鎌倉滅亡の際の兵火で全焼、再建した「海蔵寺」

 もとは真言宗(しんごんしゅう)の寺でしたが、1253年(建長5年)鎌倉幕府6代将軍宗尊親主(むねたかしんのう)の命により、藤原仲能(ふじわらなかよし)が七堂伽藍を有する海蔵寺を創建したとあります。しかし、1333年(元弘3年)の鎌倉幕府滅亡の時に焼失してしまいました。
 その後1394年(応永元年)鎌倉公方(くぼう)足利氏満(あしかがうじみつ)の命により、上杉氏定(うえすぎうじさだ)が源翁禅師(げんのうぜんじ)(心昭空外(しんしょうくうがい))を開山に招いて再建しました。それからは扇ヶ谷上杉氏の保護を受けて栄え、1577年(天正5年)に建長寺(けんちょうじ)に属し、現在に至っています。
 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

鎌倉 源頼朝の娘、大姫、哀しい話が「岩舟地蔵」

 頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、木曽で兵を挙げた後、長男の義高(よしたか)を人質として鎌倉によこしました。
 頼朝は、義高をまだ幼い大姫の許婚者にしました。その後義仲を近江の粟津(あわづ)で討った頼朝は、義高も殺してしまおうと時をうかがっていました。政子は夫の考えを知ると、義高と仲の良い大姫の気持ちを思い、ある日、義高に女性の衣装を着せてまだ夜の明けきらぬうちにそっと馬で逃がしました。義高の家来が、一日中「双六(すごろく)」という二人でする遊びを一人でして、義高がいるように見せかけました。ところが頼朝はそれに気づき、義高を探し出して討ちとるように命令しました。数日後、義高は武蔵の入間川の河原でつかまり、首を切られました。この時の2人の年齢は、義高は12歳、大姫は6歳ぐらいだったといわれています。こののち大姫は、義高を慕って病気になり、若くして世を去りました。
 頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、木曽で兵を挙げた後、長男の義高(よしたか)を人質として鎌倉によこしました。
 頼朝は、義高をまだ幼い大姫の許婚者にしました。その後義仲を近江の粟津(あわづ)で討った頼朝は、義高も殺してしまおうと時をうかがっていました。政子は夫の考えを知ると、義高と仲の良い大姫の気持ちを思い、ある日、義高に女性の衣装を着せてまだ夜の明けきらぬうちにそっと馬で逃がしました。義高の家来が、一日中「双六(すごろく)」という二人でする遊びを一人でして、義高がいるように見せかけました。ところが頼朝はそれに気づき、義高を探し出して討ちとるように命令しました。数日後、義高は武蔵の入間川の河原でつかまり、首を切られました。この時の2人の年齢は、義高は12歳、大姫は6歳ぐらいだったといわれています。こののち大姫は、義高を慕って病気になり、若くして世を去りました。

鎌倉 創立当時お堂は松葉ケ谷に「啓運寺」

 開山は啓運日澄(けいうんにっちょう)です。日澄は、大町名越(おおまちなごえ)の同じ日蓮宗の妙法寺(みょうほうじ)の住職をしていましたが、1483年(文明15年) にこの啓運寺を創立したということです。創立当時お堂は、松葉ケ谷(まつばがやつ)に建てられましたが、その後現在の場所に移転してきたといわれています。
 日澄は、博学で多くの知識をもち、徳の高い名僧といわれた人で、法華経(ほっけきょう)を研究して55巻からなる『啓運抄(けいうんしょう)』という書物を1503年(文亀3年)出版しています。そのほかにも多くの本を書き残した学僧でした。

鎌倉 100数基の小さな五輪塔が「来迎寺」

 1194年、源頼朝が鎌倉幕府の礎石となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまり。
 当時、能蔵寺の名前は、この付近の地名として使われていた。頼朝が亡くなった後、音阿上人が時宗に改宗し、来迎寺に改名した。

