鎌倉 観音さまを安置するのによい場所「杉本寺」

 鎌倉で最も古い天台宗の寺です。寺の伝えによると、731年(天平3年)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、
 「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」
と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。現在、本堂内に本尊として三体の十一面観音像がまつられていますが、内陣の左側に立っている平安時代のころの作という本尊がこれだといわれています。

2022年3月新しい展望台が「千光寺山 山頂」

 2022年3月 新しい展望台がオープンしました。愛称は、「頂上」を意味する「PEAK(ピーク)」だそうです。展望デッキの長さ63m、東-南-西側の尾道水道や旧市街大パノラマで楽しむことができます。
 ロープウェイの山頂駅と接続したエレベータが設置されているので、ベビーカーや車いすの人も安心してご利用いただけます。
 設計は、建築設計事務所「AS」です。

福山 鞆の大仏とも、阿彌陀如来坐像「阿弥陀寺」

 木造阿彌陀如来坐像(鞆の大仏) 光背までの高さ約4m 。元禄16年(1703)に作られた丈六の大仏。
 造像を発願した中興・雲洞上人は、多くの人々を救いたいと願っていたところ、現に阿弥陀さまが現れ、その姿をもとに仏師に願いこの像を作ったといいます。

 「お釈迦になる」という言葉があります。なぜお釈迦になったらいけないのか。これは、仏師の人が阿弥陀さんや観音さんなど、他の仏さんの注文を受けてこしらえたはずなのに、お釈迦さんができてしまった。これでは商売にならない。だから「お釈迦になった」といわれるようになったとか。

鎌倉 明治維新、南朝の復活か「日野俊基朝臣の墓」

 俊基の墓は国指定の史跡となっており、1887年(明治20年)に俊基の霊を祀る葛原岡神社が建てられています。
 日野俊基は文書(もんじょ)博士で、出世したので、学問の神様としての信仰も集めています。
 南朝の忠臣としてその功ならず、元弘二年(1332)悲憤の最後を偲んで、別格官幣社に昇格ずる運動があったが、実現しなかった。戦後単立法人となった。
 現在は由比ガ浜地区の鎮守として信仰されています。鳥居の左手に社務所と神輿庫(みこしこ)があります。

尾道 もとは祇園社、祭は今も祇園祭「八阪神社」

色町の中の神域

 尾道市久保二丁目、八坂神社(やさかじんじゃ)は歓楽街囲まれた場所にあり、このあたりは、かつて海の中に突き出しており、「築島」と呼ばれたようです。もとは西久保、常称寺境内にあり、明治元年の神仏分離令により、厳島神社に合祀され、翌二年に現在の場所に移りました。その為、鳥居には「八坂神社」と「厳島神社」の額がかかっています。周阴に遊郭が多かった時期には、この神社に遊女のお参りが絶えなかったそうです。

厚木 梅樹に明星が降臨したという「妙伝寺」

 妙傳寺は、文永8年(1271)日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流される際、当地にあったとされる本間六郎左衛門尉重連宅内の観音堂に逗留、月に向かい法楽したところ、邸宅内の梅樹に明星が降臨する奇瑞が顕れたところから、本間六郎左衛門尉重連が帰依しました。
 日蓮上人は曼荼羅を授与、弘安元年(1278)には僧日源が草庵を営み、日蓮上人を勧請開山、本間重連・重直兄弟を開基として創建しました。

鎌倉 新田義貞が鎌倉攻め本陣跡に建てた「九品寺」

 創建は1336年 九品寺は、新田義貞が京より招いた風航順西が開山。この地は義貞が鎌倉攻めの際に本陣を構えたところとされ、北条方の戦死者を弔うために建立された。
 鎌倉では唯一の義貞が建立した寺で、山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の掲額は、義貞の筆蹟と伝えられている。
 1333年 新田義貞は5月8日自国を出発、徐々に軍勢を整え、鎌倉に攻め上った。5月22日 稲村ケ崎で“剣を投じて奇跡”を起し、そして一気に中心に向かって侵攻。材木座海岸からまわりこんで、この地に陣を構えた。 町の中はあちらこちらに火が放たれ、猛火が罪のない人々を襲い、阿鼻地獄のようになった。
 北条方も勇猛に戦ったが利あらず、同日東勝寺にて、北条高時はじめ多くの一族郎党、八百七十余人が自刃したと 伝えられている。

尾道 天保の大飢饉の慈善事業で本堂を建築「慈観寺」

 本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた=柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。
 江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。 本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた=柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。
 江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。

