尾道 干潮と満潮の差は3mを越える「昔の船着場」

 「昔の船着場」が再整備されています。
 瀬戸内海中央部の干潮と満潮の差は3mを越えます。そのため船着場は階段状に作られており、毎日2回づつ干潮と満潮があり、海面の高さの変化に応じて、船と船着場(岸)に板をかける段を変えて、人が荷の積み卸しをしていました。
 このあたりは瀬戸内海の中央部で、海水が激しく混ぜ返されます。このため、海の栄養分が行き渡り、しかも18kmにもなる潮流が味の良い海産物を生み出します。料理人の中には備後地方の海で採れた魚が一番おいしいと言われる方もおられます。しかし、下水処理が進みすぎ、海の栄養分が不足し、海産物に変化が起きています。

尾道 海雲塔とも呼ばれた「天寧寺三重塔」

 当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。
 本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上から心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。
 なぜ、五重塔として修復せずに、三重塔に変えてしまったのか、その理由はよくわかりませんが、五重塔として再建して、再び四重、五重が傷んでしまったら困ると考えた人がいたのかもしれません。いずれにしても珍しい塔です。
 (「宮大工と歩く千年の古寺」(松浦昭次著)より)

尾道 出雲街道を横切り、善勝寺から御袖天満宮へ

 むかしは、出雲街道が左から来て、正面に向かってL字型に曲がっていた箇所です。「左いづも往来」の石碑があります。出雲街道を使って、石見銀山から尾道まで陸路で「銀」が運ばれていました。
 御袖天満宮へ登っていく途中に井戸があります。尾道では井戸のそばに石仏が置かれています。夏場は、飲み水の確保が難しかったのです。上水道ができた後も、1960年頃までは、夏場に断水になることもときどきありました。

尾道 もとは海徳寺の鎮守だった 「勇徳稲荷神社」

 軒が低く打ち水が涼気を誘う後地小路をくぐりぬけるとまねくが如く道路にセリだした松の木の根元にギョッとするほど鮮やかな朱塗の鳥居が待ち受ける。もともと正一位 勇徳稲荷神社は海徳寺の鎮守であったが、大正十五年に同寺が火災にあい、このため寺は、東久保町の山手に引っ越したが、神社だけは独立し、そのころの名ごりをとどめ「抱二天」の仏様がまつられている。
 鎮座はこれまたいつのころかわからないが鏡台に文久二年(一八六二)と書きこんであるところからこれよりさかのばるものとみられ、間口三間ほどの拝殿はそう古くはないが玄関は昭和年代に入り、近くの御嶽教社をとりこわし移し、また鳥居も元市民病院横にあった稲荷様のものといわれる。
 もともとは海徳寺の鎮守であったが、1926年海徳寺が火災にあい、山手に引っ越した。そのため、神社は独立しました。

尾道 大草鞋サイズの足の大男がいる?「西国寺山門」

 この仁王門は、門中にまつられている二体の仁王尊像とともに室町末期の作で、仁王尊像の躍動感と、威厳を感じます。正面に下がる大草履は、健脚を願っての奉納と伝えられています。
 「この先には、この大きな草鞋サイズの足を持つ大男がいるよ、悪いことして入ったら返り討ちに遭うよ」と。
 西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山。
 ある日、尾道に立ち寄られた行脚の中の行基はその夜、加茂明神の霊夢を見て、その御告げによってこの地に開山したと言い伝えられます。

尾道 1957年死者・行方不明113名沈没事故「瀬戸田港」

 1957年4月12日「第五北川丸沈没事故」がありました。午後0時30分に瀬戸田港から尾道港への帰途についた芸備商船の定期客船・第5北川丸が出航。この客船は、定員が84名であったにもかかわらず、235名(うち子供12名)が乗船。旅客定員の3倍超の乗客と乗員4名を乗せていました。しかも同船は建造から33年(1924年建造)経過した老朽木造船でした。乗員5名のうちひとりを別の用事のために下船させたため、船長自らが切符整理を行い、舵を当時16歳の甲板員見習(事故により死亡)に任せていました。
 生口島の瀬戸田港から尾道港に向け出航しておよそ10分後、佐木島西方にある寅丸礁(事故後、灯台が設置された)と呼ばれている暗礁に座礁・転覆し、あっというまに沈没してしまいました。付近を航行していた運搬船や漁船がただちに救助に当たったのですが、船内に閉じ込められるなどして死者・行方不明113名、負傷者49名を出す惨事が起きてしまいました。

