1282年に開創。もともとは天台宗のお寺、日源の手により日蓮宗に改宗した。
当山は平安期天台宗の寺として草創された。 1180年 源頼朝は源氏再興の旗挙げ時。 万一陸路敗走の道として、荻野から甲州へのルートを準備した。
頼朝は「我亡きあとはこの持仏釈迦如来を守り源氏再興を計ってくれ」と頼み、 持仏を授けて家来を荻野へ駐屯させた。釈迦如来像は近くの戒善寺に釈迦堂一宇を建立して安置された。
1271年、依知郷に滞在中の日蓮大上人は、戒善寺に釈迦堂のある事を知り、親しく巡錫参詣された。住転日相は大上人の教化に浴し、師日源を開山に仰ぎ、山号を満星山とし日蓮宗に改宗した。
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厚木 起立時は萬木千草地に満ちていた「宝泉寺」
厚木 もとは真言宗の乗碩寺だった「松石寺」
厚木 元は愛甲神社三柱大明神と称された「林神社」
由緒(境内掲示板より)
当社は人皇十二代景行天皇二十五年七月竹内宿彌:東國勧察の時勧請したと伝えられている。延享年間記せしものに「北陸東方諸国の地形を定る時相模の國は東の堺たるに由りて東方守護のため東林山に此神を祭る。世に愛甲神社と号す云々」とあり。思うに当社は延喜式神名帳には載せられていないが、千有余年前勧請の古社である。
天正三年(一五七五)棟札を写したものに「日檀那相州森庄林之郷井上之苗裔○○○中之○在原業秀敬白大工下野○○○○○ 縫殿總宗作之寄進之天正三年○○○月吉日」とあり。この年を以て再建○したものと言われている。
元は愛甲神社三柱大明神と称され○○○○宮大神玉柱姫命も合祀せられ其の後林神社と称す。
厚木 頼朝と深い関係の伊東一族子孫の菩提寺「清源院」
1050年天台宗の桓瞬和尚が開山と伝わる古刹。一時は荒れてたこのお寺を再建したのは、曹洞宗の天巽和尚。伊豆の伊東一族の子孫と伝えられている、伊東九郎三郎政世は源清院を菩提寺とし、源清院本堂裏には、政世をはじめとする伊東一族の宝筐印塔が並んでいる。
伊東氏は、藤原氏南家・藤原為憲の流れをくむ工藤氏の一族で、古く平安時代の末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡の伊東荘(現在の伊東市)の地を本拠としていた豪族であった。
平清盛が政権を握っていた頃の伊東氏の当主は伊東祐親で、平治の乱で敗れた源義朝の嫡男・頼朝が伊豆蛭ガ小島に流されていたのを監視する役目も負っていた。
この祐親が上洛して大番役に就いていた間に、頼朝と祐親の三女・八重姫が通じて千鶴という男の子を生むという事件が起きた。京から伊豆に戻った祐親は清盛の怒りを恐れ、その子を殺したうえに頼朝も討とうとしたが、次男の祐清が頼朝に急を知らせて北条時政の屋敷に逃がした。これで助かった頼朝は時政の娘の政子と結ばれ、時政の援助を得て治承4年(1180)に源氏再興の挙兵をした。
厚木 大江広元の四男毛利季光と係わりが「光福寺」
厚木 幽静な寺院としての景観を伝える「龍鳳寺」
祥雲山龍鳳寺は曹洞宗江戸(東京都)駒込の吉祥寺の末寺です。 大州安充禅師(本寺二世)により享禄三年(1530)開創じされました。開基となったのは地頭庄(荘)左近太夫で、境内に墓があります。 庄左近太夫は命により、何人といえども境内や山林に入り竹木伐採などをなす者は、軽重にかかわらず罪科に処すべきとの誓令を発し、境内山林の風致を維持し、今日まで幽静な寺院としての景観を伝えています。 |
厚木 古くはこのあたりに鋳物師がいた「子合地蔵尊」
厚木 秀吉の小田原攻めの際、兵火にかかった「法界寺」
厚木 反乱の鎮圧などに霊験、各地へ「八幡神社」
八幡神社は三田村の鎮守です。「新編相模国風土記稿」によれば、安達藤九郎盛長が勧請したと言い伝えられているとあります。 本殿の規模は桁行(問口)6尺、梁行(奥行)5尺を測り、一問社流造としては荻野神社に次ぐ大きさです。 八幡神は、もとは九州の航海系民族の神さまで海神でした。「八幡」は船に立てるたくさんの旗を表わす言葉でしたが、その後、大分県の宇佐八幡宮を本宮として、八幡神(応神天皇の神霊とされる)を祭神とするようになったのです。 八幡神は、早い時代から反乱の鎮圧や仏教の保護などに霊験を示して各地への広まりをみせます。九世紀なかばには、のちに東国平定などに武勲を示す源義家が石清水八幡宮で元服の儀式を行ない「八幡太郎」と称しました。その後、源氏の勢力拡大にともなって、八幡信仰も各地へと広がっていきました。 |
厚木 親鸞聖人がここに草庵を「弘徳寺」
開基は二十四輩第五番信楽房(信楽房は、常に親鸞聖人の身近に奉仕したと伝えています。) 弘徳寺の寺伝ではかつてこの地には聖徳太子の発願によって秦河勝が地蔵菩薩を安置するために建てた地蔵堂があり、そこに親鸞聖人が御巡錫になり、その宿縁を大変喜ばれて、ここに草庵を結ばれて浄土真宗の教えをひろめられ、後に信楽坊に草庵を託されたと伝えています。 寺の縁起によれば、親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡で、親鸞の嫡男・善鸞がここに草庵を結び心光院と号したのが始まりと伝わる。 開山・開基は、親鸞の直弟子の信楽ぎょう房。信楽房は平将門の子孫で、俗名を相馬太郎義清といった。 建暦・元仁期に親鸞が常陸国稲田に布教の折りに門弟となり、その後当山を任せられた。 |
厚木 明治の先進民家「古民家 岸邸」
厚木 日蓮上人配流のとき逗留した「妙伝寺」
厚木 かっては石神社と呼ばれた「荻野神社」
厚木 江戸時代は境内に山王社にまつられていた「知恩寺」
厚木 飯山の観音さんとして知られる「長谷寺」
厚木 古い石仏が掘り出された「金剛寺」
厚木 旧名妙見宮(天之御中主神)を祀った「鐘鋳神社」
厚木 カッパの雨乞いの伝説「白山神社」
愛川 半僧坊大権現を祭る「勝楽寺 半僧坊」
開山は天文13年(1544)能庵宗為禅師といわれています。毎年4月17日の春まつりには、近郷近在の新花嫁さんが挙式の当日の晴れ姿でお参りする習わしがあるので「美女祭り」として賑やかです。地元では平山の勝楽寺というより、田代の半僧坊という呼称が一般的です。 半僧坊や田代の半僧坊と呼ばれている勝楽寺。遠州奥山方廣寺(静岡県浜松市北区)より勧請した半僧坊大権現が祭られていることから、「田代半僧坊」と呼ばれています。 半僧坊大権現は、後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」が方廣寺へ御入山の際に出会った白髪の老人を弟子として、日々の作務等を怠ることなく随侍しました。 禅師が「おまえは半ば僧形である」と言うと、老人は「私は半僧です。」と答えたことから半僧坊と呼ばれるようになったそうです。 その後、無文元選禅師が亡くなると、姿を消したと言われています。 |