鎌倉 厳しい座禅会が行われる「報国寺」

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 報国寺坐禅会は、二十九世 義道和尚の下に昭和三十四年十一月より始められました。
 「残業しないで通常の3倍の成果が上がる時間術」(箱田忠昭著)より
 仕事だけ、金儲けだけであると、どうしても人としての「幅」がなくなり魅力がない。仕事以外の面で何かやりがいのある勉強をしていきたい。私の場合は坐禅を鎌倉の報国寺坐禅道場でやるようになって、ちょっと人生が充実したような気がする。………

江の島 ひっそりと無縁仏を祀る「延命寺」

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「此処は何なのかしら・・・・?」
 たびたびの崖崩れした墓地。墓石も遺骨も誰のものか判らなくなり、それらを祀るためる石窟を造り、納骨堂にしました。
 閻魔大王が鎮座している石窟の奥が納骨堂になっています。

鎌倉 加賀の白山を開いた泰澄が開山「寶善院」

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 もとは泰澄山瑠璃光寺ともいったと伝えられています。奈良時代の天平神護年間(765年~767年)に越後の国の僧で越の大徳といわれた泰澄が、日ごろ信仰していた十一面観音をこの土地にまつったのが寺の起こりだと伝えられていますがはっきりしていません。泰澄は、加賀(今の石川県)の白山を開いたといわれる人です。越というのは、越前・越中・越後の三国をまとめた呼び名で、今の福井・富山・新潟の三県のことです。また大徳というのは、並ぶ者のないほど徳の高い僧であるということです。

尾道 供出した鐘、無傷で戻った「浄泉寺」

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 鐘撞堂は享保八年(1723)九月に建立され、文政十三年(1830)三月 八世順盛代に修復され明治二十四年(1891)山陽鉄道開通にともない現在地に移建されました。
 梵鐘は文政十年(1827)四月に鋳造され、口広三尺高さ六尺あります。
 昭和十七年(1942)第二次世界大戦の折、金属回収令によって供出されましたが、昭和二十年(1945)終職後、岡山玉野の精練所で発見、無傷で返還されたものです。

福山 かつて鞆製網合資会社の「鞆の津の商家」

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 「鞆の津の商家」は、江戸時代末に建築された建物で、かつて「鞆製網合資会社」などに用いられていましたが、今日では市の重要文化財に指定され再生・保存されています 外観の美しい建物ですが、なかでも正面右側の土蔵は、2階建ての町家に見えるようにひさしを設けており、他に例を見ないユニークな意匠となっています。

鎌倉 最近は恋愛成就で人気の「佐助稲荷神社」

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 佐助二丁目鎮座。祭神宇迦御魂命・大己貴命・大宮女命・事代主命。例祭二月初午、元無格社。社伝によると、当社の神霊が翁の姿に現れて、佐殿源頼朝に旗挙げをすすめて助けたので佐助というと伝える。社は鶴岡八幡宮非常の際の御旅所として古くは同社の飛地境内社であった。『金兼稿』に見える源十郎・弥十郎の話は当社の霊験によって、苦難をのり越え、魚腹より財宝を得て栄える昔話の伝説化したもので、古縁起とも見られる。[文献]『市史』社寺編

尾道 2019年2月地蔵堂が放火された「海龍寺」

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 2019年2月19日午前2時10分頃、尾道市の寺で火事があり、地蔵堂など2棟が焼けました。
けが人はいませんでした。「寺の地蔵堂が燃えている」と住職から119番通報があり、消防車5台が出動し、火はおよそ40分後に消し止められましたが、この火事で寺の地蔵堂と倉庫合わせて35平方メートルが全焼しました。本堂への延焼はなく、けが人はいませんでした。
 本堂(ご本尊千手観世音菩薩)と阿弥陀堂(位牌堂)(ご本尊阿弥陀如来)は無事でした。
 2019年3月7日、地蔵堂から仏像を盗み、放火したとして送検されました。

