鎌倉 スサノオノミコトを祀る「八雲神社」

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 八雲神社は、もとは牛頭天主社(ごずてんのうしゃ)といい素戔嗚尊(すさのおのみこと)をまつる神社でした。文明年間(1469~1487年)山ノ内上杉氏と扇ガ谷(おおぎがやつ)上杉氏が争っていたとき、上杉憲房(のりふさ)が武運長久を祈り、疫病が流行しないことを願って京都祇園(ぎおん)の八坂神社をこの地に移して八雲神社にしたといわれています。

鎌倉 鎌倉で五重塔は珍しい「龍口寺」

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 龍口寺の始まりは、日蓮の弟子の日法が日蓮が亡くなった後、日蓮宗にとって記念すべきこの地を後世に残すために自分で日蓮の像を刻(きざ)み、1337年(延元2年)に草庵を建てて安置したことだといわれますが、やはり日蓮の弟子である六老僧が建てたともいわれます。1883年(明治16年)ごろに住職を置くようになるまで、龍口寺には住職を置かず、輪番八ヵ寺といって、近くの八つの寺が順番に龍口寺を守っていました。室町時代のころは龍口院と呼ばれていたようで、龍口寺の名が出てくるのは戦国時代になってからです。


鎌倉 源氏の秘密兵器「伝書鳩」その関係は「鶴岡八幡宮」

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 源頼朝が現在の場所に移し、武家政権を守る神社として大事にされ、寺院としての性格を持っていました。若宮・本宮・丸山稲荷は国重文です。
 鶴岡八幡宮は参道の若宮大路(国史跡)と共に、政権都市・鎌倉の中心となりました。東西約260m、南北約35mの社域。鎌倉市の中では極めて広大な敷地です。


鎌倉 「元鶴岡八幡宮」の横に芥川龍之介が住んだ

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 元八幡は、相模守であった源頼義が京都の石清水八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(1051~1062年)で、奥州の豪族の阿部頼時・貞任に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
 後三年の役のとき、頼義の子の義家が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。


鎌倉 静かな趣の寺「浄智寺」

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 賓所在近陰影の濃い寺域環境である。苔むす長い階段の両脇に立ち並ぶ古木。正面には中国風の山門がある。楼門様式で二階に梵鐘を吊るしてあるというたいへん珍しい建物だ。
 その先に曇華殿という偏額が掛かった背丈の低い比較的新しい仏殿がある。一見平凡であるがなんとも言えない味のある建物である。本尊三世仏坐像が安置されている。阿弥陀如来、釈迦如来、そして禰勤菩薩の三尊である。十五世紀・室町時代の造立。それぞれ過去、現在、未来を象徴する仏様ときれる。


鎌倉 古銭が千枚以上も出土した「浄泉寺」

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 昔、神仏を一緒にまつっていた時代には、今の小動神社は八王子社と呼ばれ、浄泉寺はその別当寺となっていました。そのため、1917年まで、浄泉寺の住職が小動神社も管理していました。神仏分離令以後もこのような形をとっていたのは珍しいことです。
 1333年 Iこ新田義貞が鎌倉攻めのときに八王子社に奉納した剣が、この寺に保存されていたことがあったといわれています。また文治年間(1185年ー1189年)に、佐々木盛綱が船上からこの寺を拝んだという話も残っています。

鎌倉 洋画家黒田清輝のアトリエで使用も「啓運寺」

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 材木座所在。日蓮宗。山号は松光山。開山は啓運日澄という。寺史は明確でないが、『鎌倉志』は長勝寺の項で「寺僧云、近来妙法寺と、啓運寺と寺号歴を易たり。辻町の啓運寺は、元妙法寺なるを、今は啓運寺と云ひ、名越の妙法寺は元啓運寺なるを、今妙法寺と云ふ。其謂を不知」と記す。建物・本尊なども新しい。境内稲荷社の神体木造船守稲荷神像をも本堂内にまつっている。
[文献]『市史』社寺編


鎌倉 鎌倉市内屈指の大寺院「光明寺」

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 浄土宗大本山。詳しくは天照山蓮華院光明寺。開基は北条経時、開山は記主禅師然阿良忠。仁治元年(1240)鎌倉に入った良忠のため、経時が佐助ヶ谷に一寺を開き蓮華寺と名づけたが、のち同寺を現在地に移し、寺名も光明寺と改めたと伝える。移建・改名などの時期については寛元元年(1243)とする記録もみられるものの確証はない。また、良忠のために大仏朝直が開創した佐助ケ谷の悟真寺が蓮華寺と改名、さらに光明寺に発展したと考える説もある。


鎌倉 非公開の「平家の赤旗」ある「補陀洛寺」

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 「平家の赤旗」といわれるものがあります。1185年(文治元年) 3月、平氏は壇ノ浦で滅びましたが、そのとき平家の総大将の平宗盛が最後まで持っていたのがこの旗だといわれ、捕らえられて鎌倉に来たときにこの旗を頼朝に献上し、頼朝が補陀洛寺に奉納したといわれています。旗には「九万八千軍神」と書かれており、合戦のときにたくさんの軍神に祈ったことがわかります。ただし非公開です。
 平家の「軍神」は、「伝書鳩」で通信を行っていた源氏に勝てなかったのでしょうか?

