「飯山の観音さん」「縁結びの観音さま」として知られる長谷寺(通称飯山観音)は厚木市街から約六キロ、丹沢から東へのびる尾根、白山の中腹に位置している。
神奈川景勝五十選、花の名所百選にもなっており、参道、境内、桜の広場には約二千二百本もの桜の木があり、春にはお花見客でも賑わう。
また、本堂裏側より登る白山森林公園ハイキングコース頂上展望台からは関東平野を一望でき、正面に横浜、左手に東京新宿を見ることができる。
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厚木 鋳物が盛んだった「鐘鋳神社」
厚木 天台宗の鎮守 山王権現を祀る「知恩寺」
厚木 仏様が神社の中に「大釜大弁財天尊」
鳥居や燈寵3基が入口に建てられ、れっきとした神様として祭られています。実は弁天様は仏教に属する仏様で、美しい仏様が神社に祭られ信仰されているのは奇妙なことです。一般の庶民は、ただひたすら身近な御利益だけを願い仏様を神様にして拝んだのでしょうか。
大釜弁財天では、かつて日照りが続いた時、村中はもとより近郷近在の農家の人々が相寄り、お坊さんを頼み、大釜の内部に入ってお経をあげてもらった後、お坊さんが出てくるところを人々がバケツや手桶で水を掛けたり、滝壷の水をかい出したりするとともに、雨を降らせる一心から宇賀神を怒らせる素朴な願いで身に付けている六尺揮(ふんどし)をはずし、その褌で蛇を洗って雨乞いが行われていました。
厚木 古くは牛頭天王社といった「厚木神社」
厚木 荻野山中藩陣屋跡に「山中稲荷神社」
現在の下荻野字山中には、荻野山中藩大久保家の陣屋がありました。
この大久保家は、相模国愛甲郡中荻野村を中心として、合計1万3千石を領した小さな大名でした。初代の大久保教寛(のりひろ)は、小田原藩主大久保忠朝の次男で、元禄11年(1698)、相模国足柄上郡、駿河国駿東郡内の新開地6千石を分けられ、分家しました。宝永3年(1706)駿河国駿東郡、富士郡に5千石の加増を受けて1万1石の大名となり、更に享保3年(1718)には、相模国大住郡、高座郡、愛甲郡内に5千石の加増を受け、総計1万6千石となります。
天明3年(1783)頃、5代教翅(のりのぶ)は、陣屋をこの地に移し、以後、荻野山中藩と呼ばれるようになりました。
厚木 雨乞いの行事をした「白山神社」
昔より雨乞に霊験著しい池があり、 この池は、干ばつの時でも、池の水が涸れることがなく、 それ故、人はこれを霊地と唱え、ここに古い石像、石碑が残存しています。 むかし、行基和尚がこの地に来て、この山に登り、 この池を見た時、霊水の湧き出る清浄な霊地であることを発見して、 この山を霊地と定め、楠木をもって霊御形を彫刻し、 加賀国白山妙理大権現(石川県石川郡に鎮座)を勧請したとあります。
下って江戸時代の1801年別当龍蔵院隆光は、山上に於いて、修行中に霊夢によって、 同山に秋葉権現と蔵王権現を勧請し、諸難、火難消除の守護とすれば疑なしと云々 近郷、近在の住民、信仰者の力を得て、 白山神社建立を企して、1804年再建をいたしました。
厚木 鎌倉幕府の御家人安達藤九郎盛長が勧請「八幡神社」
厚木 弘法大師の伝説、荻野川「秋葉神社」
【石になったサト芋】
今から約1200年前(8百年代)、全国を行脚していた弘法大師は、ある夏の日、この荻野にさしかかりました。すると、一人の農婦が、源氏河原で取りたてのサト芋をざるで洗っていました。土手の上から、それを見た大師は、イモを洗う農婦の見事さに見とれてしまい、いつの間にか、その農婦の後ろまで近寄っていました。そして、丁寧に頭を下げた大師は、その農婦に「私は旅をしている者です。この辺りは山が多く、宿屋もありません。すまないが、そのサト芋を恵んではくれませんか」と話し掛けました。ところが、その農婦は「このサト芋は石のように硬いので食ぺられません。水も少ないので……」と、大師(頼みを何となく断わりました。………