鎌倉 太田道灌の屋敷跡と伝わる「英勝寺」

 ここは、もと扇ヶ谷(おおぎがやつ)上杉家の家老のような役目だった太田道灌(おおたどうかん)の屋敷のあったところといわれています。そばにある「太田道灌邸旧蹟(きゅうせき)」の史跡案内の石碑には、太田道潅やお勝の局(つぼね)についての説明が刻まれています。
 この寺を建てた英勝院は太田道潅の4代の孫太田康資(やすすけ)の娘で、徳川家康(とくがわいえやす)の側に仕えてお勝(かつ)の局(つぼね)と呼ばれていました。家康の信頼厚く、後に水戸家初代の徳川頼房(よりふさ)の養母となった人です。家康が亡くなると、尼(あま)となり英勝院と呼ばれました。やがて祖先ゆかりの地を3代将軍家光からいただき、1636年(寛延3年)に英勝寺を完成させました。

福山 昔の商人の姿が残る「鞆の津の商家」

 かつてこのあたりは道の傾斜があまりにも急で、荷車の難所でした。誰かが手を貸して後ろから押さないと坂を上れなかったため、荷車をあと押しするアルバイトがあったそうです。
 現在では、敷地の角の辺りで道の部分を1m近く掘り下げて、傾斜をなだらかにしていす。 よく見ると、建物の石造りの基礎の下にコンクリートの壁が造られていて、まるで建物を持ち上げたように改造がされています。

鎌倉 開山は空海と伝えられる「浄泉寺」

 以前は、山門も本堂も、江ノ電の線路の方を向いて建っていましたが、1955年(昭和30年)に国道134号線が造られた際に現在の位置に移されました。国道の工事中の1954年(昭和29年)に、浄泉寺墓地の南側と小動神社境内から、開元通宝(かいげんつうほう)・治平(じへい)通宝・政和(せいわ)通宝・洪武(こうぶ)通宝その他、宋(そう)や明(みん)の古銭が1000枚以上、約60kgも出土しました。

厚木 古民家は、当時の生活を色濃く伝える「岸邸」

 厚木市古民家岸邸として開館されています。古民家岸邸は、郷土に残された貴重な文化遺産として、皆さんに公開しながら長く保存をしていきます、と。
 古民家は建築様式や各部屋の使われ方や呼び方など、その地方の特色を色濃く残しており、歴史や文化を考える上で貴重な文化遺産であるといえます。
 岸家住宅は、広大な屋敷の入リロに薬医門を構え、主屋の他に土蔵3棟があります。建築年代は、「本宅上棟式祝儀受納帳」や棟札などから、主屋が明治24年(1891)、薬医門が明治19年(1886)と考えられます。

尾道 豪商の寄進で再建〈持善院〉

 1994年境内に祀られ長寿の神として知られる「多賀皇神社」も新しく建て替えられました。
 国生み神話の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)をお祀りしています。伊勢神宮に祀られている天照大神(あまてらすおおみかみ)の御親にあたる神様で、昔から「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」といわれ、除災招福、特に寿命の神様として信仰されています。(持善院ホームページより)
 向拝に竹を編んで作られた「龍の注連縄」が張られています。

鎌倉 昔の高い道のところに置き去り「成就院」

 平安時代の初期、真言宗の開祖である弘法大師さま空海がこの地を訪れ、景勝地だったこの地で数日間に渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法(真言を百日間かけて百万回唱えるというもの)を修したという霊跡に、1219年に鎌倉幕府第三代の執権北条泰時は京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立し、普明山法立寺成就院と称した。

 1333年新田義貞の鎌倉攻めの戦火にて寺は焼失し、奥の西が谷に移っていたが江戸時代の元禄期(1688年~1703年)に再びこの地に戻り、僧祐尊により再興され現在にいたっている。

座間 家康が鷹狩りの途中に寄った「宗仲寺」

 宗仲寺は家康と関係の深い寺である。この寺の開基は内藤清成で、家康の側近として活躍した人であり、開山源栄上人も若いころから家康と親交があった上人である。
 家康は鷹狩りを好み平塚に中原御殿、府中に府中御殿を建て、しばしば鷹狩りを催したといわれる。座間宿村は、中原御殿へ四里(約16km)府中御殿へ六里(約24km)という位置にあり、鷹狩りの道筋にあたっていたため、三回この宗仲寺にたちよって源栄と談話したことが、いくつかの史料の中に残されている。
 鷹狩りの獲物はハト、このお寺の裏には鳩川が流れています。
 ところで、日本には伝書鳩がいたにもかかわらず、伝書鳩の話はほとんどないですね。唯一知っているのは、尾道にある浄土寺の話だけです!