 本堂裏手の広場には、「三浦大介公の家来の墓」と表示された100数基の小さな五輪塔などが並んでいます。また、来迎寺会館の中には三浦義明の木像が安置されています。
 三浦大介は、源頼朝の挙兵の際に尽力し、石橋山の合戦に敗れた頼朝のもとに一族をむかわせ、みずからは衣笠城にとどまり平家方を迎え撃ち、畠山重忠の軍勢と戦い89才で戦死した三浦の豪族。

鎌倉 源頼朝と源実朝を祀る「白旗神社(八幡神社内)」

 鶴岡八幡宮境内末社。祭神源頼朝・源実朝。例祭五月二十八日。他に八月九日一目実朝祭、十月二十八日文墨祭を行う。
 「天正修営目論見図」には本宮の西側に白旗社があり、明治十九年柳営社(源実朝)と合せて現在地に鎮祭した。
 白旗社については社伝によると正治二年(1200)白旗大明神の勅号を賜って、平政子(北条政子、北条政子という名は近世以降になってそう呼ぶようになったようです。1218年以降1225年までは、朝廷や寺社には吾妻鑑に記載されている「平政子」を名乗っていたと考えられる。)が創建、また源頼家の造立ともいう。

鎌倉 登り口に「星ノ井」のある「虚空蔵堂」

 「星ノ井」のある場所は、現在、坂ノ下と呼ばれているが、昔は「星月夜」という地名だった。水道が引かれるまでは、通行人にコップで水を飲ませ、銭を貰っていた。
 極楽寺切通を往き還る旅人たちは、伝えとこの水を愛でて、ひとときを井戸のほとりの茶店に憩いました。慶長五年(1600)六月、京都より江戸への帰りに、ここを通った家康もこの名井を見学して行ったという記録も残っています。
 あるとき、近くに住む下女が菜ワ切り包丁を、あやまって井戸へ落してしまい、それからというものは井戸はいやな顔をしてしまい、星を映さなくなったということです。

鎌倉 護良親王の遺子日叡が父の霊を弔うため「妙法寺」

 日蓮の御小庵が焼かれた後、ここには法華堂が建てられ、本圀寺(ほんこくじ)となりましたが、室町時代の初めに京都に移されました。その跡地に護良親王(もりよししんのう)の遺子(日叡(にちえい)が父の霊を弔うため、1357年(延文2年)に寺を再興したのが妙法寺の起こりといわれています。
 妙法寺の寺名は日叡がいたところの妙法房(みょうほうぼう)から、山号は日叡の幼名りょう巌丸(りょうげんまる)から付けられたといわれています。
 この妙法寺は南北朝から室町時代にかけては寺の勢いが盛んで、塔頭が5院あったということです。また江戸時代、11代将軍徳川家斉(いえなり)が参拝し、明治30年ごろまで、将軍御成(おなり)の門があったといいます。

鎌倉 前身は多福寺、その後、廃寺、そして再興「大宝寺」

 室町時代の1399年(応永6年)佐竹義盛(よしもり)が出家し、屋敷のそばに寺を建て多福寺と名付けたといいます。それがこの大宝寺の前身で、その後、廃寺になっていたものを、1444年(文安元年)、本覚寺(ほんかくじ)を開いた日出(にっしゅつ)が再興し、多福寺の名を山号に残し、大宝寺に改めたと伝えられています。
 本堂には、本尊の三宝本尊(さんぽうほんぞん)と四菩薩像(しぼさつぞう)、その前に日蓮上人像、左側に開山日出と新羅三郎義光の像、右側に出世大黒天(しゅっせだいこくてん)と鬼子母神像(きしぼじんぞう)などがまつられています。

