鎌倉 もとは光明寺の境内にあった寺「教恩寺」

 開山は知阿(ちあ)です。小田原北条氏3代目の北条氏康(うじやす)が光明寺境内に建てたのが始まりといわれています。
 このあたりはもと米町(こめまち)と呼ばれていて、ここには以前、光明寺の末寺の善昌寺(ぜんしょうじ)がありましたが、いつの頃か廃寺になり、1678年(延宝6年)、貴誉(きよ)が光明寺境内から教恩寺を現在の大町に移したといわれています。
 1937年(昭和12年)ごろ、境内から古銭がいっぱい入った古い壷が出土しました。銭は中国の宋や明の時代の銅銭で、鎌倉時代や室町時代にこれらの銅銭が使われたことがわかる貴重な資料といえます。

尾道 昔は昼寝寺として有名だったのですが「浄泉寺」

 本尊は阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)  開基は、1525年に宗円が現在の木ノ庄町市原の地に一精舎を建立したのが始めで、その後1596年に現在地に道場を移した。
 大屋根には畳16畳という鬼瓦を東西に頂き、瀑布の流れ下るような瓦の波は近在随一の大伽藍である。
 本堂前の水盤「離垢」の名文は頼山陽の筆で、「浄泉即是萬劫不乾」などの句が読まれる。また、元禄時代の尾道の石工の名工の作、雨受盤をささえる「天邪鬼」は有名。
 昔は「昼寝寺」として有名だったのですが、いまは、たばこでの火災危険のため禁止になって随分たちました。

厚木 飯山の観音さんとして知られる「長谷寺」

 当山は神亀二年(725)奈良時代の高僧、行基により開かれ初めは飯山寺と呼ばれていました。
 その後、大同二年(807)弘法大師が真言密教の場としたと言われ、この地の領主飯山権太夫が深く信仰し伽藍を建立したと伝えられています。
 弘法大師空海は最澄と同時代人で、しかも非常に深い交流がございました。もともと彼らはどちらも遣唐使の一員として、同じ船団で唐に渡っています。二人は乗った船も違っていたようです。空海は、中国の長安まで行き、その当時の「真言密教の最高峰」と呼ばれていた青龍寺の恵果阿闍梨に学び、免許皆伝のようなものを受けた人です。

尾道 豪壮な山門「ええもん」と呼ばれる「福善寺」

 山門は、四脚門(よつあしもん)で本瓦葺の切妻造となっており、軒丸瓦の円形瓦頭(がとう)は烏丸家(からすまるけ)の家紋である鶴丸の文様となっている。
 欄間には豪壮な龍の彫り物が施されている。
 幕末のころ、第11代住持であった性円が妻を京都の烏丸大納言家から迎えたとき、尾道の大工が京都制作された彫刻を引き継いでこの山門を組み立てたという。
 「ええもん」と呼ばれ、方言として、良い物を「ええもん」と言っています。
 尾道の子供たちが、親にねだるときに「なんかええもんこうてえ(買って)」とおねだりすると、親は「ええもんは福善寺」と言って、ごまかしていたとか。

鎌倉 門前に[源頼朝公祈願所]の石碑「補陀洛寺」

 この寺は南向山(なんこうざん)という山号をもつ真言宗の寺で、源頼朝が文覚(もんがく)を開山として1181年(養和元年)に建てたといわれます。もとは七堂伽藍という建物がそろった大きな寺院であったということです。その後、だいぶ荒れてしまいましたが、文和年間(1352~1356年)に、鶴岡八幡宮の供僧(ぐそう)だった頼基(らいき)が復興したと伝えられています。
 行基の作と伝えられる薬師如来像がおられます。
 薬師如来のご利益は、密教の七仏薬師法を行えば、滅重罪(めつじゆうざい)から除病至菩提(じよびょうしぼだい)にはじまって、除病延命、産生安穏(さんしようあんのん)、天変、風雨、時節反逆の難まで、あらゆることにご利益があるとされていす。
 抽象的なご利益ばかりの他の如来より、病気治療をはじめ、呪詛を封じ、災害や反逆から護ってくれる薬師如来は頼りになったのでしょうね。

厚木 古い石仏が掘り出された「金剛寺」

 飯山金剛寺の大師堂に、神仏が八人の翁に化身して現れたという言い伝えがあります。
 最乗寺(南足柄市)の輪番にあたった三田村の清源院の四世忠州は、最乗寺へ向かう途中、この大師堂に立ち寄ってお経を上げていると、「ここで一夜を明かせ」という八人の翁の声がしました。翁達は、退廃しているお堂の再興を依頼して夜明けに帰っていきました。
 八人の翁は・観音様・黒地蔵・白地蔵・白山権現・不動尊・竜蔵権現・熊野権現・稲荷明神とわかり、大師堂は、金剛寺と忠州によって復興されました。
 この大師堂の周りに、畑から掘り出された数多くの石仏が並べ置かれています。

