飯山観音の裏に白山(はくさん)という山があります。その頂上に大きな楠が立っていて、そのかたわらに小さな池があります。白山池といって、不思議な言い伝えがあります。 むかしむかしのことです。白山の麓に住むお百姓さん達は、毎年夏の日照りに苦しんでいました。 ある夏の日のことでした。一人のお百姓が白山池で釣りをしていました。たくさん釣れたので帰ろうとしましたが、あれ?びくの中に魚は一匹もいません。「どうしたことだ」と辺りを見回すと、魚を口にくわえたカッパがいました。カッパは、お百姓に気付くと、ザンブと池に飛び込みました。怒ったお百姓は、池の水を干し上げてしまいました。……… |
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愛川 半僧坊大権現を祭る「勝楽寺 半僧坊」
開山は天文13年(1544)能庵宗為禅師といわれています。毎年4月17日の春まつりには、近郷近在の新花嫁さんが挙式の当日の晴れ姿でお参りする習わしがあるので「美女祭り」として賑やかです。地元では平山の勝楽寺というより、田代の半僧坊という呼称が一般的です。 半僧坊や田代の半僧坊と呼ばれている勝楽寺。遠州奥山方廣寺(静岡県浜松市北区)より勧請した半僧坊大権現が祭られていることから、「田代半僧坊」と呼ばれています。 半僧坊大権現は、後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」が方廣寺へ御入山の際に出会った白髪の老人を弟子として、日々の作務等を怠ることなく随侍しました。 禅師が「おまえは半ば僧形である」と言うと、老人は「私は半僧です。」と答えたことから半僧坊と呼ばれるようになったそうです。 その後、無文元選禅師が亡くなると、姿を消したと言われています。 |
厚木 神仏分離で寺院から神社に「智音神社」
厚木 明治時代に日本武尊が祭神に加えられた「小野神社」
厚木 水害に合い現在の地に移された「厚木神社」
厚木 学問・音楽・除災・至福の「大釜大弁財天尊」
厚木 安産願いに火伏のご利益も付く「春日神社」
厚木 2001年現本堂に落慶を迎えた「宝泉寺」
宝泉寺は室町時代の後期、1486年に起立。 当時は周囲萬木千草地に満ちて裏山は松が繁り昼なお暗く凄然としており、 そのため別名「松壽林宝泉寺」ともいわれていた。
現在の地に初めて堂宇を建立したのが、曽我の小林平馬の弟、「宗珍和尚」 で、師は43年間の在住により布教を発展させ今日の基礎を築いた。
その後6世「悟庵珊道和尚」の時(1654年、厚木市三田「曹洞宗・ 清源院」6世玉山智存大和尚を法地の開山とし、曹洞宗・宝泉寺の1世に請した。それから今日まで、布教や伽藍・境内地の整備にと壇信徒と共に歩み、19世「大満悦道大和尚」の時に客殿庫裏を、20世「大光真道」の時、現本堂のそれぞれ落慶(2001年)を迎えた。
厚木 安産の命、木花咲耶姫命を祀る「子安神社」
厚木 信玄が出陣したとき兵火にあった「妻田薬師院」
厚木 戦国毛利氏の祖 季光ゆかりの「光福寺」
厚木 弘法大師の開山といわれる「松石寺」
厚木 伊豆の伊東一族子孫の菩提寺「清源院」
厚木 廃仏毀釈の影響が大きかった「龍鳳寺」
厚木 衆生を威嚇力で導く馬頭観音「七沢観音寺」
厚木 神仏分離令などで縮小した「子合地蔵尊」
厚木 江戸時代の山中藩陣屋跡「山中稲荷神社」
荻野山中藩陣屋跡(市指定史跡)
現在の下荻野字山中には、荻野山中藩大久保家の陣屋がありました。
幕府を開いた徳川家康は、再び戦国の世に戻さないことを目指ための政策の一つとして、諸大名の軍備拡大につながる新たな築城は許さず、また既存の城についても大掛かりな改修や拡張を禁じ、さらに陣屋を構えることにも厳しく制限していいました。
そのような厳しい制限の中で、大久保教翅の陣屋構築願いは容認されました。許された背景としては、大久保家の先祖が家康以前の松平家と深い君臣関係があり、その後も家康に対して忠誠を尽くしてきたこと、および教翅の出身である小田原藩が幕府の親藩であったことで、それらにより特別な配慮がされたものと思われます。