鎌倉 禅を世界的に広めた鈴木大拙ゆかりの「東慶寺」

 寺号は詳しくは東慶総持禅寺と称する。
 東慶寺は現在は男僧の寺ですが、明治36年(1903年)までは尼寺で、尼五山の第二位の寺でした。後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住持として入寺してから格式の高さを誇った。江戸時代には、豊臣秀頼の娘で、徳川秀忠の養外孫にあたる天秀尼が20世住持として入寺している。
 近代になって、中興の祖とされる釈宗演が寺観を復興した。釈の弟子にあたる鈴木大拙は禅を世界的に広めた人で、寺に隣接して鈴木の収集した仏教書を収めた松ヶ岡文庫があり、世界的禅文化の発展の拠点となりました。

尾道 五重塔から三重塔へ「天寧寺 三重塔」

 「五重塔から三重塔へ」という珍しい三重塔があります。当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。重要文化財に指定されています。建立は1388年(嘉慶2年)。三重塔に姿を変えたのは、それから300年後の1692年(元禄5年)のことでした。
 本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上から心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。

尾道 ピラミッド型に積まれ無縁仏塚「正授院」

 1394年の開基で、もとは禅宗であったが、1596~1614年純誉によって浄土宗に改宗された。本尊は阿弥陀如来。1698~1703年の頃、中興諦誉良頓が発願し常念仏を始めた。
 江戸増上寺法王祐天上人がこのことを賞し、五代将軍綱吉やその母桂昌院にも上申して、家康、秀忠、家光、家綱の歴代将軍とその御台所の尊碑、仏像並びに葵紋付香爐などを下賜された。
 この寺の了般は累進して増上寺四十二世の法主となり大僧正に昇爵した。 鐘楼の南には常念仏一万日ごとに一基、合わせた五基の石柱が並び立ち五万日常念仏成就の功を物語っている。
 明治時代には、外留学の先覚者土居咲吾が、この正授院でも英語塾を開いて後進を導いた。

厚木 戦国毛利氏の祖 季光ゆかりの「光福寺」

 最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して正福寺となった。鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。
 毛利庄(今の厚木市内)の領主毛利季光(すえみつ)入道西阿は送領使となったが、隆寛に帰依きえし奥州喜多方へ送る途中、毛利庄に移し飯山の郷に匿かくまい住ませたという。

鎌倉 洋画家の黒田清輝がアトリエに使った「啓運寺」

 開山は啓運日澄(けいうんにっちょう)です。日澄は、大町名越(おおまちなごえ)の同じ日蓮宗の妙法寺(みょうほうじ)の住職をしていましたが、1483年(文明15年) にこの啓運寺を創立したということです。創立当時お堂は、松葉ケ谷(まつばがやつ)に建てられましたが、その後現在の場所に移転してきたといわれています。
 明治の中ごろ、洋画家として有名な黒田清輝が、この寺の本堂をアトリエに使い、「日蓮の辻説法(つじせっぽう)」の名画を描いたということです。

尾道 太宰府に左遷さる道真が寄った「御袖天満宮」

 石段は、長さ5.2mの一本の花崗岩。
 菅原道真公着衣の袖をご神体とする神社で、大林宣彦監督の映画「転校生」で主人公が石段を転げ落ちるシーンのロケ地としても有名。またテレビアニメ「かみちゅ!」で境内モデルとなった神社。
 雷が鳴ったとき、「くわばら、くわばら」と唱えませんか?
 死後に雷神となった菅原道真は、復習のために各地に雷を落としたという伝説があります。
 しかし、自分の領地桑原には落雷がなかったところから、「私はあなたの故郷の桑原に住んでいる者ですよ。雷を落とさないでください。」という願いを込めて「くわばら、くわばら」と唱えるようになった、ということです。

鎌倉 ぽたもちを日蓮に差し上げた伝説「常栄寺」

 黒塗りの山門があり、門柱の左右に、あざやかな朱塗りの鎌倉彫で作られた聯(れん)といわれる木板がかかっています。右に「ぼたもち寺常栄寺」、左に「たつのくち くびのおんざを ふしおがむ 婆のまごころ ぼたもち常栄寺」という歌が彫られています。
 「棚からぼた餅」といいますが、ここと関係があるのでしょうか?