鎌倉 一幡の母が井戸に身投げ「蛇苫止堂」

 若狭局を祀る社

 源頼朝が1199年に死ぬと、1202年、子の頼家が18歳の若さで将軍となった。しかし、経験と統率力に乏しかったため、御家人の信望を得られず、幕府の基礎を危うくするかに思われた。そこで頼家の母(頼朝の妻)北条政子は、将軍がすべてを決済する従来の方針を改め、有力御家人13人による合議体制を採用し、政子の父時政がその中心となって活動した。
 すると、それに不満な源頼家は、比企能員(ひきのよしかず)と共に北条征伐を計画する。 北条時政は、比企能員を自宅に招いて暗殺、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた。また、源頼家を伊豆の修善寺に幽閉した。
 蛇苦止明神は妙本寺(みょうほんじ)の守護神となっています。

鎌倉 北条時頼の夫人により創建か「延命寺」

 もと安養院末。開山は専蓮社昌誉能公。寺史は不明。鎌倉幕府の第五代執権で名執権とうたわれた北条時頼の夫人により創建されたと伝えられている。北条時頼の夫人の念持仏と伝える身代地蔵(裸地蔵)が有名で、江戸へ出開帳したこともある。
 本尊「阿弥陀如来像」は、圓應寺の閻魔大王を彫ったあまりの木で作られたことから「木あまりの像」、また、予定より早く完成したことから「日あまりの像」と呼ばれている。
 運慶作と伝えられる「木造地蔵菩薩立像」は、夫人の身代わりとなったことで夫人の守護仏とされている。裸形彫刻で普段は袈裟を纏っている。

鎌倉 龍口寺輪番八ヶ寺の一つ「東漸寺」

 東漸寺(とうぜんじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。旧本山は大本山法華経寺。小西法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
 1325年(正中2年)、後に龍口寺となる地の護持のため法華経寺から派遣された日東を開山に建立された。その後44世住職日英が、本堂、庫裡を再建復興し、現在の伽藍が整備された。

鎌倉 鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「化粧坂」

 この仮粧坂は鎌倉七切通の一つで、今も昔の面影を残し、国の史跡になっています。
 この坂の名の起こりについては、平家の大将の首をここで化粧して首実検したことからその名が付いたとか、また、この坂のあたりに町家があって化粧した女達がいたからとか、木がよく生(お)い繋(しげ)っていたので木生えとか、気勢(気生・形勢)と呼ばれたことからきているともいわれます。
 この険しい坂道は、藤沢から武蔵(むさし)方面に通ずる重要な道で、新田義貞(にったよしさだ)が1333年(元弘3年)5月、鎌倉攻めのとき、この仮粧坂に軍の主力を向けたので、激戦地になりました。

鎌倉 材木座町内の五つの神社を一緒に「五所神社」

 この神社は、1908年(明治41年)に町内にあった三島(みしま)・八雲(やくも)・諏訪(すわ)・金比羅(こんぴら)・見女八坂(みるまやさか)の五つの神社を一緒にしてまつったものです。祭神は大山祇神(おおやまづみのかみ)・素戔嗚尊(すさのうのみこと)・建御名方命(たけみながたのみこと)・崇徳院霊(すとくいんのみたま)・天照大神(あまてらすおおみかみ)で、毎年6月の第2日曜には盛大な祭りが行われています。境内の神輿庫には、神輿が安置されていて、「寛永十九年」(1642年)の棟札(むねふだ)がかかっています。例祭では、五所神社を出発した神輿は、昔から伝わる「天王謡(てんのううた)」を唄いながら材木座の町内を練り歩いた後、材木座海岸で海に入ります。

鎌倉 深山幽谷の山寺といった風情がある「浄智寺」

 北条時頼の子(三男)宗政の死後、その夫人が1281年に建立した。開基は、夫人や一族のはからいで亡父宗政とその子師時(第十代執権)となっています。
 開山については複雑で、日本僧の南海宏海が招かれたが、大任だとして辞退、師である宋僧の大休正念を購じ、入仏供養を行い、亡くなっていた宋僧で高名の兀庵普寧(ごつあんふねい)を開山としました。
 1356年の火災で創建時の伽藍は消失、1386年には既に復興していたため、足利義満が定めた鎌倉五山のうち四位に入りました。
 また、関東大震災で諸堂は潰滅し、現在は山門や仏殿が点在しているだけになった。そのためか、深山幽谷の山寺といった風情があります。