尾道 空海入唐の頃には既に開かれていた「大山寺」

「愛宕山の日限地蔵」

 往昔、釈迦如来が在世のさい、地蔵菩薩を召して日く「われ入涅槃すれば弥勒菩薩出世の暁まで五十六億七千万年なり、この間娑婆世界に於いて諸々の悪業をつくり五濁濫漫の苦海に沈める薄福重障の衆生をば済度し、永く悪道を離れて仏道を成せらしめよ」と-。この時から地蔵は我が身を百千億にもわかち民衆救済のため路傍にたたれた。
 日限地蔵は数百年前からこの地にありて、幕末ごろ現在のお堂の東手から移り住われた。

鎌倉 石段下に星ノ井のある「虚空蔵堂」

 極楽寺切通を往き還る旅人たちは、伝えとこの水を愛でて、ひとときを井戸のほとりの茶店に憩いました。慶長五年(1600)六月、京都より江戸への帰りに、ここを通った家康もこの名井を見学して行ったという記録も残っていますが、忙中閑あり、というのでしょうか、まことに奥床しい心がけと思います。
 その後、近くに住む下女が菜ワ切り包丁を、あやまって井戸へ落してしまい、それからというものは井戸はいやな顔をしてしまい、星を映さなくなったということです。
 石段を上ると虚空蔵堂があります。
 本尊の虚空像菩薩(ぼさつ)は、はかり知れない福徳と知恵をそなえて常に人々にこれを与え、すべての人の願いごとをかなえてくださる仏様といわれています。

相模原南区西部 旧磯部村の鎮守「八幡宮」

 磯部八幡宮はもともと源氏の氏神であるとされ、境内には三社神、金刀比羅神社、山神宮、疱瘡神、稲荷社などが点在しているほか、御神像の仏弥陀が奉斉されている。
 神社の創建時期は明らかでないが、1358年以前にはすでに旧磯部村の鎮守としてこの地で民衆の信仰を集めていたと見られている。
 この社を開いたのは鎌倉から来訪した山伏祐圓で、別当は小田原玉瀧坊觸下の佛像院磯幡山神宮寺。1478年、太田道灌勢により陥落するまで磯部地内には城(城主長尾景春)があった。

尾道 市立美術館から千光寺間にある「鼓岩」

 鼓岩(つづみ岩)、別名ポンポン岩と呼ばれ、岩の上を石で打つと「ポンポン」と鼓のような音がします。
 右側の岩の傷は大阪城築城の時、石垣材として搬出すべく割りかけたノミの跡だといわれています。
 ここには【民話 鼓岩とお姫様】のお話があります。

鎌倉 季節の花木や野草が咲き乱れる「収玄寺」

 1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。
 創立当初は収玄庵と称したが大正末期の本堂改築を機に収玄寺と改称した。
 四条金吾は医術にも造詣が深く鎌倉、佐渡、身延にと終始日蓮聖人に給仕し法華信者の鑑として大聖人より厚い信頼を受けた。

厚木 旧名妙見宮(天之御中主神)を祀った「鐘鋳神社」

 御祭神:日本根古皇続弥照命(やまとねこすめらつぎいやてるみこと)
 旧名:妙見宮(天之御中主神)。北斗七星を神格化して祭ったもの。

 風土記稿によれば1629年 村民難波富右衛門が本国下総(千葉県)の原社を勧請したという。また地名の中金井について「古は金鋳と書し、上中下に分け唱へしなり、此所は鋳工銅銕を鋳し地にて、今も地中より銕屑でると云」 としている。 鋳物師が活動してゐた記録があり、当社の「鐘鋳」の社名はこれに因んでいる。ご神体は銅製の男神立像。

福山 鞆 たくさんのお地蔵様が「正法寺」

 1598(慶長3)年に創建された臨済宗の「正法寺」。京都の東福寺派・守意を開祖とした400年の長い歴史を持つお寺で、江戸時代には朝鮮通信使の常宿としても利用された名刹です。
 境内のお堂には、鞆町の信者により寄進された十六羅漢像が安置されていますが、実はもうひとつ、隠された十六羅漢があるのです。それが、奥座敷にある十六羅漢の屏風絵です。この水墨画は、鞆の絵師・門田勝人さんの筆によるもの。ふたつの十六羅漢、ぜひ鑑賞したいものです。また、お寺の鬼門の北方には、毘沙門天も安置されています。