尾道 お茶子娘供養のかんざし燈籠「八阪神社」

「かんざし灯籠」の伝説
……ある日、だんなが息子を呼んで言うた。
「おまえ、お茶子ふぜいと付き合うとるそうじゃが、立場を考えにゃいけん。うちは浜問屋じゃけえのう」
「浜問屋とお茶子がどうして結婚してはいけんの」そんな親と子のやりとりが何日も続いた。……息子がつれてきた娘を父親はじろじろと見まわした。
 べっぴんさんじゃし、言葉づかいもていねいじゃし、気立てもよさそうじゃ。……「あんたべっぴんさんじゃし、言うことはないけどのう、今時の娘がかんざし一つ差しとらん。かんざし一つ差しとらんような者を、うちの嫁にするわけにはいかんのじゃ。すまんがうちの息子との結婚はあきらめてくれ」……そう言われて娘は悲しかった。
 この日のために親が無理して買うてくれた着物と履物。じゃが、かんざしまでは手が届かんかった。娘は親の気持ちを考えると、ただただ、せつなかった。 両親の顔が浮かんでは消える。
 気持ちのやさしい娘は心の中で両親にわびながら、その夜、明神さんの近くの井戸に身を投げて死んだんじゃ。
 それから間もなく、雨の日に女の幽霊が出るという噂がたつようになった。

尾道 手水に石造の神亀が「艮神社」

「石造の神亀(しんき)」
  神亀には耳があり、繊細に掘りがされています。亀の口から水が出ています。「亀は万年」と言われて縁起が良く、亀の長寿にあやかったものなのでしょうか。
 「幸運」を自分のもとに引き寄せるための努力は、焦ってはいけません。慌てる必要はないのです。亀のように遅い歩み方でもかまいませんから、休まずに、少しずつ続けていくのがいいのです、よ。

尾道 裏山の自然石に彫られた十六羅漢「済法寺」

 山斜面の自然岩に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。
 「十六羅漢」とは、お釈迦様の弟子で特に優れた代表的な16人の弟子を十六羅漢といいます。仏教を護持しようと誓ったとされる弟子達です。羅漢は阿羅漢の略で、供養に値する人という意味です。

尾道 疫病退散祈願のベッチャー祭「吉備津彦神社」

 寶土寺西側の鳥居のある一劃は吉備津彦神社、俗にいう一宮さんで、毎年11月3日文化の日に、尾道全市の子供たちを湧き立たせる奇祭ベッチャー祭の祭神で、ベタ、ソバ、ショーキーはこの神社から繰り出すのである。
 神輿と獅子頭を先頭にベタ・ソバ・ショーキーの三鬼神が市内を練り歩き、子どもたちを追い回す神事。「ベタ」「ソバ」が持っている「祝棒」で突かれると子宝に恵まれ、「ショーキー」が持っている「ささら」で叩かれると頭が良くなるとされ、子供達は「ベッチャー、ベッチャー」とはやし立てる。江戸時代に流行した疫病退散祈願から始まった西日本有数の奇祭。

尾道 海に続く公園がある「尾道駅前海岸」

 1999年(平成11年)に駅前再開発が行われた。駅舎は古い景観を保ったが、そのほかは様相が一変し、近代的な商業施設やホールが建てられた。
 現在は、駅を降りすぐに見える尾道水道(瀬戸内海)は以前よりも広くなった。
 以前は駅舎の正面に桟橋があり、その西に魚市場があった。
 そして、2019年3月10日、新たな二階建の駅舎が開業。

 「巷に来れば憩いあり人闘みな吾を慰さめて煩悩滅除を歌ふなり」林芙美子

尾道 行基菩薩創建と、真言宗醍醐派の大本山「西国寺」

 西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山。 ある日、尾道に立ち寄られた行脚の中の行基はその夜、加茂明神の霊夢を見て、その御告げによってこの地に開山したと言い伝えられます。
 「織田信長を呪い殺す“調伏”がこの大寺で行われた」とか。
 昔から真言密教は、どろどろとした人間の最も暗部の欲望を開放する宗教。人を生かすことも、人を殺すことも宗教の重大な役目だったと。だから信長は光秀に本能寺で殺されたのだろうか?
 と考えてみるのも面白い。

尾道「完璧は災いの元」と石工の祈り「御袖天満宮」

 長さ5.2m、幅32cm、高さ17cmの見癖な一本物の花崗岩を使い、上から二段目だけは、完壁なものの脆さをこばむ日本的な宗教感覚にもとずいたものであろうか、継ぎ目をつくり完成させたもの。
 上から二段目の1段のみわざと継いでいます。「完璧は災いの元」と思った石工の心遣いでしょうか。それとも、「完璧なものは神様しか造れない」ということでしょうか。
 ここにも、日本の伝統「未完成の美学」があるのですね。
 ロシアのプーチン大統領にも、「完璧に勝つことは災いの元」という風土の中で育ってほしかったですね!

