愛川 八菅の七社権現とも呼ばれた「八菅神社」

 八菅山の中腹にあり、別名八菅の七社権現とも呼ばれ、日本武尊、国常立尊、伊邪那岐命、金山毘古命、誉田別命、大己貴命、伊邪那美命の七神が祭神として祭られている。
 明治維新までは神仏混淆の信仰に支えられてきた聖地で、大山阿夫利神社、日向薬師とともに関東での山岳修験の道場であり、修験道三派のうち聖護院流である。
 かって山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があって相模の国峰として盛えていた。
 八菅山縁起によると日本武尊が東征のおりにこの山を望み見て、山容が蛇の横わたるに似ているところから「蛇形山」と名付けたという。
 また、703年、修験道の開祖役の小角(えんのおずぬ)が入峰し修法を行ったとき、忽然として「池中に八本の菅が生えたことから八菅山の名が起こり、709年には僧行基が入山、ご神体及び本地仏を彫刻し伽藍を建立して勅願所としたという。
 しかし、明治の神仏分離令により光勝寺は廃され七社権現は八菅神社と改称、今日にいたっている。

鎌倉 この谷戸あたりが腰越の中心部だった「東漸寺」

 東漸寺(とうぜんじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。旧本山は大本山法華経寺。小西法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
 1325年(正中2年)、後に龍口寺となる地の護持のため法華経寺から派遣された日東を開山に建立された。その後44世住職日英が、本堂、庫裡を再建復興し、現在の伽藍が整備された。
 この寺の近くには妙典寺(みょうてんじ)、勧行寺(かんぎょうじ)、本成寺(ほんじょうじ)、本龍寺(ほんりゅうじ)があり、輪番八ヵ寺のうち五寺が集まっています。昔は、この谷戸あたりが腰越の中心部だったそうです。

尾道 信行寺から 天寧寺へ「幸神社跡」

【伝説 幸の前の尻つめり】

 天寧寺下に「塞之神社」がありました。「幸之神社」ともいわれ、この神社前一帯を幸の前と呼んでいました。
 むかしこのあたりは海岸で、尾道港の中心地だったところです。千石船の出入りも多く、いつもたくさんの人出でにぎわって繁盛していました。
 塞之神社は建武年間に建てられました。文明年間(建立より百五十年後)になると、お宮はあちこちこわれ、雨もりがするようになったそうです。
 ある夜のこと、氏子の孫右衛門が寝ていると
「孫右衛門よ、孫右衛門よ」
と呼ぶ声がして白髪の老人が現れ、
「私は幸の前の塞之神である。いたんだ社の修理をたのむ。修理して祭りをしてくれれば、幸の前の氏子たちに末長く福をさずけるであろう」
と告げました。・・・・・・

鎌倉 昔、ここに律宗の多宝寺があった「妙傳寺」

 道路拡張によって東京都文京区白山にあったお寺を1974年2月に移転
 紀州徳川頼房の祈願所として創建、戦災によって本尊、寺宝、寺史などを消失している。
 ここにはかって室町時代まで、律宗の多宝寺があった。裏山には石の造形物があるが、道が整備されていないようです。
 旧本尊は妙見北辰菩薩、現在は日蓮坐像。妙見北辰菩薩は 1945年(昭和20年)の戦災で焼失してしまったとのことです。妙見北辰菩薩は、源頼朝や日蓮が崇拝し、日蓮宗の寺院によくみられます。

福山 万葉集にも歌われた「昔の鞆の港」

 鞆の浦は、『万葉集』の大友旅人(おおとものたびと)の歌にも詠まれた、全国でも最古の長い歴史を持つ港町で、鎌倉・室町にも江戸時代にも大いに栄えた大都市でした。
 靹の浦の「鞆」とは、弓を引ぐときに手首に巻いた丸い革製の防具のことで、半円形に巻き込んだ海岸の地形が、鞆に似ていることから名づけられたといわれまます。良い港の条件は、水深がある程度大きく、荒天時の波風を避けられる湾や島陰などがあること、そして川がないことで、川が海に流れ込むと、その土砂が堆積して港が埋まってしまうので、川がない方がよいのです。山が迫る海辺が好適地となります。鞆の浦はそうした良港の条件をすべて備えているのです。

厚木 幽静な寺院としての景観を伝える「龍鳳寺」

 祥雲山龍鳳寺は曹洞宗江戸(東京都)駒込の吉祥寺の末寺です。
 大州安充禅師(本寺二世)により享禄三年(1530)開創じされました。開基となったのは地頭庄(荘)左近太夫で、境内に墓があります。

 庄左近太夫は命により、何人といえども境内や山林に入り竹木伐採などをなす者は、軽重にかかわらず罪科に処すべきとの誓令を発し、境内山林の風致を維持し、今日まで幽静な寺院としての景観を伝えています。