鎌倉 窟内に清水が湧出する「銭洗弁天宇賀福神社」

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 窟内には清水が珍しく湧出していて鎌倉の名水の随一である。往時福神とか福人とかが銭を洗っていたといふ因縁から、この清水を銭洗井の名跡で僅かに語り伝へてゐる。
 この銭洗井に今日弁財天の北ってあることには不思議はない。佐介谷は平常寂しいところで、一方稲荷社の参詣道には人家も少しはあるか、こちらの窟の方へは全くの野径そのままである。それが1年一度は大層な信者を引つけてゐた。世界大戦景気(第一次大戦のこと)の熾んなことがこの弁財天流行の絶頂と云ってよかったろう。信者は主として横浜あたりから来てゐた。大正九年の春であったかと思ふが、人にすすめられて行ってみると、窟内は御幣や御蝋で一杯になってゐる。佐介稲荷でここも兼ねて受持ってゐると聞いたが、禰宜らしい人や俄神人たちが寄り集って御符を出してゐる。成程ひどい人出である。


鎌倉腰越 龍口寺を守るために開いた「東漸寺」

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 山門をくぐると正面に本堂があります。この寺は、龍口寺を守るために千葉県中山の法華経寺から差し向けられたといわれる日東が1352年(正平7年)に開いたと伝えられます。本堂には、日蓮上人像と釈迦如来像がまつられています。「腰越駅」近くの諏訪神社は、もとはこの寺の境内にあったそうです。


鎌倉 腰越 流行病や海難事故をなくす「満福寺」

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 この寺の開山は行基といわれています。寺のこの寺の開山は行基といわれています。寺の伝えによれば、奈良時代に関東地方に悪い病気が流行してたくさんの死者が出ました。聖武天皇はこれを心配し、行基に「これから関東に下って悪い病気を除くように。」と命じました。はるばる鎌倉に来た行基は、前に広がった青い海原と後ろの山並みがとても美しく見えたので、
 「ここでお祈りをしたら、きっと流行病もなくなるに違いない。」と思いました。

鎌倉 白鹿が人びとにまじって聴聞した「円覚寺」

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 寺名・寺地ははじめ時宗と蘭渓,道隆によりえらばれたが、工事を起すと地中から石櫃が現れ、中に円覚経が納められていたため、それにちなんで円覚寺と名づけるいたったという。山号・仏光国師が開堂供養の説法を行っていると一群の白鹿が人びとにまじって聴聞したところからえらばれたと伝え、鹿の出現した洞穴-白鹿洞が仏日庵前に残る。


鎌倉 日蓮弟子の四条金吾頼基の屋敷跡「収玄寺」

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 1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。
 創立当初は収玄庵と称したが大正末期の本堂改築を機に収玄寺と改称した。
 四条金吾は医術にも造詣が深く鎌倉、佐渡、身延にと終始日蓮聖人に給仕し法華信者の鑑として大聖人より厚い信頼を受けた。


鎌倉 四季花が絶えない美しい庭「光則寺」

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 行時山光則寺と号し、もと妙本寺末。開山日朗。開基は北条時頼の近臣宿屋光則。境域は光則の居宅跡という。文永八年(1271)九月、日蓮が龍ノロ法難で佐渡に流罪になったとき、日朗ら門弟は捕えられて光則にあずけられ、光則は彼らを土牢に幽閉した。この間に、日蓮に帰依した光則は居宅を寺に改め、父行時の名を山号に、自分の名を寺名にしたと寺伝する。


鎌倉 葛原ヶ岡で処刑された「日野俊基朝臣の墓」

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 日野俊基は、1324年、後醍醐天皇の側近、倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、日野資朝とともに鎌倉に護送された(正中の変)。
 この時、日野俊基はゆるされたが、資朝は翌年佐渡に流された。
 後醍醐天皇は、万里小路宣房を鎌倉へ派遣し、「告文」をもって弁明したことにより罪に問われなかった。「告文」とは、天皇が告げ申す文で、武家に出すことは前代未聞だったという。

鎌倉 桓武平氏の先祖を祀っている「八坂神社」

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 相馬師常がいまの巽神社付近に勧請したもの。かっては相馬天王と称した。相馬師常は千葉常胤の二男で、頼朝挙兵に参加、平氏との一ノ谷の合戦にも参加、奥州合戦にも加わり、源氏の武将ととして名を高めた人。
 銭洗弁天は当神社の境内末社であったが、1970年に独立した。


鎌倉 護良親王の偉勲をたたえる「鎌倉宮」

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(別称:大塔宮) 祭神:護良親王(後醍醐天皇の第一皇子)
 明治天皇は、哀しい最期をとげた護良親王(武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王)の功の偉勲をたたえるべく、神社造営の勅令を発し、東光寺跡に1869年7月創建された。

鎌倉 極楽寺駅から成就院へのみち

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 現在のように完全舗装されたのは1961年度。それ以前は砂煙り濠々として、バイクや徒歩で往く際は目つぶしを食い、凸凹で危険きわまりなかった。
 大正十年に自動車が通るようになったというから、実に六十五年間も未舗装であって、いわゆる。道路予定地。だったというわけである。今は50ccのバイクでもスルスルと登ってしまい、何の苦労もない。