尾道 室町時代の様式の特徴をとどめる「西郷寺」

 1353年の開基。鎌倉時代末期の正慶年間、遊行六代一鎮によって開かれたと伝えられています。当時は「西江寺」と称されていました。
 西郷寺山門は1362~68年また1395年大一房住持の発願によって建立されたと伝えられています。一説に大一房は備後相方城主の夫人ともいう。板蟇股 破風 懸魚 軒などに室町時代の様式の特徴をとどめています。
 江戸時代前期頃までは、この寺の大門通りには「尼寺十二坊」があったとか、江戸中期以後、川が埋め立てられ、「西郷寺」になったとか。

福山 鞆の浦で二番目に古いお寺「医王寺」

 「医王寺」は他の社寺から少し離れた山手に位置しています。医王寺までの坂道は少なからず急で遠いのですが、境内からの眺望はその苦労に十分値するものです。
 医王寺の足下の街道沿いには、江の浦・「焚場」の集落が道沿いに細.長く広がり、その向こう側に鞆港が大きく弧を描いています。さらに、港の北に広がる鞆の町並みの向こうには、仙酔島が望まれます。晴れた日の早朝にここを訪れれば、その景色を茜に染める朝日に出会うこともできます。

厚木 弘法大師の開山といわれる「松石寺」

 弘法大師が荻野富士(華厳山)と称する山頂付近の岩に経文を記した石を納めたことがことが起源とされている寺院。
 寺院はその山のふもとにあってもと華厳山乗碩寺といった。その後興廃を繰り返したが、天正時代徳川家康は当寺を訪れた際寺の由来を聞いて感じ、松平と経石をからめて松平家が石のように堅固に栄えるようにと短歌を読んだ。その後この寺を松石寺と改称した。 「幾千代もかはらて松の栄えかし みのりの石のいはほならへて」-(家康)
 当初は真言宗で、華厳山乗磧寺と号していた。その後林徳院と改号したこともあった。1475年宗派を曹洞宗に改宗し、寺号も旧に復した。1591年に華厳山松石寺と改めた。

鎌倉 鎌倉幕府、滅亡の地「東勝寺跡」

 東勝寺は、執権北楽泰噂の招きで退耕行勇が開いたと伝えられている大寺院でした。発掘調査によると、階段状の石段が造られ、とりでのようなっくりになっていたらしいことがわかってきました。出土品には、北条氏の家紋である三鱗(みつうろこ)の入った瓦や、中国から渡ってきたと思われる青磁の碗などの破片が見っかっています。
 1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞の鎌倉攻めにより屋敷を焼かれた北条高時は、この東勝寺に一族を集め、堂に火をかけて一族郎党800人余りとともに自害したといわれています。発掘調査の結果火災の跡が見つかりました。

尾道 織田信長を呪い殺す“調伏”か?「西国寺」

 西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山。 ある日、尾道に立ち寄られた行脚の中の行基はその夜、加茂明神の霊夢を見て、その御告げによってこの地に開山したと言い伝えられます。
 西国寺は平安時代の院政期より朝廷との関わりが深く、官寺として大きな影響力を持っていたと考えられます。
 西国一の大寺。徳島大学の学者グループで、この寺の「古文書」が解読されている。その中で、織田信長を呪い殺す“調伏”がこの大寺で行われた、とあります。
 昔から真言密教は、どろどろとした人間の最も暗部の欲望を開放する宗教。人を生かすことも、人を殺すことも宗教の重大な役目だったと。だから信長は光秀に本能寺で殺されたのだろうか? と考えてみるのも面白い。

福山 子授け・安産.航海安全祈願の「阿武兎観音」

 岬の岩頭に建つ朱塗りの観音堂は、その美しさから安藤広重(歌川広重)の浮世絵や志賀直哉の「暗夜行路」などにも紹介されており、今も瀬戸内の自然と調和した見事な景色をつくり出しています。現在、観音堂は国の重要有形文化財に指定され、安産・子育ての観音様として信仰を集めています。

