鎌倉 日本三天神の一つ「荏柄天神社」

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 菅原道真を祀る荏柄天神社は古来学問の神として信仰が厚く、大宰府・北野と並んで三天神とよばれ、室町時代以降、詩歌の献詠が盛んであった。また寃罪を判ずるとする古い信仰もあって、『吾妻鏡』に渋川守兼の歌を献じて至心を訴えた記事が見えている。
  右大臣だった道真は、政敵・藤原時平の陰謀で大宰府に流され、生涯を終えます。
 その死後から、皇居に雷が落ちたり、道真の失脚にかかわった人びとに不幸が襲ったりしました。人びとはこれらを道真のたたりと考え、霊をしずめるために社を建ててまつりました。

鎌倉 女性が人生やり直しの避難だった「東慶寺」

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 寺号は詳しくは東慶総持禅寺と称する。
 東慶寺は現在は男僧の寺ですが、明治36年(1903年)までは尼寺で、尼五山の第二位の寺でした。後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住持として入寺してから格式の高さを誇った。江戸時代には、豊臣秀頼の娘で、徳川秀忠の養外孫にあたる天秀尼が20世住持として入寺している。
 近代になって、中興の祖とされる釈宗演が寺観を復興した。釈の弟子にあたる鈴木大拙は禅を世界的に広めた人で、寺に隣接して鈴木の収集した仏教書を収めた松ヶ岡文庫があり、世界的禅文化の発展の拠点となりました。

鎌倉 幕府の守り神の夷神を祀った「本覚寺」

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 この寺を開いた人は、一乗院日出(にっしゅつ)です。この人は、寺の縁起によればもとは学者でしたが後に日蓮宗の僧になりました。生まれた所は、駿河の国(今の静岡県)三島で、いろいろな迫害や苦労にたえられる修行をしました。その後、鎌倉の夷堂(えびすどう)に住み、教えを広めようとしましたが、他の宗派の人々の反対にあい、鎌倉公方足利持氏(あしかがもちうじ)に捕えられ、刑場で殺されそうになりました。しかし、夷神(えびすがみ)のお告げにより許されたといわれます。このことがあって持氏は、夷堂のあったところに本覚寺を建てて日出に寄進したそうです。

鎌倉 源氏の白旗を立て戦勝を祈願「源氏山公園」

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 源氏山は、奥羽を舞台とする後三年の役(1083~1087年)で八幡太郎義家が出陣するときに、この山上に源氏の白旗を立てて戦勝を祈ったところから「源氏山」とか「旗立山」といわれるようになったといいます。
 白旗山または旗立山とよばれたこともあるようです。緑豊かな自然に囲まれ、公園のすぐわきには、鎌倉の七切通しの一つであり、国の史跡でもある化粧坂が、園内には頼朝像・広場などがあります。
 春には桜、秋には紅葉が楽しめます。

鎌倉 百観音がある「円覚寺 大方丈」

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 円覚寺方丈前の百観音は江戸時代、拙隻尊者が百体の石仏を岩窟に泰安したことが由緒となり、明治に至って今北洪川老師が整備されました。
 円覚寺の百観音を結願所として円覚寺派の寺院に百観音巡礼の札所が開設されました。
 昔は、霊場に写経を納め、その際に納経印をいただいていましたが、それが現在の御納経帳または御朱印帳に変わったものとされています。行く先々の霊場で観音さまの由来を知り、観音さまの御利益にあずかり、観音さまを念じながらお参りされると、心が清浄になり安心を得られることと思います。

鎌倉 腰越状を書いた寺「満福寺」

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 元暦2年(1185年)5月、源義経が兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを許されず腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺として知られる。寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示されており、境内には弁慶の腰掛け石や手玉石など、義経・弁慶ゆかりの品々が多数展示されている。
 平清盛の温情に助けられた源頼朝は、結果として、弟の義経、範頼を見誤り自らの手で葬った。当時の武士は、いまの暴力団よりも怖い存在のようですから、組織の維持にはやむを得なかったのでしょうか?