鎌倉 鎌倉では珍しい五重塔「龍口寺」

 龍口寺の五重の塔は明治四十三年(1910)竣工、棒造り銅板葺き、神奈川県で唯一の木造本式五重塔である。初層の上部には彫刻師、永田伊助の手になる日蓮大聖人御一代記が奉納されている。

 五重の塔は、この世と、また、私たち人間を形づくっている五つの要素である
「地」、「水」、「火」「風」、「空」の五大を意味する。

鎌倉 比企能本夫妻の像が「妙本寺祖師堂」

 妙本寺の祖師堂の建立は、その棟札から1838年と推定されている。
 桁行 (正面約18.7m) 五間、梁間 (奥行約19.7m) 六間、瓦葺き入母屋造り。

 日蓮、日朗、日輪が祀られている。

 現在の建物は、天保年間(1830~1843年)に、第四十七世日教によって再建されたと伝えられている。

鎌倉 源氏と鎌倉のつながりのできた「元鶴岡八幡宮」

 元八幡は、相模守(さがみのかみ)であった源頼義(みなもとのよりよし)が京都の石清水(いわしみず)八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(えき)(1051~1062年)で、奥州(今の東北)の豪族の阿部頼時(よりとき)・貞任(さだとう)に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡(ゆいごうつるがおか)のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
 後三年の役(えき)のとき、頼義の子の義家(よしいえ)が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。
 1180年(治承4年)、鎌倉を根拠地としで鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)が、現在の八幡宮がある元八幡と呼ばれていますが、正しい名は由比若宮です。

鎌倉 このあたり源義朝の屋敷のあった「寿福寺」

 源氏山を後ろにしたこの寺は、朱塗りの総門をくぐると、木立に囲まれた石だたみの参道がまっすぐに続き、山門のむこうに大きなビャクシンが枝を広げ禅寺(ぜんでら)の雰囲気をただよわせています。
 残念ながら、境内には入れません。 山門前から脇の小道を上がると墓地に出ます。そこには、源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。

鎌倉 若狭の局の霊をまつる「蛇苫止堂」

 蛇苦止明神(じゃくしみょうじん)
 比企ヶ谷(ひきがやつ)で能員(よしかず)が滅ぼされたとき、能員の娘で、若狭(わかさ)の局(つぼね)と呼ばれた一幡の母が家宝を抱いて井戸に身を投げ、蛇(へび)に化けて今も家宝を守っていると、言い伝えられています。
 その後、執権北条政村(まさむら)の娘が、もだえ苦しむ不思議な病気にかかりました。うわごとをロぱしり、蛇のようにのたうちまわるのです。そのうわごとから、若狭の局の亡霊が、北条一族にとりついて、うらみを晴らそうとたたりをしていることがわかりました。政村はえらい僧に祈祷をたのみ、若狭の局の霊をまつる祠(ほこら)を建てて供養したところ、娘の病気が治ったということす。その祠が蛇苦止堂だと伝えられています。

鎌倉 法華堂跡「大江広元の墓」

法華堂跡、大江広元の墓
 1247年6月5日、三浦対北条・安達の宝治の乱のおり、三浦泰村は館を攻められ、一族を率いて、この法華堂に立て篭もった。北条時頼の兵に攻められ、終に泰村、光村以下の三浦一族と此れに加担した島津、毛利を含めて500人が、この法華堂で自害した。
 大江広元、毛利秀光(大江広元の四男…長州藩主・毛利氏の祖)、島津忠久(薩摩藩主・島津氏の祖)の墓。
 島津忠久の墓は1779年に修造、大江広元の墓は1823年に造られたもの。