厚木の荻野には、鉄や銅を使って鋳物を作る鋳物師(いものし)(「いもじ」ともいう)がたくさん住んでいました。もとは飯山に住んでいたものが、移り住んできたようです。難波氏、木村氏、毛利氏などが鋳物師として活圖しました。荻野で鋳物が盛んになったのは、荻野川から原料の砂鉄が手に入りやすかった上に、砂鉄を溶かすための木材も手に入りやすかったからでしょう。
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厚木 幽静な寺院としての景観を伝える「龍鳳寺」
厚木 古くは「赤城明神社」といいった「依知神社」
厚木 秀吉の小田原攻めの際、兵火に「法界寺」
厚木 徳川家康は当寺を訪れた際の後に改称「松石寺」
弘法大師が荻野富士(華厳山)と称する山頂付近の岩に経文を記した石を納めたことがことが起源とされている寺院。
寺院はその山のふもとにあってもと華厳山乗碩寺といった。その後興廃を繰り返したが、天正時代徳川家康は当寺を訪れた際寺の由来を聞いて感じ、松平と経石をからめて松平家が石のように堅固に栄えるようにと短歌を読んだ。その後この寺を松石寺と改称した。 「幾千代もかはらて松の栄えかし みのりの石のいはほならべて」-(家康)
当初は真言宗で、華厳山乗磧寺と号していた。その後林徳院と改号したこともあった。1475年宗派を曹洞宗に改宗し、寺号も旧に復した。1591年に華厳山松石寺と改めた。
このお寺の裏山(華厳山)には四国八十八ヵ所を模した石仏群がある。この造立に当たり、江戸、武州各郡、駿州まで寄進を集め、また、近くに七沢石を産し、七沢、煤ヶ谷に多くの石工がいたためつくることができた。しかし、現在(1972年)では風雨、地震なのにより倒壊、損壊したものが多く、その順序もよく判らない。
厚木 かっては石神社と呼ばれた「荻野神社」
厚木 戦国毛利氏の祖 季光ゆかりの「光福寺」
厚木 衆生を威嚇力で導く馬頭観音「七沢観音寺」
厚木 縁結びの観音さまとしても知られる「長谷寺」
厚木 元山王社の山王権現を祀る「知恩寺」
厚木 平安初期の美人小野小町を祀る「小町神社」
尾道 花崗岩で出来た大石門をくぐり延命「持光寺」
厚木 イチョウの古木が残る「荻野神社」
厚木 水の神と農耕の神「大釜大弁財天尊」
厚木 子供や水子の供養の地蔵信仰「子合地蔵尊」
厚木 武田信玄に焼かれたことがある「妻田薬師院」
厚木 廃仏毀釈の影響が大きかった「龍鳳寺」
豊臣秀吉が太閤検地を始めると、天正十九年(1591)には七石の御朱印を賜り、寺領として明治に至るまで隆昌を極めました。しかし明治初年に廃仏毀釈令が発せられると一戸残らず離壇、堂はすべてなくなり、庫裡は小学校として売られました。
(明治維新の廃仏毀釈令は、寺院から撞鐘、半鐘、鰐口などを提出させ大砲の材料とした一面もあったのでしょう。)
明治二十四年になると、第二十五代護三和尚は寺門の復興に努め、丈六(5.28m)の誕生仏を自ら彫刻し、大正年間に完成させました。そのため第二十六代大徹義雄和尚(昭和初期)にかけては、桜花燗漫四月の花まつりに老若男女が訪れ賑わいました。
「破壊された石仏」たち
地蔵菩薩などで、首が欠けたり顔や腕が削られたりした傷ましい石仏を見ます。それらは自然の劣化によって起きたものではなく、明らかに人為的な破壊行為によるものです。 このような石仏に対する破壊行為が起こった背景には、明治維新後に新政府が公市した「神仏判然令」とそれによって影響を受けた「廃仏毀釈」と呼ばれた仏教の排斥運動がありました。 この六地蔵のうち四体は顔の部分が壊されています。厚木地区ではこのほかにも壊された石仏が各地にあります。
厚木 相模観音霊場27番札所だった「聖眼寺」
愛川 「私は半僧です」と答えた「勝楽寺 半僧坊」
厚木 念仏を唱えれば極楽浄土へ「光福寺」
最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して光福寺となった。
鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。
毛利庄(今の厚木市内)の領主毛利季光(すえみつ)入道西阿は送領使となったが、隆寛に帰依きえし奥州喜多方へ送る途中、毛利庄に移し飯山の郷に匿かくまい住ませたという。身代わりには弟子・実成じつじょうという僧が送られるが、入寂を知って飯山に駆けつけ、隆寛律師遺骨を喜多方・願成寺に分骨・埋葬した。



