尾道 幕末、芸州藩が派兵し、この寺を本陣に「妙宣寺」

 後醍醐天皇の第三王子でありながら出家した大覚大僧正が正平年中(1346~)全国を旅し布教の途次、鞆から本郷に出て尾道入りし、番所からこの谷を下られ、同所で説法され滞在されたとか。このあと長江一丁目妙宣寺の建立を発願され、同寺は1354年に完成している。本尊は法華宝塔釈迦牟尼仏である。寺記によると、1615~1623年の頃、寺運が衰えたが、1708年本堂を再興し、次いで1782年現在の本堂を再建した。

 幕末の風雲急を告げる1867年の末、芸州藩は片岡大記を大隊長とする一個大隊を派兵し、この寺を本陣として尾道を鎮め東の福山藩に備えた。この寺は尾道地方に数少ない幕末維新の史跡である。 

鎌倉 水戸光圀が7日間ほど逗留「英勝寺」

 奥に入ると仏殿が南に向き、その前は関東大震災後に、小町に移されていた山門の再建が行われています。楼上(ろうじょう)にあった十六羅漢(らかん)像は収蔵庫や鎌倉国宝館に保存されています。
 仏殿の屋根は裳階(もこし)という下屋根をつけて2重になっており、軒下の「かえる股(また)」には十二支の彫刻があります。仏殿には徳川家光(いえみつ)寄進の阿弥陀三尊(あみださんぞん)像を中心に善導(ぜんどう)・法然(ほうねん)大師の木像が安置されています。

厚木 カッパの雨乞いの伝説「白山神社」

 飯山観音の裏に白山(はくさん)という山があります。その頂上に大きな楠が立っていて、そのかたわらに小さな池があります。白山池といって、不思議な言い伝えがあります。

 むかしむかしのことです。白山の麓に住むお百姓さん達は、毎年夏の日照りに苦しんでいました。
 ある夏の日のことでした。一人のお百姓が白山池で釣りをしていました。たくさん釣れたので帰ろうとしましたが、あれ?びくの中に魚は一匹もいません。「どうしたことだ」と辺りを見回すと、魚を口にくわえたカッパがいました。カッパは、お百姓に気付くと、ザンブと池に飛び込みました。怒ったお百姓は、池の水を干し上げてしまいました。………

尾道 斜張橋で初の最大支間200m超え「尾道大橋」

1968年(昭和43年)3月に尾道大橋有料道路として開通。
2013年(平成25年)3月31日に料金徴収期間満了し無料開放された。
 本州本土と向島の間にある幅約200mの尾道水道を結んでいる。
  ・全   長   : 386m
  ・最大支間長   : 215m
  ・海面からの主塔高: 約76m
  ・海面からの路面高:  34m
  ・形   式   :3径間連続鋼箱桁放射形斜張橋
 尾道大橋は,我が国で建設される斜張橋では初めて最大支間が200mを超え,本格的斜張橋の先駆けとして、綿密な検討をし架けられました。

座間 欽明天皇(539年即位)の御代に創祀「鈴鹿明神社」

 欽明天皇二十八年(567)に、国中が天候不順で五穀が実らず人々が困窮していた。欽明天皇がト部伊吉若日子に天災の原因を占わせると、賀茂の神々の祟りだと分かった。そこで賀茂県主家が四月吉日を選んで馬に鈴をかけ、人は猪頭をつけて駆競をすると天候は回復して五穀は実り、人々も平穏を取り戻したという。このときから、水を司る竜神として、恵みの雨を降らし、また水害をもたらす雷神が注目されました。
 雷神は人びとを恐怖のどん底に突き落とす崇り神の象徴となったのですが、逆に、雷が落ちなければ豊作は望めないという信仰がありました。
 最近、科学的にも雷は稲の実りを良くすると言われています。

福山 鞆 箏曲家宮城道雄の先祖墓がある「南禅坊」

 天正年間(1573~1591年)に創建したと伝えられる。
  元々、福禅寺下にあったが、江戸中期(正徳年間・1711~1715年頃)に現在地に移転する。 寺院調査の中で、「梵鐘一件記録」が発見され、鐘の供出を巡る経過を詳しく記した史料として貴重である。かって、その鐘があった鐘楼門(山門)は現存する。
  なお、境内には、宮城道雄(「春の海」(箏と尺八)の作曲家・箏曲家)の先祖墓がある。 江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。

鎌倉 もとは諏訪氏の屋敷内にあった守護神「諏訪神社」

 現在市役所の駐車場になっているところに諏訪池があり、その池の東のほとりに諏訪神社がまつられていました。その周囲は諏訪の森と呼ばれるほど樹木が繋っていましたが、今は市庁舎側の歩道にわずかに大木が残るだけです。
 諏訪神社は現在、商工会議所西側の御成トンネル右手前に移され、社殿も鳥居も再建されています。この神社は、誠訪盛澄(すわもりずみ)・盛重(もりしげ)の邸内の守護神としてまつられたものということです。
 現在諏訪神社がおかれている場所には、以前簡易裁判所がありましたが、現在は由比ガ浜に移されています。