鎌倉 平政子(北条政子)の墓がある「寿福寺」

 1200年 源頼朝夫人政子が、明庵栄西禅師(緑茶を伝えた人物—茶そのものは奈良時代に伝わっていた。)を開山として建てたもので、鎌倉五山の第三位の寺。
 源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。
 臨済宗建長寺派に属し、正式には亀谷山寿福金剛禅寺と称するこの寺院が建つ扇(おうぎ)ガ谷(やつ)ー带は、源頼朝の父である源義朝の屋敷跡だと伝えられており、はじめて鎌倉入りした頼朝が幕府の中心を置こうとしたのも、この地であった。
 しかし、この場所が屋敷を建てる用地としては狭すぎることや、すでに亡き父の御堂があったことなどから、頼朝はそのことを断念したと伝えられています。

尾道 艮神社から天寧寺塔「猫の細道」

 尾道には「猫の細道」と名づけられた小道があります。
 生きている猫の他に、猫を書いた石が所々にあります。作家の園山春二先生によって生み出されものです。
 福石猫の作り方は、日本海の荒波に長い年月もまれ、丸くなった石を拾ってきて、約半年間塩抜きをし、その後、特殊な絵の具で三度塗り重ね、作り上げていくそうで、福石猫が完成されるまでには、約1年もかるそうです。
  ひとつひとつ丹念に作られていき、最後に艮神社でお祓いをうけ、晴れて福石猫となって、尾道に住んでいるのです。
 縁起物の中の横綱といえば、それは招き猫。招き猫の置きものは江戸時代、江戸で誕生したようですが、どのようにして生まれたのかははっきりしていません。
 天明年間(1781~89年)、江戸両国の二つの妓楼(ぎろう)(本所回向院(ほんじょえこういん)前、一つ目弁天前)で、大きな招き猫を店頭に飾りました。それが評判になり、妓楼は大いに繁盛したといいます。一説に、これが招き猫の起こりとされているのです。

鎌倉 円覚寺の塔頭の中でも最も古い「白雲庵」

 正和年間(1312~16)に退居寮として開創。
 禅師は曹洞宗を修めた中国元の高僧で、1309年、時の執権北条貞時の招きで来日し、1310年円覚寺第10世となり、暦応3年当寺にて遷化するまで、建長寺(18世)、寿福寺などの住職を務めた。
 江戸時代前期には40の塔頭があった。 現在は18寺の塔頭があり、そのうち住職のおられるところは13寺。 白雲庵はその中で最も古い塔頭である。

福山 戦国時代、安国寺恵瓊が再興した「安国寺」

 この安国寺の歴史が再発見されたのは1949(昭和24)年。解体修理が行われた安国寺の阿弥陀三尊像の中から古文書が見つかった時である。
 安国寺は本来、金宝寺。室町時代に寺社名、歴史が書き換えられたと分かった。
 阿弥陀三尊像、法燈国師坐像やこれらを収める釈迦堂など、安国寺は国、県指定文化財を蔵するが、すべて金宝寺時代のものだと判明した。
(「知っとく? ふくやま」 監修 松本卓臣/平井隆夫より)

 安国寺の住持を務めていた安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)という人物。

 恵瓊は戦国時代から安土桃山時代にかけての人物で、京都の東福寺と更には安芸と鞆の両安国寺の住持を兼務する臨済宗の僧でありながら、毛利氏三代(毛利元就・隆元・輝元)に仕えた武将としても名を馳せました。

 更には豊臣秀吉にも重用され大変な実力者となりましたが、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍の拡大に暗躍(ひそかに策動)したが敗北。後に捕まり死罪となってしまいました。

 それにより安国寺は衰退。東福寺の力が薄れた安国寺が江戸初期に京都妙心寺の末寺となったことから、安国寺と関わりが深かった当寺もそれと同じ道をたどり、東福寺派から妙心寺派へと改まったものと考えられます。

鎌倉 七堂伽藍の大寺だった「海蔵寺」

 海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺です。この寺は、1253年に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが1333年5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。
 本堂は龍護殿(りゅうごでん)とも呼ばれ、関東大震災で倒壊した後、1925年(大正14年)に再建されました。
 本堂には、中央に開山である心昭空外坐像その前にタイから伝わったといわれる銅造釈迦如来(しゃかにょらい)像、右の方に厨子(ずし)に入った十一面観音菩薩(かんのんぼさつ)立像(りゅうぞう)などがまつられ、堂内の襖(ふすま)には竜や牡丹(ぼたん)とか唐獅子(からじし)などが描かれています。