尾道 尾道で最初にできた神社「艮神社」

 艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。
 同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。

 「艮」という字は、会意(二字以上の漢字を組み合わせ,同時にそれぞれの意味をも合わせて一字の漢字とすること)は、「目+人」で、「目」は呪的な目的で聖所に掲げられている邪眼。その下に、後ろ向きに退く「人」の形になっており、侵入者が邪眼を恐れ、退く意味だそうです。

鎌倉滅亡の際の兵火で全焼、再建した「海蔵寺」

 もとは真言宗(しんごんしゅう)の寺でしたが、1253年(建長5年)鎌倉幕府6代将軍宗尊親主(むねたかしんのう)の命により、藤原仲能(ふじわらなかよし)が七堂伽藍を有する海蔵寺を創建したとあります。しかし、1333年(元弘3年)の鎌倉幕府滅亡の時に焼失してしまいました。
 その後1394年(応永元年)鎌倉公方(くぼう)足利氏満(あしかがうじみつ)の命により、上杉氏定(うえすぎうじさだ)が源翁禅師(げんのうぜんじ)(心昭空外(しんしょうくうがい))を開山に招いて再建しました。それからは扇ヶ谷上杉氏の保護を受けて栄え、1577年(天正5年)に建長寺(けんちょうじ)に属し、現在に至っています。
 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

福山 鞆 坂本龍馬は策略士だった「いろは丸展示館」

 いろは丸事件ば、慶応3年(1867)4月、龍馬は海援隊を組織し伊予大洲藩から借げ受けた西洋式の蒸気船「いろは丸」に乗って長崎から大坂に物資(鉄砲)を運ぶ途中、岡山県六島沖(現在の同県笠岡市)で、紀州藩の蒸気船「明光丸」に横から衝突されたのです。
 明光丸は鞆港へ向けて、いろは丸を曳航しようとしましたが、浸水のため宇治府沖で沈没してしまいました。
 このため両者は鞆の浦にとどまりの損害賠償について昼ゆ夜交渉を繰り返しましたが決裂し、舞台を長崎に移して再交渉を行いました。
 龍馬は、交渉の部隊を長崎に移すことで時間稼ぎをし、その時間を利用し、様々な工作を行ったようです。
 最終的に、龍馬側が賠償金を受け取る、ことでようやく決着しました。
 この事件は、坂本龍馬が暗殺される半年前のことです。

座間 野火が延焼して焼失、現在の地へ「星谷寺」

 行基菩薩が諸国教化の際当地で金光星の如く山谷に輝くのを見て、自ら聖観音の像を彫刻し、堂宇を営み星の谷観音堂として建立されたもの。
 本尊は聖観音菩薩で、坂東八番の札所として著名な真言宗大覚寺派の寺院です。寺の縁起によれば奈良時代・聖武天皇の御代(724~748年)に高僧行基により営まれた堂宇が寺の起こりとされます。嘉禄三年紀梵鐘(国重要文化財)、宝篋印塔や文書類(座間市重要文化財)など、多くの寺宝を伝えます。

鎌倉 源頼朝の娘、大姫、哀しい話が「岩舟地蔵」

 頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、木曽で兵を挙げた後、長男の義高(よしたか)を人質として鎌倉によこしました。
 頼朝は、義高をまだ幼い大姫の許婚者にしました。その後義仲を近江の粟津(あわづ)で討った頼朝は、義高も殺してしまおうと時をうかがっていました。政子は夫の考えを知ると、義高と仲の良い大姫の気持ちを思い、ある日、義高に女性の衣装を着せてまだ夜の明けきらぬうちにそっと馬で逃がしました。義高の家来が、一日中「双六(すごろく)」という二人でする遊びを一人でして、義高がいるように見せかけました。ところが頼朝はそれに気づき、義高を探し出して討ちとるように命令しました。数日後、義高は武蔵の入間川の河原でつかまり、首を切られました。この時の2人の年齢は、義高は12歳、大姫は6歳ぐらいだったといわれています。こののち大姫は、義高を慕って病気になり、若くして世を去りました。
 頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、木曽で兵を挙げた後、長男の義高(よしたか)を人質として鎌倉によこしました。
 頼朝は、義高をまだ幼い大姫の許婚者にしました。その後義仲を近江の粟津(あわづ)で討った頼朝は、義高も殺してしまおうと時をうかがっていました。政子は夫の考えを知ると、義高と仲の良い大姫の気持ちを思い、ある日、義高に女性の衣装を着せてまだ夜の明けきらぬうちにそっと馬で逃がしました。義高の家来が、一日中「双六(すごろく)」という二人でする遊びを一人でして、義高がいるように見せかけました。ところが頼朝はそれに気づき、義高を探し出して討ちとるように命令しました。数日後、義高は武蔵の入間川の河原でつかまり、首を切られました。この時の2人の年齢は、義高は12歳、大姫は6歳ぐらいだったといわれています。こののち大姫は、義高を慕って病気になり、若くして世を去りました。