厚木 長野高遠石工の作か地蔵様がある「広沢寺」
厚木 源頼朝の側室丹後の局を救った「妻田薬師院」
妻田の薬師堂のある地名は、白根といいます。言い伝えによれば、良(ろう)弁(べん)という僧がお堂で休んでいて夢を見ました。東の方を見ると、庭の大楠が灯籠になり、お堂は昼のように明るくなりました。良弁が身を清めようとして池の側へ行くと、一夜のうちに蓮の花が咲いて、白い根が池一面に広がりました。そこでこの地を白根と呼ぶようになったそうです。
境内の楠は、県指定の天然記念物で、戦国時代の1569年、武田信玄が小田原を攻めた帰り道、夜中に軍を進めるためにこの木に火を付けて灯りとしたという話も伝えられています。
また、この薬師については、源頼朝の側室丹後の局が正室・政子の嫉妬によって命を狙われた際に、局を救うという働きをしています。局の薬師如来信仰の賜であるという伝承になっています。
厚木 樹齢約600年の御神木イチョウ「荻野神社」
厚木 源頼朝側室後の局、祭神小町姫に祈願「小町神社」
厚木 もとは天台宗、鎌倉時代に日蓮宗に改宗「戒善寺」
厚木 起立時は萬木千草地に満ちていた「宝泉寺」
厚木 もとは真言宗の乗碩寺だった「松石寺」
厚木 元は愛甲神社三柱大明神と称された「林神社」
由緒(境内掲示板より)
当社は人皇十二代景行天皇二十五年七月竹内宿彌:東國勧察の時勧請したと伝えられている。延享年間記せしものに「北陸東方諸国の地形を定る時相模の國は東の堺たるに由りて東方守護のため東林山に此神を祭る。世に愛甲神社と号す云々」とあり。思うに当社は延喜式神名帳には載せられていないが、千有余年前勧請の古社である。
天正三年(一五七五)棟札を写したものに「日檀那相州森庄林之郷井上之苗裔○○○中之○在原業秀敬白大工下野○○○○○ 縫殿總宗作之寄進之天正三年○○○月吉日」とあり。この年を以て再建○したものと言われている。
元は愛甲神社三柱大明神と称され○○○○宮大神玉柱姫命も合祀せられ其の後林神社と称す。
厚木 頼朝と深い関係の伊東一族子孫の菩提寺「清源院」
1050年天台宗の桓瞬和尚が開山と伝わる古刹。一時は荒れてたこのお寺を再建したのは、曹洞宗の天巽和尚。伊豆の伊東一族の子孫と伝えられている、伊東九郎三郎政世は源清院を菩提寺とし、源清院本堂裏には、政世をはじめとする伊東一族の宝筐印塔が並んでいる。
伊東氏は、藤原氏南家・藤原為憲の流れをくむ工藤氏の一族で、古く平安時代の末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡の伊東荘(現在の伊東市)の地を本拠としていた豪族であった。
平清盛が政権を握っていた頃の伊東氏の当主は伊東祐親で、平治の乱で敗れた源義朝の嫡男・頼朝が伊豆蛭ガ小島に流されていたのを監視する役目も負っていた。
この祐親が上洛して大番役に就いていた間に、頼朝と祐親の三女・八重姫が通じて千鶴という男の子を生むという事件が起きた。京から伊豆に戻った祐親は清盛の怒りを恐れ、その子を殺したうえに頼朝も討とうとしたが、次男の祐清が頼朝に急を知らせて北条時政の屋敷に逃がした。これで助かった頼朝は時政の娘の政子と結ばれ、時政の援助を得て治承4年(1180)に源氏再興の挙兵をした。
厚木 大江広元の四男毛利季光と係わりが「光福寺」
厚木 幽静な寺院としての景観を伝える「龍鳳寺」
祥雲山龍鳳寺は曹洞宗江戸(東京都)駒込の吉祥寺の末寺です。 大州安充禅師(本寺二世)により享禄三年(1530)開創じされました。開基となったのは地頭庄(荘)左近太夫で、境内に墓があります。 庄左近太夫は命により、何人といえども境内や山林に入り竹木伐採などをなす者は、軽重にかかわらず罪科に処すべきとの誓令を発し、境内山林の風致を維持し、今日まで幽静な寺院としての景観を伝えています。 |