尾道 冬至の夕日が割れ目の向こうへ「岩屋巨石」

 岩屋巨石ははるか昔に人が造形したと考えられている岩です。
 この大きな岩の割れ目は、夏至の太陽が割れ目の東側から昇り、冬至の太陽が割れ目の西側へと沈むようにつくられています。それは古代からこの岩と山が人々に信仰されていた証ではないかと考えられています。
 また冬至の夕日がこの割れ目の向こうへと沈んでいく姿は絶景であり、冬至の日の前後二週間は、ほぼ同じ位置に沈む光景を楽しむことができます。
 人造の傷跡があることから、岩屋巨石のその造形は古代太陽信仰に基づいた太陽の周期とリンクしたものになっており、古代人の歴の知識が込められていると考えられます。
 また、この岩屋山の山頂には尾道水道を見渡せる絶景のパノラマビューがあり、尾道三山の寺院(千光寺、西郷寺、浄土寺)と、この岩屋山との不思議な関係を眺望することができます。

尾道 生口島 仏教伝来当時を偲ばせる「耕三寺」二段目

 耕三寺(こうさんじ)は、尾道市瀬戸田町(生口島)にある仏教寺院です。1936年から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」「母の寺」とも呼ばれています。小高い山を利用しており、この第二段には、室生寺の五重塔を模した「五重塔、また、四天王寺の金堂を模した「法宝蔵」などがあります。
 一目見ると派手なお寺という印象ですが、仏教が伝来したとき、それを広めるため豪華で大きな建物をつくり、人々を仰天させ、朝廷の力を鼓舞した時代はこのようだったのか、と思い巡らすことも出来ます。そういう意味では、歴史を実感する場所でもあるのでしょう。

尾道 昔はここに魚市場があった「尾道駅前桟橋」

・島に行く船が出ています。
・前の島(向島(むかいしま))への渡しの乗り場が、一番東に独立してあります。
・「尾道~因島~生口島」方面、「尾道~百島~常石」方面の船が出ています。
・他に、春から秋までですが、「尾道~鞆の浦」への船が、土日に運航しています。
 今、桟橋があるとこに、昔は魚市場があり、生きている魚が競りにかけられていました。朝7頃には取引は終わっていたのですが、小さなサメが転がっていたり、魚のにおいが残っていました。
参考)この辺りの海は、干満の差が3m前後あり、海岸の景色も変化します。海底までの深さも変わりますし、隠れていた岩が水面に顔を出します。また、潮の流れも早いのです。前に向島があるので、風の影響は少なくて済みます。

尾道 聖観音に祈願して海難をのがれた「善勝寺」

 開基は、遠く天平の世、諸国に建立された頃と伝えられている。古くは禅宗で善性寺といい、1573~1591年尾道権現山城(千光寺山城)主杉原民部太夫元垣の菩提所となった。杉原氏の没落後は寺運も衰えたが、1596~1614年の頃、性意が中興して真言宗にかわり善勝寺と改名した。
 本尊は聖観世音菩薩(市重文)。これは一名「萩の観音」とも呼ばれている。現在の本尊は1694年住職隆慶・その弟子頼音のときに、当地の小物小屋浄甫が再建したものを1980年に修復したものである。1664年6月正遍建立の持仏堂がある。

尾道 石造の神亀が手水舎に「艮神社」

 石造の神亀(しんき)

 少し変わった手水鉢を見ることができます。ー般的な手水鉢は、龍の口から水を吐くものが多いのですが、ここでは長寿にあやかり、亀のロから水が出ています。
 神亀には耳があり、繊細に掘りがされています。亀の口から水が出ています。「亀は万年」と言われて縁起が良く、亀の長寿にあやかったものなのでしょうか。
 『古事記』は、九州の神武天皇が[ヤマト建国]を目論み瀬戸内海を東に進んでいたとき、海の彼方から、釣り竿を抱え、亀に乗った男がやってきて、水先案内人を買ってでた、と記しています。

尾道 力石をかついだ和七の像「御袖天満宮」

 映画ファンなら必ず訪れるのが御袖天満宮(みそでてんまんぐう)。大林映画「転校生」の舞台となった石段があるからじゃ。
 上から転げ落ちて、男女が入れ替わってしもうた、あの石段じゃ。
 石段は五十五段あるんじゃが、あれほど立派な石段はなかなかお目にかかれん。
 すべて花崗岩(かこうがん)で造られとるんじゃが、一段の長さは5mほどあってな、すべて一本石でひとつも継ぎ目がないんじゃ。
 あまりよう出来過ぎたので上から二段目だけは継いであるがの。
 その石段から下ったわきに、力石をかついだ和七(わひち)の像が立っとる。
 力石とはな、力自慢たちが力を競うために作られたもんで、持ち上げた人の名前が彫り込まれとるんじゃ。
 尾道には、力石(ちからいし)がぎょうさんある。

尾道 不動岩~奥の院「不動岩の上は絶景」

 不動岩から奥の院に至る道です。途中に聖観音、子宝観音があります。
・聖観音……観音菩薩は聖観音が基本の姿ですが、6世紀頃の中国で密教の教義により様々な変化観音が生まれました。法華経の中の「観世音菩薩普門品第ニ十五(観音経)では、聖観音を含めた六観音が六道輪廻(世の中のあらゆる生命は六種類の世界に生まれ変わりを繰り返すという教え)  の思想に基づいて六道に迷って苦しむ衆生を救うと説いています。
  日本では、真言宗が六観音として聖観音(地獄道)・十一面観音(修羅道)・千手観音(餓鬼道)・馬頭観音(畜生道)・如意輪観音(人道)・准胝観音(天道)を定め、天台宗は准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音としていました。