鎌倉 「北条義時法華堂跡、大江広元の墓」

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 大江広元、毛利秀光(大江広元の四男…長州藩主・毛利氏の祖)、島津忠久(薩摩藩主・島津氏の祖)の墓。
 島津忠久の墓は1779年に修造、大江広元の墓は1823年に造られたもの。薩長同盟が1866年、もと鎌倉御家人で、三浦一族が亡んだとき、大きな打撃を受けた両家を先祖とする長州と薩摩が、江戸後期においても、なんとなく親近感が残っていたのでしょう。それが、明治維新に手を結んだ一因になったのでしょうか。なお、毛利秀光の墓は元々は鶴岡八幡宮の西にある「志一稲荷」の近くにあり、大正時代になってここに移されました。

鎌倉 瘡守稲荷と鬼子母神が祀られる「上行寺」

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 日蓮上人の孫弟子にあたる日範上人が1313年に開山した寺院。すべての病(特に癌)ご利益があるとされる瘡守稲荷(かさもりいなり)と、身がわり鬼子母神が祀られている。
 1860年 桜田門外で井伊直弼を襲った水戸浪士のひとり広木松之介が捕縛を逃れ、北陸、越後をへて上行寺にいたり、襲撃3年目に自刃したとか。

鎌倉 日親21歳、百日境内の池で修行「妙隆寺」

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 寺伝によると、1385年(至徳2年)、日英を迎えて寺か建立されたそうです。
 山門を入ると、正面の本堂の右手には「血の池」と呼ばれる日上人修行の池があります。その奥には、日親石像を安置する日親堂があります。
 日親が21歳のとき、「仏の教えを広めるためには、苦しみに負けないように修行しなければならない」と考え、百日間境内の池で水を浴びてお経を唱えました。それから、毎日自分の爪を1本ずっ抜き、出てきた血で墨をすり十界の曼荼羅(まんだら)をかいたそうです。そして、熱い湯の中に手を入れ、その湯がさめるまでお経を唱えたそうです。曼荼羅とは仏の世界や教えをわかりやすく図に示したものです。

鎌倉 日本三虚空蔵ともいわれる「虚空蔵堂」

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 聖武天皇の時代の730年 行基が全国行脚の途中、ここで頭脳明晰、記憶力増進をかはる虚空蔵求聞持法(頭脳明晰・記憶力増進の秘宝)の修行したときの伝説が残されている。
 本尊は虚空菩薩(智慧と頭脳明晰と広大無辺の宇宙を掌る仏様)で、行基が彫って祀ったと伝えられている。その後、源頼朝が、秘仏として35年に1度だけ開帳するように命じたと伝わる。現在は、毎年1月13日に御開帳して拝める。
 また、1月、5月、9月の13日には「護摩焚き供養」が行われている。

鎌倉 疫病流行時に祇園社の神霊を勧請「八雲神社」

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 祭神:素盞嗚命(スサノオノミコト)
 1224年 鎌倉時代、疫病が流行した際に、村人が祇園八坂社の神霊を勧請したと伝えられる。また、室町時代に、関東管領上杉憲房が武運長久を祈願し京都から勧請したという説もある。

鎌倉 増上寺に次ぐ学問所として選ばれた「光明寺」

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 光明寺はその後一時衰えたようですが、江戸時代に徳川家康が、浄土宗の学問所として関東の主な寺院十八寺を十八檀林という有名な学問所と定めたとき、光明寺は江戸の芝にある増上寺に次ぐ学問所として選ばれ、大いに栄えました。また、光明寺は、家康などの将軍から寺領の寄進を受けただけでなく、大名の内藤家からも寄進を受け、内藤家の菩提寺となってからは大名寺としても栄えました。

鎌倉 火災を防ぎ盗難を除く「秋葉大権現」

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 天照山光明寺第三十二世傳察上人は、80才の時、当山の鎮護と火防の守護神として秋葉大権現を勧請しようと念じ給じたところ、上人は生身のまま天狗に変じ、光明寺の上空に飛び、「われこそは秋葉大権なり、全市全町の火災を防ぎ盗難を除く、われを念ずる者は火の災いをのがれしめ、願いのある者はその願いを成就せしめ、各家無病息災ならしめん……」との声を発して消えたという。
 この日以後数百年、当秋葉講は江戸時代、江戸の人々も参詣していた。