尾道 古寺巡りコース「持光寺 → 光明寺へ」

 「古寺巡礼コース」になっています。少し遠回りになりますが、も少し上を回って行くこともできます。
 尾道の山裾巡りは、坂や石段が多いのですが、景色の変化と住まいの変化(生活感)が感じられ、楽しむことが出来ます。
 また、石垣が多いので、どんな石積をしているのか、注意してみることもできます(そんな人はあまりいないですけど)。

厚木 古くは「赤城明神社」といいった「依知神社」

 上依知の相模川にかかる昭和橋のたもとにある依知神社の境内に、県の名木100選に選ばれている大きな2本のイチョウがあります。
 樹齢ほぼ500年という古木にもかかわらず、樹勢が盛んで、太い方は目通り3m、細い方が1.8m、高さ25.1mほどもあり、木の幹には乳状下垂が見られます。
 神社の由緒によると、鎌倉幕府の2代征夷大将軍に任ぜられた源頼家が、神社の建物を再建し、その記念として境内に植えたものであると伝えられています。
 現在は、国道129号線によって社殿とイチョウが左右に分断されていますが、元は一体の神社の境内にありました。

福山 鞆 神功皇后が海路安全を祈る「沼名前神社」

 現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものである。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしている。現在の祭神二柱(大綿津見命・須佐之男命)は、それまでの各社の祭神である。
 今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。

鎌倉 疫病蔓延で退治した蜘蛛を祀る「八雲神社」

 1080年頃に大発生した黒蜘蛛が疫病を蔓延させたが、当時「蜘蛛は益虫」とされていたため駆除ができなかった。
 そこに中央より新羅三郎義光(八幡太郎吉家の弟)が、「朝見た蜘蛛は逃がせ、夜見た蜘蛛は殺せ」というスローガンをかかげ、多くの蜘蛛を焼き殺し駆除に成功した。その後、蜘蛛のたたりを恐れ神社が建てられた。当初「焼蜘蛛神社」では気持ちが悪いため、間もなく「祇園天王社」と改められ、その後、「八雲神社」になった。
 もとは焼蜘蛛(やくも)神社だったとか。

尾道 裏山に岩に刻まれた仏像群が「済法寺」

 旧市街から見ると、ちょっと離れた西側にあります。
 境内に入っただけでは気がつかないのですが、裏山にある“岩に刻まれた仏像群(磨崖仏)”は見もの、特別な世界観を作り出しています。
 墓地がある斜面には、数多くの仏像か岩に刻み込まれています。ただし、お墓があるところより上は道がありません。双眼鏡などで見ることをおすすめします。(このあたりは花崗岩が風化した大きめの砂粒が斜面にあり、枯れ葉も多く、かなり滑りやすいのです。このような道のない斜面を歩きなれた人以外は、登らない方がよいでしょう。)

鎌倉 縁結び観音も祀る「佐助稲荷神社」

 祭神は、宇迦御魂神(うがのみたま)のほかに、大己貴神(大国主命の別称)、佐田彦命、大宮主命、事代主命の四神。
 お稲荷さんのご祭神は須佐之男神と神大市姫(かむおおいちひめ)の子供の女神・宇迦之御霊神(うがのみたまのかみ)で、食糧を司り、とくに稲の豊穣を護るのである。だから、古来より米を生産する農家だけでなく、米を主食とする日本人の尊崇を集めてきた。

厚木 秀吉の小田原攻めの際、兵火に「法界寺」

 北条氏直が荻野郷の地頭松田康長に命じて造営。秀吉の小田原攻めの際、兵火にかかり以前のような繁栄は失われたことが相模国風土記稿に記されている。
(北条 氏直(うじなお)は、相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、豊臣秀吉による小田原攻めで、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。)
 その後、近世初期、僧党誉の中興もあり壮大な寺容を誇り、六斎市(門前市)も栄えた。本堂の裏には、厚木を中心に多くの梵鐘や仏像を製作した鋳物師、木村一族のお墓がある。

尾道 干満潮の差は3mを越る「昔の船着き場」

 昔の船着場です。

 このあたりは大潮だと3mを越える干満のさがあります。人力で荷揚げするため、船と岸の段差を少なくするために階段状になっています。
 このような船着場があると、津波で動力が失われクレーンなどの荷揚げ装置が動かなくなったときでも、人力で荷揚げができますね。
 秋の大潮近くに台風が来ると、このあたりの道路は、下水道を逆流した海水で覆われるそうです。

鎌倉 神仏分離で名を改めた「小動神社」

 小動神社は、明治以前は八王子宮と呼ばれていて、明治の神仏分離政策によって、「建御名方命」を奉ることになり、以来、地元の氏神として町民たちに親しまれている。境内の奥には展望台と、かたわらには海防のため、幕末に砲台が構えられた跡があり、腰越砲台として知られる。
 小動神社の例祭は、かつて江ノ島から小動神社まで神輿をかついだまま海の中を渡るというものであったとか。