鎌倉 疫病蔓延で退治した蜘蛛を祀る「八雲神社」

 鎌倉最古の厄除開運の神社。平安末期に疫病が流行。その時に、源義光が京都祇園社の祭神をここへ勧請したのが始まり。
 古くは祇園天王社・祇園社と称したが、明治維新に八雲神社に改称された。
 1080年頃に大発生した黒蜘蛛が疫病を蔓延させたが、当時「蜘蛛は益虫」とされていたため駆除ができなかった。 そこに中央より新羅三郎義光(八幡太郎吉家の弟)が、「朝見た蜘蛛は逃がせ、夜見た蜘蛛は殺せ」というスローガンをかかげ、多くの蜘蛛を焼き殺し駆除に成功した。その後、蜘蛛のたたりを恐れ神社が建てられた。当初「焼蜘蛛神社」では気持ちが悪いため、間もなく「祇園天王社」と改められ、その後、「八雲神社」になった。

尾道 自然石に彫られた十六羅漢「済法寺裏山」

 済法寺の裏山斜面に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。
 ただし注意が必要です。見学用の道がないので山で遊んだ経験のある人はともかく、山遊びの経験がない人は、双眼鏡など準備して下から見てください。特に枯れ葉が落ちているシーズンは、滑りやすいので注意してください。

厚木 伊豆の伊東一族子孫の菩提寺「清源院」

 1050年天台宗の桓瞬和尚が開山と伝わる古刹。一時は荒れてたこのお寺を再建したのは、曹洞宗の天巽和尚。
 伊豆の伊東一族の子孫と伝えられている、伊東九郎三郎政世は源清院を菩提寺とし、源清院本堂裏には、政世をはじめとする伊東一族の宝筐印塔が並んでいる。
 伊東氏は、藤原氏南家・藤原為憲の流れをくむ工藤氏の一族で、古く平安時代の末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡の伊東荘(現在の伊東市)の地を本拠としていた豪族であった。

鎌倉 江戸の増上寺に次ぐ学問所「光明寺」

 参道入口の近くに石の門柱があり、「天照山(てんしょうざん)鍛錬所(たんれんじょ)」」と書かれていました。第二次世界大戦中に海軍の軍刀を作った鍛冶場である「天照山鍛錬所」がこのあたりにありました。
 総門の右手前には「関東総本山(かんとうそうほんざん)」と刻まれた太い石の角柱が立ち、目をひきます。また、総門の右手には「大本山光明寺」と書かれた石柱が立っています。

尾道 中世折衷様仏堂建築の代表作「浄土寺」

 境内そのものが国宝(非常にめずらしい)
 1994年7月、境内地全域が「建造物と一体をなしてその価値を形成している土地その他の物件」として本堂とともに国宝に指定されました。
 そんなに広くはない境内に、国宝や重要文化財がたくさんあります。
 この寺は後醍醐天皇と足利尊氏・直義兄弟の両方から帰依され、外護を受けている。山陽屈指の名利です。

座間 家康が鷹狩りの途中に寄った「宗仲寺」

 家康は鷹狩りの途中にこの宗仲寺によっていました。
 鷹狩りは4世紀頃には、既に鷹狩りが行われていました。戦国時代には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康はいずれも鷹狩を好み、気分転換の遊芸にとどめず、身体を鍛える一法とみなし、内臓の働きを促して快食・快眠に資する養生と考えていたことが知られています。
 しかし、鷹狩りの裏には、「伝書鳩での通信の防止」という目的が隠されていたのではないかと思います。それは、ハトが鷹のエサでもあり、鷹がいれば、伝書鳩による通信手段を防止することが出来るのです。

鎌倉 菅原道真の怨霊を鎮めめる「荏柄天神社」

 日本三天神の一つ。太宰府天満宮(福岡)と北野天満宮(京都)
 1104年の創建。荏柄天神社は鶴岡八幡宮が再造営されるさい、旧社殿の用材をもらい受けて建造されることが通例。現在の本殿も関東大震災で被災した鶴岡八幡宮の若宮を移築されたもの。
 天神社は学問・武芸に関わる神として信仰を集めましたが、鎌倉では武家の誓約や武家政権を守る神社とされました。
 本殿(国重文)は、鶴岡八幡宮若宮の旧本殿を移築したもので、鎌倉時代の神社建築を伝える貴重な建物です。