龍ロ法難の際、幕府に捕らえられた日蓮大聖人様がへの一晩幽閉されたと、伝えられる洞窟。
日蓮は房州の出身で、積極性と理想主義を体現した人。
南部の安房の人は、南国的で人情味に富み、積極的であり、情熱的で働き者が多いとのこと。
日蓮は政治の中心地鎌倉にきて熱心にを法華経を広めました。
そのころ、地震や火事、病気などの災害が続いたので、日蓮は、『立正安国論』を書き、「このように災害が続くのは思想が誤っている。人々が正しい信仰をもてば国が安らかになる。」と説きました。
カテゴリーアーカイブ: 鎌倉
鎌倉 弁財天を円覚寺の鎮守とした「鐘楼弁天堂」
鎌倉 明治維新で実現した王政復古「葛原岡神社」
鎌倉 汚れを洗い落とし、銭を清める「銭洗弁天」
鎌倉 もとは泰澄山瑠璃光寺ともいった「寶善院」
宝善院(真言宗大覚寺派)は、加持山霊山寺・泰澄山瑠璃光寺という2つの山号寺号をもち、院号が宝善院。
開山の泰澄は、「越の大徳」(越前(福井)・越中(富山)・越後(新潟)で並ぶ者のいないほどの徳の高い僧)と呼ばれていた。加賀の白山を開いた人物。
江戸時代には、この寺の僧が龍口明神社の別当に任じられたこともある。
村人の信仰を集め栄えたが、明治の神仏分離によって、静かな寺となった。
“越の大徳” 泰澄大師の十一面観音伝説がいきるお寺さん腰越にある真言宗のお寺さんです。腰越の海近くの山裾にあり、とても静かで清々しい空気があります。白山信仰の神の山、白山を開き“越の大徳”といわれた泰澄大師が開いた寺院としても存在感があります。
鎌倉 一向宗開祖が創建した「向福寺」
鎌倉 一遍上人が関所の武士に拒絶され野宿「光照寺」
鎌倉 文殊菩薩伝説がある「勧行寺」
鎌倉 江戸時代は所領150貫ほどだった「円覚寺」
1333年(元弘3年)に北条氏が滅亡した後も、北条氏に招かれ円覚寺の住職にもなっていた夢想礎石が、後醍醐天皇や足利氏の信任も厚かったため、寺の勢いは保たれましたが、室町時代には、1374年(応安7年)をはじめとして火災がしばしばあり、しだいに衰えていきました。
1590年(天正18年)、関東に入った徳川家康は、翌年円覚寺の所領を認めましたが、150貫ほどでした。江戸時代はあまり変わりはありませんでした。
幕末・維新の混乱で寺領も失い僧侶が坐禅などの修行をする道場である僧堂も閉じられましたが、1875年(明治8年)、今北洪川(いまきたこうせん)により再興され、関東屈指の禅道場として再生しました。
鎌倉 日本三天神の一つ「荏柄天神社」
日本三天神の一つ。太宰府天満宮(福岡)と北野天満宮(京都)
1104年の創建。荏柄天神社は鶴岡八幡宮が再造営されるさい、旧社殿の用材をもらい受けて建造されることが通例。現在の本殿も関東大震災で被災した鶴岡八幡宮の若宮を移築されたもの。
菅原道真は、日本の学者の元祖の中の一人で、一流の政治家として活躍し右大臣にまでなった。33才の時には文部省次官クラスの地位と文章博士の位を得た。
しかし、57才の時、突如として右大臣の職を引き下ろされ、九州の太宰府へ追いやられた。その2年後に死んだのですが、死後のもてはやされぶりは異常です。すぐに元の官位に復し、90年後には正一位・左大臣、その半年もたたない内に太政大臣が送られました。
鎌倉 門前に[源頼朝公祈願所]の石碑「補陀洛寺」
鎌倉 光明寺草創以前よりこの地に「蓮乗院」
この寺院の創立年代や開山については、はっきりわかりませんが、光明寺より早い時期からこの地にあった寺で、蓮乗寺(れんじょうじ)といってはじめ真言宗(しんごんしゅう)だったということです。その後、光明寺が佐助ヶ谷(さすけがやつ)から移されてきてから、光明寺の子院となり、浄主宗(じょうどしゅう)の蓮乗院と改めたといわれてします。
1243年(寛元元年)に光明寺が良忠によって創建されたといわれますが、寺院の落成まで良忠は蓮乗院に居住して、建築を監督(かんとく)したということです。こうしたことから、光明寺の新しい住職となると、まず蓮乗院に入ってから改めて光明寺の本山方丈(ほうじょう)に入る慣わしになりました。
鎌倉 塩嘗(しおなめ)地蔵を収める「光触寺」
鎌倉 望みが絶たれた徳川忠長を供養「薬王寺」
鎌倉 ここにも稲荷を祀られている「本成寺」
鎌倉 鎌倉幕府ができる前からあった「御霊神社」
鎌倉 奥の岩屋に不動明王が「岩窟不動尊」
鎌倉 八幡太郎義家が出陣時に白旗を立てた「源氏山公園」
源氏山は、奥羽を舞台とする後三年の役(1083~1087年)で八幡太郎義家が出陣するときに、この山上に源氏の白旗を立てて戦勝を祈ったところから「源氏山」とか「旗立山」といわれるようになったといいます。
白旗山または旗立山とよばれたこともあるようです。緑豊かな自然に囲まれ、公園のすぐわきには、鎌倉の七切通しの一つであり、国の史跡でもある化粧坂が、園内には頼朝像・広場などがあります。
「八幡太郎義家」
九世紀なかばには、のちに東国平定などに武勲を示す源義家が石清水八幡宮で元服の儀式を行ない「八幡太郎」と称しました。
八幡神は、早い時代から反乱の鎮圧や仏教の保護などに霊験を示して各地への広まりをみせます。