明治時代になってから、この神社の祭神には日本武尊(やまとたけるのみこと)も加えられました。それは日本武尊が東国の賊の征伐に向かった際、野火(のび)の焼きうちの苦難にあうという「古事記」に記述の地が「小野」と関係するとして祭神に加えたもののようです。 この神社は、建久(けんきゅう)五年(1194年)愛甲三郎によって再興されたとも言われています。愛甲氏の本家の横山氏は、小野妹子の子孫と伝えられ、愛甲氏の家系の信仰は厚く、特に江声時代には、愛甲姓の武将の参詣が記録されています。 |
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厚木 水害に合い現在の地に移された「厚木神社」
厚木 学問・音楽・除災・至福の「大釜大弁財天尊」
厚木 安産願いに火伏のご利益も付く「春日神社」
厚木 2001年現本堂に落慶を迎えた「宝泉寺」
宝泉寺は室町時代の後期、1486年に起立。 当時は周囲萬木千草地に満ちて裏山は松が繁り昼なお暗く凄然としており、 そのため別名「松壽林宝泉寺」ともいわれていた。
現在の地に初めて堂宇を建立したのが、曽我の小林平馬の弟、「宗珍和尚」 で、師は43年間の在住により布教を発展させ今日の基礎を築いた。
その後6世「悟庵珊道和尚」の時(1654年、厚木市三田「曹洞宗・ 清源院」6世玉山智存大和尚を法地の開山とし、曹洞宗・宝泉寺の1世に請した。それから今日まで、布教や伽藍・境内地の整備にと壇信徒と共に歩み、19世「大満悦道大和尚」の時に客殿庫裏を、20世「大光真道」の時、現本堂のそれぞれ落慶(2001年)を迎えた。
厚木 安産の命、木花咲耶姫命を祀る「子安神社」
厚木 信玄が出陣したとき兵火にあった「妻田薬師院」
厚木 戦国毛利氏の祖 季光ゆかりの「光福寺」
厚木 弘法大師の開山といわれる「松石寺」
厚木 伊豆の伊東一族子孫の菩提寺「清源院」
厚木 廃仏毀釈の影響が大きかった「龍鳳寺」
厚木 衆生を威嚇力で導く馬頭観音「七沢観音寺」
厚木 神仏分離令などで縮小した「子合地蔵尊」
厚木 江戸時代の山中藩陣屋跡「山中稲荷神社」
荻野山中藩陣屋跡(市指定史跡)
現在の下荻野字山中には、荻野山中藩大久保家の陣屋がありました。
幕府を開いた徳川家康は、再び戦国の世に戻さないことを目指ための政策の一つとして、諸大名の軍備拡大につながる新たな築城は許さず、また既存の城についても大掛かりな改修や拡張を禁じ、さらに陣屋を構えることにも厳しく制限していいました。
そのような厳しい制限の中で、大久保教翅の陣屋構築願いは容認されました。許された背景としては、大久保家の先祖が家康以前の松平家と深い君臣関係があり、その後も家康に対して忠誠を尽くしてきたこと、および教翅の出身である小田原藩が幕府の親藩であったことで、それらにより特別な配慮がされたものと思われます。