岡津古久に隣接する小野には、式内社の小野神社があります。相模国には13社の延喜式内社がありますが、その分布は相模野の中心部に偏っており、小野神社はその中で最北端に位置しています。
(「厚木の観光ボケットブック」(厚木市観光政策課発行)より)
この神社は、延長(えんちょう)五年(1194年)の「延喜式(えんぎしき)」巻九に「相模国式内社(しきないしゃ)の内愛甲郡(あいこうこおり)一座小野神社」と書かれています。
現在の拝殿は、嘉永(かえい)元年(1848年)に建てられ、わら葺(ぶき)屋根でありましたが、、昭和四十三年に鉄板蓑きに替えられました。本殿は拝殿よりも1mほど高い地面に神明造(しんめいづく)りで造られています。「新編相模国風土記稿」に「閉香明神社(かんかみょうじんやしろ)、村の鎮守(ちんじゅ)なり延喜式に載(の)りし小野神社、当国十三社の一(いつ)にて祭神(さいじん)下春命(したはるのみこと)という」とあります。
明治時代になってから、この神社の祭神には日本武尊(やまとたけるのみこと)も加えられました。それは日本武尊が東国の賊(ぞく)の征伐(せいばつ)に向かった際、野火(のび)の焼きうちの苦難にあうという「古事記(こじき)」に記述の地が「小野」と関係するとして祭神に加えたもののようです。
この神社は、建久(けんきゅう)五年(1194年)愛甲三郎によって再興されたとも言われています。愛甲氏の本家の横山氏は、小野妹子(聖徳太子の命により、第一回の遣隋使)の子孫と伝えられ、愛甲氏の家系の信仰は厚く、特に江声時代には、愛甲姓の武将(ぶしょう)の参詣(さんけい)が記録されています。
(「玉川の歴史と民話を21世紀に」(玉川地区協議会)より)
大江氏は、平城天皇の子孫といわれ、多くの文人・学者などを世に送った一族。
貞観八年(886)大枝を改めて大江と称しました。のちに大江家の文章道の正流をついだのは国範の子孫ですが、その弟が大江広元です。
広元は鎌倉幕府草創期に頼朝に招かれ、公文所(政所)別当となり、幕府の基礎をきずいた有力な一人。寒河江・長井・那波・毛利などの諸氏は、その子孫です。
源頼朝以来三代に渡り御家人として将軍に仕え弓の名手として名高い、愛甲村に館を置く愛甲三郎季隆が当社を篤く信仰していた。
古い納札には建久5年(1194年)に当社を再興した記録があり、その時の願主に愛甲三郎季隆の名があり、また鎌倉幕府政所長官の大江膳大夫廣(広)元の名も残っている。