【余ーの墓】
鎌倉時代の初期、源平合戦の中の屋島の戦で、平家方の舟に立った扇を射落して一躍有名になった那須余一宗高は、その戦功により、下野国那須の総領を幕府から与えられました。戦の数ヵ月後、鎌倉に引上げた幕府の御家人の中に余一もいました、この御家人が大磯の遊女屋に遊んだころ、余一は眼病にかかっていました。
愛甲郡厚木の里の天王森境内に祭られてあった薬師如来が、眼病に効くことを聞いた余一は大磯から馬を飛ばして薬師様の堂宇に参詣し、祈願すること数日、その祈願満願の日、眼病は完全に治りました。このため余一は、眼病平癒のお礼に当時の厚木村の中に真言の寺、摂光山智音寺を建立したと言われます。
那須余ーの死後、余一をこの寺の境内に葬り、五輪の供養塔を建立、以来余一の墓と伝えられています。
この寺では、眼病平癒ではなく、たん咳病平癒祈願のため、弓矢又は木刀を奉納することが行われていました。たん咳病平癒祈願のことは、真田与市、石橋山合戦の故事を同名のことから問違って伝えられたもので、相模、伊豆地方には真田与市伝説が各地に残されています。
今では、この五輪の供養塔の前に弓矢や木刀を奉納されることはなくなり、その伝説も忘れ去られてしまいました。そして、この寺は、明治維新の神仏分離の厄にあって寺院ではなくなり、神式葬祭の式場の建物に用いられています。また同境内は、他の伝承として厚木大膳などの屋敷跡とも伝えられています。
「厚木の観光ポケットブック」(厚木市観光政策課発行)
薬師如来は、病気を治してくれるありがたい仏さまです。正式には薬師瑠璃光(るりこう)如来といいますが、薬師(やくし)は薬剤師ではなく、薬師(くすし)で、医者のことです。だから別名を医王ともいいます。
なお、仏の中の薬剤師は薬王(やくおう)菩薩と薬上(やくじょう)菩薩で、もと星宿光(しょうしゅくこう)と電光明(らいこうみょう)という兄弟だったのですが、ヒマラヤの薬草を採って人々の病気を治した功徳で菩薩になったのです。
薬師如来は、病気を治してくれるありがたい仏さまです。正式には薬師瑠璃光(るりこう)如来
叶えてほしいと願っていることが中心です。
死んだあとに救済するのではなく、この世で利益を授ける如来として人気を集め、飛鳥時代には信仰が広まりました。
日本では薬師如来信仰はすでに飛鳥時代にはじまっていて、法隆寺金堂の薬師如来光背銘文には「用明天皇が病気になったとき、治癒祈願のため寺を建て薬師如来の像を祀るようにとの仰せがあり……」と由来が書いてあるそうです。
また、天武天皇が皇后の菟野讃良皇女(うののささらひめみこ)(後の持統天皇)が病気になり、その平癒を祈願して寺を建てたところ、
といいますが、薬師は薬剤師ではなく、薬師(くすし)で、医者のことです。だから別名を医王ともいいます。
なお、仏の中の薬剤師は薬王菩薩と薬上(やくじょう)菩薩で、もと星宿光(しょうしゅくこう)と電光明(らいこうみょう)という兄弟だったのですが、
ヒマラヤの薬草を採って人々の病気を治した功徳で菩薩になったのです。
薬師如来は、修行時代に「十二の大願」を立て、仏となって衆生を救うことを誓いました。その大願とは、病気を治し健康にする、美味しい食事を食べさせる、素晴らしい衣服を与えるなど、民衆が現実に