鎌倉 もとは蓮乗寺といい真言宗だった「蓮乗院」

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 この寺院の創立年代や開山については、はっきりわかりませんが、光明寺より早い時期からこの地にあった寺で、蓮乗寺(れんじょうじ)といってはじめ真言宗だったということです。その後、光明寺が佐助ヶ谷(さすけがやつ)から移されてきてから、光明寺の子院となり、浄主宗の蓮乗院と改めたといわれてします。
 1243年(寛元元年)に光明寺が良忠によって創建されたといわれますが、寺院の落成まで良忠は蓮乗院に居住して、建築を監督(かんとく)したということです。こうしたことから、光明寺の新しい住職となると、まず蓮乗院に入ってから改めて光明寺の本山方丈に入る慣わしになりました。

尾道 林芙美子著「風琴と魚の町」ー尾道ー

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林芙美子著  「風琴と魚の町」より
 蜒々(えんえん)とした汀(なぎさ)を汽車は這(は)っている。動かない海と、屹立(きつりつ)した雲の景色は十四歳の私の眼に壁のように照り輝いて写った。その春の海を囲んで、たくさん、日の丸の旗をかかげた町があった。目蓋をとじていた父は、朱(あか)い日の丸の旗を見ると、せわしく立ちあがって汽車の窓から首を出した。
「この町は、祭でもあるらしい、降りてみんかやのう」
 母も経文を合財袋(がっさいぶくろ)にしまいながら、立ちあがった。………

鎌倉 昔、極楽寺の境内でした「熊野神社」

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 正面にみかげ石の鳥居があります。石段を上がると美しい緑色の銅葺き屋根の社殿が建っています。かたわらに、神輿を納めてある神輿庫もあります。境内の囲いもなく開放的な割には荒れた感じのないこの神社は、いかにも地域の人々によって守られているという雰囲気をもっています。

鎌倉 大地震で亡くなった人々を弔う「来迎寺」

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 鎌倉時代の1293年(正応6年)に、鎌倉の大地震で亡くなった人々を弔うため、一向が建てた寺だということがわかりました。明治時代になって頼朝の墓のそばにあった法華堂がなくなったので、そこにまつられた地蔵菩薩・如意輪観音・跋陀婆羅尊者の三仏像と鰐口や手洗い石が移されました。

鎌倉 水戸家から住持をむかえた「英勝寺」

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 太田道灌の屋敷跡と伝える。扇ケ谷にある浄土宗寺院。鎌倉唯一の尼寺。山号は東光山。寺地は太田道灌の屋敷跡と伝える。開山は英勝院長誉清春。徳川家康の側室でお勝の局といい、太田康資の女(むすめ)。寛永十三年え(1636)開堂供養。第一世庵主は水戸頼房の女小良姫(清因尼)。以来、住持は水戸家からむかえたので、水戸様の尼寺とされた。仏殿・祠堂・鐘楼・庫裡・書院・宝蔵庫などのたたずまいは美事である。
(長峰五幸著「鎌倉 趣味の史跡めぐり」より)

尾道 新しくなった「尾道駅」

 今日(2019年3月10日)から、尾道駅が新たらしくなり、開業記念に「記念入場券」が9時より販売されました。せっかくでしたので列の後ろに並んでみましたが、二列の列が1時間たっても30~40mほど進んだだけでしたので、購入を諦めました。二列の列が1時間に40mほど進むというのは、かなりの好記録なのでしょうか? もしかしたら、世界記録かも、と思いながらひとつの思い出が出来ました。

