どもを取って食べるので、当時住職だった暘谷乾幢和尚(ようこくかんどうおしょう)が山に向かって一喝したら、熊のような猫が崖の下で死んでいたという話が残っています。