鎌倉 元は妙法寺だった「啓運寺」

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 開山は啓運日澄(にっちょう)です。日澄は、大町名越の同じ日蓮宗の妙法寺の住職をしていましたが、1483年(文明15年) にこの啓運寺を創立したということです。創立当時お堂は、松葉ケ谷に建てられましたが、その後現在の場所に移転してきたといわれています。
 日澄は、博学で多くの知識をもち、徳の高い名僧といわれた人で、法華経を研究して55巻からなる『啓運抄』という書物を1503年(文亀3年)出版しています。そのほかにも多くの本を書き残した学僧でした。

鎌倉 頼義が勝利の感謝のため勧請「元鶴岡八幡宮」

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 由比若宮、由比八幡宮ともいう。
 1063年、陸奥守に任じられていた源頼義(頼朝の5代前)は、陸奥の豪族阿部氏を討つため、勝利を源氏の氏神である山城(京都)の石清水八幡宮に祈願した。その戦いの勝利に感謝するため、頼義は鎌倉に石清水八幡宮を勧請した。それが鶴岡八幡宮(元鶴岡八幡宮)です。 その後、1081年、源義家(頼朝の4代前)修復した。
 源頼朝が鎌倉に入り、先祖を崇めるため、1180年、鶴岡八幡宮を小林郷松ヶ丘に遷した。それが現在の鶴岡八幡宮です。

鎌倉 明治天皇が神社造営の勅令を発した「鎌倉宮」

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 明治天皇は、哀しい最期をとげた護良親王(武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王)の功の偉勲をたたえるべく、神社造営の勅令を発し、東光寺跡に1869年7月創建された。
 本殿の後方にある土手の穴が、親王がおよそ9か月間幽閉されていた土牢であるという古伝承がある。

鎌倉 もとは真言宗能蔵寺だった「来迎寺」

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 1194年、源頼朝が鎌倉幕府の礎石となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまり。
 当時、能蔵寺の名前は、この付近の地名として使われていた。頼朝が亡くなった後、音阿上人が時宗に改宗し、来迎寺に改名した。
 本尊には義明の守護仏とされる阿弥陀三尊立像のほか、子育て観音と親しまれる聖観音が祀られている。墓地の奥には義明の墓や、平家方の畠山軍に17歳の若さで殺された多々良三郎重春の墓と伝えられる五輪塔もある。

鎌倉 今宮神社ともいう「新宮神社」

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 祭神は後鳥羽天皇、順徳天皇、土御門天皇。
 「承久の乱」(1212年)の朝廷側の人物たちで、幕府は勝利をおさめ、後鳥羽帝を隠岐へ、順徳帝を佐渡に配流し、両帝ともその地で歿した。また、土御門帝はみずから土佐、のちに阿波へおもむいた。
 その争いに勝つには勝ったものの、幕府は後鳥羽帝の怨霊をおそれ(実際にさまざまな怪異が生じたという)、1247年(宝治元年)四月に当社を創建した。そのときか、のちのことか不詳ながら、順徳帝を合祀、土御門帝は明治以降の合祀である。

鎌倉 日限地蔵に願いを「安養院」

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 もと浄土宗名越派の本町山。その後京都知恩院の末寺となったが、浄土宗の本寺末寺制度の解体によって、現在は神奈川教区に属している。大町所在。祇園山長楽寺安養院と号す。開山は願行房国憲静、開基は北条政子。嘉禄元年(1215)三月、夫源頼朝の菩提を弔うために夫人政子が佐々目ケ谷に建立した長楽寺という律宗のこの寺が前身と伝える。鎌倉時代末期に浄土宗善導寺の跡(現在地)に移って安養院と号したという。名越派の本山として浄土宗となったのもこの頃からからしれない。もっとも、開山の願行上人は兼学の人なので、開創当時からその母体はあっただろうが……。

鎌倉 将軍御成の門があったという「妙法寺」

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 旧本山は大本山本圀寺(六条門流)。通師・堀ノ内法縁。
 建長5年(1253年)に日蓮が安房より移り住んだ松葉ヶ谷草庵跡に開かれたとされ、現在も境内奥の山腹に「御小庵趾」の碑がある。ただし、ごく近隣の安国論寺、長勝寺も、それぞれ松葉ヶ谷草庵跡を称しており、すべて開山は日蓮、創建は草庵が置かれた建長5年としている。
実質的な開山は日蓮より数えて第5世となる楞厳法親王妙法房日叡(りょうごんほうしんのうみょうほうぼうにちえい)で、延文2年(1357年)のことである。