鎌倉 天井画《白龍の図》がある「円覚寺 仏殿」

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 1964年(昭和39年)に建造再建された鉄筋コンクリート造の建物。もとの仏殿は1923年(大正12年)の関東大震災で倒潰し、その40年後に、1573年の図面をもとに再建された。 禅宗様の建築様式で、本尊は宝冠釈迦如来坐像。
 円覚寺仏殿造営図は1573年、同寺の仏殿を再興するため作成された断面図(縦約2.2m、横約3.5m)と平面図(縦約1m、横約0.9m)の清書本。制作年代などが分かる安土桃山時代の設計図として珍しく、当時の禅宗様建築の構造形式を細かく伝える点でも貴重。

鎌倉 円覚寺、石段を143段のぼると「鐘楼弁天堂」

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 急な石段を上ると、正面に弁天堂があります。その左側には、「正安三年」(1301年)の年号が記された梵鐘(国宝)があります。この梵鐘は、北条貞時が物部国光に造らせた鎌倉時代の代表的な名鐘の一つで、高さは2.59mもあり、関東地方最大の鐘です。

厚木 日本三体地蔵尊の一体「子合地蔵尊」

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 保元・平治の乱の折、義隆は妻子をおいて相模国毛利荘荻野郷に落ちてきました。義隆の死後その終焉の地に参ろうとこの地にやってきたのは、義隆の遺児の僧・浄慶でした。浄慶は、子合に住まっていた義隆の郎党・毛利主計(かずえ)のもとを訪ねました。主計は、義隆追善のため上京、河内国(大阪府)壷井にて義隆縁の地蔵尊をいただき、郷里・荻野郷子合に戻り、浮慶に託して、義隆公三十三回忌の法要を営みました。その折に建立したのが、子合地蔵尊です。

江の島 台湾近代化の尽力者を祀る「児玉神社」

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 明治時代の陸軍大将・児玉源太郎(1852(嘉永5)年~1906(明治39)年)を祀った児玉神社は、創建が1918(大正7)年。その後1921(大正10)年に後藤新平らの尽力により、主要な社殿が建立された。
 児玉が生前、江の島の風景を愛し、しばしば清遊した由縁により、この地に神社が創建された。ことに境内には台湾総督時代の関係者による献納の燈籠・水盤などが見られる。

鎌倉 龍口寺輪番を勤めた「本龍寺」

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 この寺は、輪番寺の中で日蓮宗の寺としては最も早く建てられたものです。山門を入った正面の本堂には、田辺ガ谷の雨乞いの日蓮上人像や大黒天、鬼子母神、十羅刹女(じゅうらせつじょ)像などが、本尊の三宝本尊とともにまつられています。また、室町時代の作で、彩色も美しい日行上人像も安置されています。

厚木 岡津古久にある「子安神社」

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 子安神社の創立は不詳でありますが、古社調査事項取調書(明治二十九年(1896)によれば文明十八年(1486)以前の創立であります。
 祭神は木花咲耶姫命が祀られておりますが、配祀祭神として豊宇気命と須佐之男命が祀られております。 古社調査書によれば、境内地には稲荷神社があり祭神は宇加之魂命が祀られておりました。
 祭神木花咲耶姫命は古来から子宝・安産の命として崇められ、人々の信仰も厚く、天正十九年(1591)には神領壱石の御朱印を賜りました。

鎌倉 高台に古い洋館が建つ「浄妙寺」

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 臨済宗建長寺派。鎌倉五山の第五位。山号は稲荷山、浄明寺所在。
 文治四年(1188)に足利義兼が開創、開山は退耕行勇と伝える。はじめは密教系の寺院で極楽寺と称していたが、蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅剰に改め、次いで寺名も改称するにいたった。改宗時期は正嘉年間(1257-59)のはじめ、と推定されている。歴代には約翁徳倹・高峰顕日・竺仙梵僊・天岸慧広など、名僧が多い。中興開基は足利貞氏。盛時には三門・仏殿・法堂・禅堂・経堂などが軒を並べ、霊芝庵・瑞龍庵・法雲庵等々の塔頭もあったが、震災や火災で滅んだり廃絶したりして、現在は本堂・庫裡・荒神堂等が伽藍を形作りている。